加藤清正「昭君之間のミステリー」

加藤清正について調べてみた

  • 加藤清正
    (清正像)
  • 熊本城
    (熊本城)
  • 清正神社
    (清正神社・本圀寺)
  • 開運門
    (開運門・本圀寺)
  • 開運門立て札
    (開運門立て札)
  

2016年4月14日、熊本は最大震度7という巨大地震に襲われ、大きな被害を受けました。熊本のシンボルである熊本城も、天守の瓦は剥げ落ち、石垣の3割以上は崩落するなど見るも無残な姿となりました。その中で、一部破損した飯田丸五階櫓を隅石の1本柱が支える姿が見る人の感動を呼びました。熊本城を築城したのは加藤清正だということは知っていましたが、加藤清正は戦国武将の中でも主役となる存在ではなく、あまり興味はありませんでしたが、この隅石1本柱でがぜん興味を持ち、調べて見ることにしました。まず手始めに、2007年に復元された本丸御殿にある豪華絢爛で知られる「昭君之間」の言い伝えの検証から始めることとしました。何故なら、観光案内などでは「昭君とは将軍の意味であり、豊臣秀頼のこと。清正は、豊臣恩顧の大名であり、将来秀頼が徳川幕府により大坂城を追われたとき、ここに迎え入れ、西国大名を糾合して徳川幕府と戦うことを意図していた」などと書かれており、これに以前から疑問があったからです。調べた結果、やはりこれは間違いということが分かりましたが、これ以外にもたくさんの間違った清正像が作られていることが分かりました。折角なので、今後の清正像検証の一助となればと思い、発表することとしました。これに加え、清正調査の過程で熊本城復興などについても感じることがありましたので、書いてみました。一感想として素読して頂けましたら幸いです。

