熊本城「昭君之間」のミステリー

熊本城の本丸御殿に「昭君之間」という格式の高い謁見の間があります。1610年頃完成したとされています。書院造りで、高貴な人が謁見する場合に使われる鉤上段が設けられ、天井は折り上げ格天井の花天井となっています。花天井に描かれた花は、仏さまに添えるものと言われており、熱心な法華信者の清正らしいものです。床間の正面奥の壁一面および右横の帳台構には、中国前漢時代に政略により北方の匈奴の国王に嫁ぐこととなった漢の官女王昭君の物語をモチーフとした絵が描かれていたところから、「昭君之間」と呼ばれていたということです。安土城や伏見城の様式に似ており、安土城では、絵は信長が直接指示して描かせたと言われており、王昭君の絵も清正が直接指示して描かせたものと思われます。清正は、通常隣の若松之間で謁見していたと言われており、このような豪華な「昭君之間」が何のために(誰のために)作られたのかミステリーとなっています。観光案内などでは、「昭君とは将軍の意味であり、豊臣秀頼のこと。清正は、豊臣恩顧の大名であり、将来秀頼が徳川幕府により大坂城を追われたとき、ここに迎え入れ、西国大名を糾合して徳川幕府と戦うことを意図していた」などと説明されています。しかし、豊臣家は関白家であり、将軍にはなれません。昭君を将軍の意味とするのは正しいのですが、その将軍とは・・続きはこちら http://www.yata-calas.sakura.ne.jp/