2018年1月20日 by 八咫烏

内   容

1.昭君之間のミステリー
熊本城の本丸御殿に「昭君之間」という格式の高い謁見の間があります。1610年頃完成したとされています。書院造りで、高貴な人が謁見する場合に使われる鉤上段が設けられ、天井は折り上げ格天井の花天井となっています。花天井に描かれた花は、仏さまに添えるものと言われており、熱心な法華信者の清正らしいものです。床間の正面奥の壁一面および右横の帳台構には、中国前漢時代に政略により北方の匈奴の国王に嫁ぐこととなった漢の官女王昭君の物語をモチーフとした絵が描かれていたところから、「昭君之間」と呼ばれていたということです。安土城や伏見城の様式に似ており、安土城では、絵は信長が直接指示して描かせたと言われており、王昭君の絵も清正が直接指示して描かせたものと思われます。清正は、通常隣の若松之間で謁見していたと言われており、このような豪華な「昭君之間」が何のために(誰のために)作られたのかミステリーとなっています。観光案内などでは、「昭君とは将軍の意味であり、豊臣秀頼のこと。清正は、豊臣恩顧の大名であり、将来秀頼が徳川幕府により大坂城を追われたとき、ここに迎え入れ、西国大名を糾合して徳川幕府と戦うことを意図していた」などと説明されています。しかし、豊臣家は関白家であり、将軍にはなれません。昭君を将軍の意味とするのは正しいのですが、その将軍とは・・・詳細はPDFでこちらから。(PDFを読むためにはAdobe Acrobat Reader DCが必要です。こちらからダウンロードして下さい。)
2.八十姫の婚約と嫁入りの実現
1611年6月、清正は死去します。1609年に次女八十姫と徳川家康十男頼宜(後の初代紀州藩主)の婚約が決まり、八十姫の徳川家への嫁入りを楽しみにしていた中での出来事でした。家康が清正の次女八十姫を息子頼宜の嫁に迎えようとしたのは、豊臣家の徳川臣従の説得を豊臣家とも繋がりが深い清正に期待したからです。清正が死去したとなれば、この目論見は水泡に帰し、婚約は解消になってもおかしくありませんでした。現に八十姫が嫁入りしたのは、婚約の8年後でした。八十姫の嫁入りの実現には、清正正室かな姫(家康の養女で従妹。法名清浄院。)およびその実家水野家と徳川家との深いつながりがありました。・・・詳細はPDFでこちらから
3.清正は朝鮮で何故鬼上官と呼ばれたか
清正が朝鮮に出兵した際、鑓で虎を退治した話は有名です。しかし本当は、仕留めたのは鑓ではなく鉄砲だったと言いますし、虎狩りは、清正だけでなく朝鮮に出兵した多くの武将が行っており、取り立てて清正だけに語られるような話ではありませんでした。朝鮮での清正は、あまり大した活躍はしていません。一番有名なのは、蔚山城籠城戦であり、食料と水が枯渇した厳しい寒さの中で約2週間籠城し戦い抜いたことです。清正は、武将としては大したことなかったというのが実体だと思われます。その分、他の武将と比べて特別残虐なことも行っていません。なのに、韓国では今でも鬼上官と呼ばれ、一番の憎悪の対象だと言います。これは、他の武将と比べて特別残虐なことをしたからではなく、朝鮮2王子を捕虜とし、約1年間連れ回したことが原因のように思われます。・・・詳細はPDFでこちらから
4.清正召還は小西の讒訴が原因ではない
1596年5月、清正は、秀吉の召還命令により朝鮮から帰国させられます。この原因については、明との和議を巡り清正と対立する小西行長や石田三成が讒訴したからと言われています。しかし、どうも違うようです。確かに、秀吉の召還命令では、小西や三成が讒訴した内容(小西を商人上がりと馬鹿にした、明への手紙に朝臣と言う許されていない呼称を使ったなど)を上げていますが、これらは切腹もあるというほどの行為ではありません。これは、明の和議使節が清正が朝鮮に在陣していることを一番の理由に挙げ日本渡航を拒んでいたため、清正1人を帰国させ、和議使節の日本渡航を実現しようとしたものであり、秀吉・小西・三成らが仕組んだ芝居だったのです。それを根が単純な清正が、召還は小西・三成の讒訴が原因と考え、小西と三成を恨んだようです。・・・詳細はPDFでこちらから
5.関ケ原の戦いは朝鮮の役の遺恨の決着戦
関ケ原の戦いは、西軍豊臣方と東軍家康方の戦いと言われていますが、実際に戦いに参加したのは、ほぼ全員秀吉に取り立てられた武将であり、家康子飼の武将は、井伊直政と松平忠吉しか参加していません。これで分かるのは、関ケ原の戦いは、豊臣政権の内部抗争の性格が強いということです。前年の3月には、清正ら七将が三成を襲撃する事件を起こしていますが、これは朝鮮の役での遺恨が原因でした。関ケ原の戦いでは、このときの七将は全員東軍に就いています。関ケ原の戦いは、七将襲撃事件で三成抹殺を遂げられなかった七将にとってはその延長戦であり、朝鮮の役で三成らに遺恨を持つ他の武将にとっては、その決着戦だったのです。・・・詳細はPDFでこちらから
6.天草の上知と豊後三郡の取得の経緯
清正は関ケ原には参戦していませんが、東軍に就くことを表明し、九州で西軍の小西や立花宗茂の城を開城させ、その論功行賞として、肥後1国を与えられました。しかしこの際清正は、天草を上知し、代わりに豊後3郡の一部を領地としています。豊後3郡の一部は、瀬戸内海に出る鶴崎の港とその移動の際に宿場を置く所であり、戦略的な着眼に基づくものです。家康の豊臣恩顧の大名囲い込みに付け込んで重要な場所をピンポイントで抑えた清正は、優秀な戦略家だったことが分かります。家康がこれを認めたのには、三成挙兵の際に、清正の正室となっていた家康の養女(従妹)清浄院の苦難の大坂脱出劇があったからです。・・・詳細はPDFでこちらから
7-1.故郷に錦を飾った名古屋城普請
1610年、家康(徳川幕府)は、清正や福島正則、池田輝政ら西日本の大名に命じて、名古屋城を築城させます。福島正則が「なんで妾の子(尾張藩主徳川義直)の城まで普請させられるんだ。」と不満を言う中で、清正の奮闘ぶりは評判でした。清正は、最も目立つ天守台を担当しました。その石垣に使う石を運ぶのに清正が行った石遣りは、京から女役者を呼び、美しく着飾った小姓たちを石に乗せ、自ら先頭の石に乗って音頭をとり、集まった人たちには酒を振舞うなど賑やかなお祭り風で、評判になりました。これ以外にも清正は、近くの丘陵の土を運び、城の周りの湖沼や低地を埋め、城下町を作るための土地の造成まで行っています。清正が率いた肥後衆は、行儀も良く、名古屋の人たちから愛されました。清正は何故これほど頑張ったのしょうか?それは、前年次女八十姫と家康十男頼宜との婚約が決まり、徳川の親戚になっていたことと、清正にとって尾張名古屋は、生まれ育った土地だったからです。・・・詳細はPDFでこちらから

7-2.名古屋城の金の鯱、発案者は大久保長安!?
山岡荘八の「徳川家康」では、名古屋城の屋根に金の鯱を載せる提案をしたのは清正という設定になっています。しかし、清正は天守台の普請担当であり、金の鯱は作事担当の領域と思われることから、仲間を大切にする清正がこんな出過ぎたことをするとは思えません。しかし、家康にこんな提案をできるのは清正くらいしか思いつかないのも事実でした。ここであるとき、名古屋城のホームページを見ていたら、作事奉行の中に大久保長安の名を見つけました。大久保長安といえば「徳川家康」の中でも多くの紙数を割いて書かれている人物です。甲斐の武田の家臣ながら家康に取り立てられ、幕府の金山・銀山を一手に取り仕切るとともに、街道を整備し一里塚制度を作るなど徳川幕府の商業制度の発展に貢献した人物です。金山・銀山については、当たり外れがあるため、大久保長安と幕府との間では、収益の分配は産出量に応じた歩合となっていました。大久保長安が担当となって暫くは、産出量は右肩当たりに伸びたため、大久保長安の取り分は膨大となり、大久保長安は現物分配された金や胡麻化して手に入れた金を大量に保有していました。しかし、その後金や銀の産出量が減ると共に、大久保長安について悪い話が目立ち始めました。そのため、大久保長安としては、家康の気を引く乾坤一擲のプランが必用だったのです。それが名古屋城の屋根に金の鯱を載せると言うプランでした。 ・・・詳細はPDFでこちらから

8-1.加藤家改易問題
1632年5月、清正の後肥後藩主になっていた清正の三男忠廣は、幕府より改易を申し渡されます。この加藤家改易は、徳川幕府の豊臣恩顧の大名家取り潰し政策の一環と言われていますが、それは間違いです。加藤家は、清正の正室には家康の養女(従妹)を迎え、清正長女あま姫は、最初徳川四天王の一人榊原康政の嫡男康勝に、康勝死去後は大坂城代阿部正次の嫡男正澄に嫁ぎ、次女八十姫は、家康十男で後に初代紀州藩主となる徳川頼宜に嫁ぎ、第二代藩主忠廣の正室には、将軍秀忠の姪(妹の娘)を迎えるなど、徳川の有力な姻戚大名となっていました。加藤家が改易になったのは、いくつかの理由が重なってのもので、きっかけは忠廣嫡男光正の将軍暗殺廻状事件ですが、処分の申渡し状では、忠廣が最近「諸事無作法」であるためとされています。「諸事無作法」の中身としては、忠廣が側室に入れあげ徳川血筋の正室を蔑ろにしていたこと、忠廣が将軍家光の父で前将軍秀忠の寵愛を受けていることをよいことに、現将軍家光を蔑ろにしていると思われる行動を取っていたこと、領国肥後で藩政に対する領民の不満が高まっていたこと、などが考えられます。改易になる2カ月前の3月に、それまで忠廣の後ろ盾だった前将軍秀忠が死去したことが最大の不運でした。・・・詳細はPDFでこちらから

8-2.加藤家改易は徳川頼宜を抑え込むため
加藤家改易問題については当初7-1のように捉えていましたが、山岡荘八「徳川家康」や「徳川家光」を読み、徳川幕府内の事情を知るともっと別の原因があったことが分かりました。加藤家改易は、大御所秀忠死去により家光将軍体制が実質的にスタートする時期に行われましたが、当時の幕府には、家光と年が近い秀忠の3人の弟たちが徳川御三家として控え、そのままでは家光将軍体制の障害になる存在だったのです。とりわけ、紀州藩主徳川頼宜は、秀忠・家光将軍時代に盛んに行われた改易処分により増加した牢人を危惧し、紀州藩で牢人を雇い武備を強化するなど、幕府に批判的ともとれる行動が目立ちました。そこに加藤藩藩主忠廣の嫡男光正が問題を引き起こします。頼宜には忠廣の姉八十姫が正室として嫁いでおり、加藤家の処分は頼宜にもダメージを与えます。忠廣は光正の行動には全く関与していないことは幕府の取り調べでもはっきりしていました。忠廣にもいくつか問題のある行動があったのは事実ですが、それらは改易処分に相当するようなものではありませんでした。それは幕府の処分言い渡しのなかで「諸事不作法」とう言葉が使われていることからも分かります。それにもかかわらず、幕府が加藤家を改易処分という重い処分にしたのは、これにより頼宜を抑え込もうとしたからでした。・・・詳細はPDFでこちらから

9.清正が将軍就任を夢見た娘婿徳川頼宜
熊本城本丸御殿に「昭君之間」という格式の高い謁見の間がありますが、これは長い間、「豊臣秀頼が徳川幕府に大坂城を追われた場合に、ここに匿って、西日本の豊臣恩顧の大名を糾合し、徳川幕府と戦うために清正が造ったもの」と言われてきました。しかし、これは間違いで、1609年に清正の次女八十姫と家康の十男頼宜が婚約し、1610年に婚約の儀式が行われることとなったことから、造られたものです。これから「昭君之間」の昭君とは、将軍のことであることが分かります。清正は、この「昭君之間」に将来将軍となった娘婿頼宜を迎えることを夢見たのです。   頼宜は家康の寵愛を受け、生まれてから16年間家康の元で育っています。家康に従って大坂の役にも出陣しています。秀忠将軍の次の将軍については、秀忠長子家光と次男忠長が有力と見らていましたが、当時は家康の鶴の一声で決まる状況でした。従って、家康から最も寵愛を受けている頼宜が将軍に指名されてもおかしくなかったのです。これが長子相続制と決まったのは、1616年のことで、家康4男松平忠輝が将来将軍の座を狙う恐れがあるとして、家康から勘当される出来事があったためです。鎌倉幕府や室町幕府は将軍承継を巡って争いが起こり、崩壊しました。家康はそれを恐れ、長子相続制を宣言したのです。これにより、頼宜将軍の目はなくなりましたが、頼宜は逸材であったため、将軍を脅かす存在として、将軍側近から警戒され続けられます。このように頼宜は、清正が将軍就任を夢見たのも当然な人物だったのです。そして清正の夢は、頼宜の孫吉宗が第8代将軍に就任することによって叶います。・・・詳細はPDFでこちらから
10.清正復活の背景
清正は1611年に死去し、1632年には加藤家は取り潰しになっていますから、普通なら、次の肥後藩主となった細川家によって清正の記憶は跡形もなく消し去られます。細川家も初代忠利は清正の位牌を掲げ熊本城に入り、菩提寺である本妙寺も保護したと言いますが、徐々に保護を減らすなど、清正の影響力を消しにかかたようです。こうして1700年に入る頃には、肥後においても清正のことが語られることはなくなっていたと思われますが、その後清正は突然蘇るのです。それは、第3代紀州藩主徳川吉宗の第8代将軍就任がきっかけです。吉宗は、初代紀州藩主徳川頼宜の孫に当たり、祖母は清正の次女八十姫です。吉宗の父は、頼宜が側室に産ませた子であり、吉宗と八十姫の間には血のつながりはありません。ただし、側室は使用人扱いであり、側室が生んだ子は正室の子として育てられることから、吉宗の祖母は八十姫と言うことになります。吉宗が生まれる前に八十姫は亡くなっていますので、吉宗は祖母の八十姫を知らず、従って八十姫の父である清正のこともほとんど知らなかったと思われます。ところが吉宗は、将軍就任後、細川藩を通じて清正の資料の閲読と遺品の閲覧を要望するのです。では何故突然吉宗は、外曾祖父清正に関心を持ったのでしょうか?それは、吉宗が将軍に就任したとき、幕府老中に清正血筋の者がいたからです。それは清正の長女あま姫の血筋に連なる老中・・・詳細はPDFでこちらから
11.「豊臣恩顧」が「忠義の武士」に変質
清正は、豊臣恩顧の大名の代表のように言われますが、これは間違いです。確かに秀吉から若くして大名に取り立てられたという意味では、豊臣恩顧の大名ですが、「生涯にわたり豊臣家に忠義を尽くした大名」という本来の意味では、豊臣恩顧の大名ではありません。なぜなら、清正は、秀吉死後1年もせずに、家康の養女(従妹)を正室にするなど家康との結びつきを強めています。その後長女あま姫は、徳川四天王の1人の榊原康政の嫡男に、次女八十姫は、家康十男の頼宜に嫁がせるなど徳川の有力な姻戚大名となっています。今なお豊臣恩顧の大名と言われながら、徳川幕府によって忠義の武士の代表に祭り上げられた清正。これには清正に対する家康の見方の変化や吉宗将軍の誕生、寛政の改革を主導した老中松平定信の存在がありました。・・・詳細はPDFでこちらから
12.加藤清正の実像
現在語られている清正像は、1800年前後から忠義の武士の代表に祭り上げられ、明治・大正・昭和の戦中まで、国民に国家・天皇に忠義を尽くすことを求めるために利用された清正像に符合するように作り上げられたものです。清正の歴史を順に追っていくと、清正の実像が浮かび上がってきます。清正は、言われているような大男でもなく、猛将でもありません。小柄で優しい顔つきの律儀な人物だったと思われます。そのため秀吉は、清正を合戦畑の武将ではなく、政権スタッフとして育てようとしたと考えられます。それは主計頭という官位からも伺えます。清正は、合戦では華々しい成果を上げていません。ただし、逃げない、人を裏切らない、誰に対しても誠実などの人間性は、武将の間でも評価が高ったように思われます。そして何より優れていたのは、藩の経営手腕です。肥後54万石には不釣り合いな巨大な熊本城を築城した結果、それに見合う藩としての格式が求められ、出費が膨らみます。その結果、肥後藩の経営には、75万石相当の石高が必要となりますが、清正は、それを河川改修や新田開発で実現します。さらに幕府から命じられる城普請や娘たちの嫁入り費用、本丸御殿の建築費用などの特別な出費については、朱印船貿易を3回行い賄っています。清正は、今でいえば土木建設業務と貿易業務に通じたマルチな経営者でした。・・・詳細はPDFでこちらから
13.清正が生きていたら歴史はどう変わったか
清正は、1611年3月に家康と豊臣秀頼の二条城会見の実現に奔走し、実現に漕ぎつけます。清正の二条城会見の際の立場は複雑で、秀頼が淀川を京に上るに際しては川岸を警備し、伏見に付くと娘婿になる頼宜と並んで、秀頼を出迎えます。そして秀頼が二条城に行く際には、秀頼の駕籠を警護します。家康と秀頼が懇談している際には、別室で頼宜と共に、秀頼に付き添った豊臣方家臣を慰労しています。懇談後、秀頼は、秀吉を祀る豊国神社にお参りし、再建中の方広寺を視察しますが、これには清正も同行しています。その後、清正は伏見の清正屋敷で秀頼をもてなし、淀川を大坂城に送り出しています。清正はこの後伏見または大坂に滞在し、6月に船で帰国の途に就きますが、船中で倒れ、6月24日に熊本城で死去します。  家康は清正に、豊臣家が徳川幕府に臣従するよう説得することを期待していましたが、これで不可能となりました。これにより大坂の役への歩みが始まったと言ってよいと思われます。では、清正が生きていたとしたら、その後の歴史はどうなったのでしょうか。やはり大阪の役は避けられなかったと思われますが、豊臣家は滅ぼされことなく存続できたと思われます。・・・詳細はPDFでこちらから
14.清正の風下に立たされ続けた細川家の憤懣
1632年、加藤家が改易になった後、肥後藩主となったのは細川家でした。細川家は室町時代から続く名門大名家です。加藤家が肥後藩主だったのは48年間ですが、細川家は約240年も肥後藩主を務めています。加藤家改易後、豊前小倉から肥後入りした細川忠利は、清正の位牌を抱いて熊本城に入り、「清正公、お預かりします。」と述べたと言います。しかし、既に3藩の経営を行ってきた藩経営のプロを自認する細川家としては、直ぐ細川色に染めてしまう自信があったと思われます。その後細川藩は清正の菩提寺本妙寺への保護を減らすなど、清正色の払拭を図っています。そのため、1700年頃には、清正や加藤家の記憶は、肥後の人たちから薄れていたと思われます。しかし、1716年紀州藩主徳川吉宗が幕府8代将軍に就任したことにより、清正が突然蘇るのです。それは、吉宗の祖母が清正の次女八十姫だったことが原因です。吉宗が清正に関する史料の閲読と遺物の閲覧を細川家に依頼したことから、清正は肥後藩の創業者のような位置づけとなりました。その後も清正は、幕府が求める忠義の武士像に祭り上げられ、清正を神として祀る神社も現れます。こうなると細川家は、清正オーナーから肥後間を預かるオーナー代理のような存在になってしまいます。これは、名門を自認する細川家にとっては憤懣だったと思われます。・・・詳細はPDFでこちらから
15.熊本城と熊本
難攻不落の巨大な熊本城が作られたのは、一般的には薩摩への備えのためと言われていますが、それは間違いです。清正が熊本城築城に着手したのは、朝鮮で秀吉死去の報に接してからと言われています。朝鮮で秀吉死去の噂が広がったことから、明・朝鮮軍は西路・中路・東路の3方向から夫々3万を超える大軍で、また西側海上からは水路軍も動員し、朝鮮南部の倭城に籠る日本軍へ総攻撃を開始します。清正が守る蔚山城も約3万の明・朝鮮軍に包囲・攻撃されますが、完ぺきに守り抜きます。その後家康から速やかに撤退するよう命令を受け、清正らは命辛辛に帰国します。秀吉死去を知った明・朝鮮軍は、今度は報復として日本に侵攻することも考えられました。そのため清正は、明・朝鮮軍の日本侵攻に備えて、蔚山城の経験を生かした熊本城を築城したのです。清正にとって薩摩は、秀吉軍で勝利しており、朝鮮では島津義弘と交流があったことから、巨大な熊本城を築いて備えなければならないような対象ではありませんでした。清正のこの意図を知っていたからこそ、家康も止めなかったのです。この巨大な熊本城は、肥後熊本藩の格式を上げましたが、それに見合う出費が必要となり、藩の財政を苦しくしました。その後も熊本城は、熊本の風土の形成に大きな影響を及ぼしました。城は、地域の求心力となりますが、一方では陋習から抜け出せなくもします。・・・詳細はPDFでこちらから

16.熊本城復興に向けて
熊本城は2016年4月の地震で天守や多くの建物が損壊し、石垣は約3割が崩落したと言います。熊本城内は国の特別史跡され、宇土櫓など13棟は国の重要文化財に指定されているため、石垣の石1個から国の所有物であり、国の責任と費用で復興されるようです。その結果、熊本城の指定管理団体である熊本市には、復興費用の負担がそれほど係らないため、独自の復興費用の募集に力が入っていないように見えます。復興城主の募集を行っていますが、これだけ集まらないと復興できないという切迫感がないため、成り行きベースになっています。その証拠が1年間の復興城主の募集実績です。熊本城復興は、全熊本市民・全熊本県民の願いなどという言葉が聞かれますが、熊本県民からの応募はわずか約3万人です。これから言えることは、本当に熊本城復興を願っている熊本県民は、わずか3万人程度であると言うことです。・・・詳細はPDFでこちらから

17.清正とNHK大河ドラマ
熊本県と熊本市では、清正をNHKの大河ドラマで取り上げて欲しいとNHKに要望しているようです。2014年に福岡の黒田官兵衛が取り上げられ、今年は鹿児島の西郷隆盛が取り上げられることから、熊本で清正を取り上げて欲しいという声は今後ますます大きくなると思われます。しかし、歴史上清正が活躍するのは、1592年から1598年までの朝鮮の役であり、これは侵略戦争であることから取り上げる訳にはいきません。そうなると対象となる人生は、1598年12月に帰国してから死去する1611年までのわずか12年間となります。その中で清正の活躍を拾うと、1599年3月の七将襲撃事件、関ケ原の戦いの際の九州での宇土城攻めや立花宗茂説得、家康と豊臣秀頼の二条城会見の設定くらいです。その後の一大事件である大坂の役の際には、清正はいません。これで分かるように、清正1人を主役とした大河ドラマは成立しません。しかし、清正の正室清浄院の大坂脱出劇や長女かな姫の徳川四天王の1人榊原康政嫡男への嫁入り、その後の大坂城代阿部正次嫡男への嫁入り、次女八十姫と家康十男頼宜との婚約・嫁入り、忠廣が藩主に就任した後に起きた牛方馬方騒動、忠廣嫡男光正の某書事件と加藤家改易、忠廣の配流先での生活、忠廣死去後の清正の遺品引継ぎを巡る動き、更には吉宗の将軍就任と清正の復活など清正一族を巡る物語にすれば、面白い大河ドラマとなります。・・・詳細はPDFでこちらから

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