明智光秀・徳川家康・春日局を繋ぐ点と線

私は昨年山岡荘八の「徳川家康」26巻を読破し、山岡荘八の歴史小説家としての凄さを知り、また徳川家康の人間性に興味を持ちました。そこで、続けて山岡荘八の「徳川家光」4巻も読むことにしました。その中で割とたくさん登場した春日局にも興味を持ちました。春日局は、徳川幕府第3代将軍徳川家光の乳母として有名ですが、その他に江戸城大奥の創設者で、江戸時代きっての女性政治家と言われています。よく知られているように春日局は、本能寺の変で織田信長を自害に追い込んだ明智光秀(以下光秀)の腹心で、実行責任者として京の六条河原に首を晒された斎藤利三(以下利三)の娘です。それが将軍跡継ぎの家光の乳母になったのも不思議でしたし、その後江戸時代きっての女性政治家になり、従二位の官位にまで上り詰めたのも不思議でした。こうなったのには因果関係があったはずで、利三とその娘福(後の春日局)を家光の乳母に決めたと言われる家康、そして福の間にきっと繋がりがあったはずと考えて調べてみました。利三についての資料は少なく、光秀が本能寺の変を決行した前後に利三に関する記述が登場することから、光秀の行動を追うことによって利三と家康の繋がりを追うこととしました。

調べた結果、次のことが分かりました。

・光秀は家康に感謝していた。

・利三と家康の直接的な繋がりは見つからなかった。

・信長は光秀を高く評価していた。

・光秀が本能寺の変の決行を決めたのは利三を守るため。

・信長は光秀を美濃国守にすることを考えていたかも知れない。

・福は利三との関係からではなく、元夫稲葉正成との関係からスカウトされた。

・福は将軍跡継ぎを生む任務を帯びて江戸城に入った。

・家光は福が生んだ子であり、否定する方が難しい。

・家康が家光を後継将軍に指名したのは、大坂の役で考えることがあったため。

「エッ!そんな馬鹿な」と思われる内容が含まれていると思いますが、読んで頂ければ十分あり得ることだと理解して頂けると思います。(こちらはPDFで短くなっていますhttp://www.yata-calas.uh-oh.jp/

 

1.信長、信濃・甲斐討伐

天正10年(1582年)2月、信長は武田勝頼の信濃・甲斐討伐を決定し、長男信忠を大将とする信忠軍団を派遣します。信忠軍団は、先鋒森長可(ながよし。森蘭丸の父)、本隊河尻秀隆ら約3万人でした。その頃の武田では、信玄の急死(1573年)後庶子ながら武田勝頼が後継となりましたが、長篠の戦いでの敗北(1575年)、美濃岩村城落城(1575年)、高天神城落城(1581年)など敗北が続き、また出兵が続いていたことから、人心が徐々に勝頼から離れていました。そこで信忠軍の信濃侵攻では、武田軍の寝返りが相次ぎました。戦いらしい戦いは、3月初めの武田家親族の仁科盛信が守る高遠城の戦いくらいでした。この後勝頼は、諏訪を放棄し、天目山(山梨県甲州市)方面に逃走します。その後に信忠が入り、諏訪に織田軍の本陣を置きます。

この頃、周囲の同盟関係でも大きな変化が生じていました。武田は、1553年駿府の今川、相模の北条と三国同盟を結んでいました。相模の北条とは、越後の上杉謙信に対抗するためであり、駿河の今川とは、上杉との戦いに専念するうえにおいて南からの危険をなくすためです。これは機能していたのですが、1560年の桶狭間の戦いで今川義元が信長に敗れて、今川が弱体化したことから、武田は徳川と談合し、1568年今川領駿府に侵攻します。武田は、北条に駿府割譲を持ちかけますが、長い間の駿府との友好関係を重視する北条は拒否します。ここで、三国同盟は瓦解しました。そして翌年武田は、北条領内に侵攻します。一方北条は、武田に対抗するため上杉と同盟を締結します。また天正7年(1579年)には家康と、天正8年(1580年)には信長と同盟を結びます。このように武田は、周囲をぐるりと敵に回していたのです。

そのような状況で家康は、岡崎城から掛川城を経由し、武田領である駿府に侵攻します。駿府は、武田一族の穴山梅雪が支配していましたが、勝頼に愛想を尽かしていた梅雪は、家康に寝返ります。このとき梅雪の説得に当たったのが、家康家臣の長坂血鑓九郎信宅(のぶいえ)です(大坂の役の際、家康6男忠輝が自分を追い越したとしてその子孫に当たる長坂血鑓九郎信時を斬殺し、家康が忠輝を勘当する原因の1つとなる)。梅雪は、本能寺の変の際、家康と共に堺におり、家康一行の伊賀越えの際、別行動を取り殺害された人物です。家康は、梅雪の導きにより駿府方面から甲斐に侵攻します。

相模の北条氏政は、2月末頃から伊豆から駿河東部の沼津方面に侵攻し、更には上野(こうずけ)方面に侵攻します。

こういう中で、3月7日には信忠が甲府に入り、天目山方面に逃走した勝頼を追撃します。追い詰められた勝頼は、3月11日天目山で自害します。これで清和源氏の名門甲斐武田は滅亡しました。この武田滅亡が、信長と対立する四国の長宗我部元親や秀吉が対峙する中国の毛利勢の姿勢に影響を与えます。

このとき信長は、まだ美濃領内でした。信長軍団に属したのは、明智光秀、細川忠興、筒井順慶、丹羽長秀、堀秀政、長谷川秀一、蒲生氏郷、高山右近、中川清秀などで、当初6万人の動員を計画していたと言います。このメンバーを見ると、ほぼ全員近畿地区の大名であり、天正8年(1580年)8月高野山に追放された佐久間信盛に代わって、明智光秀が近畿地区の総大将に就任していることが伺われます。信長は3月21日に諏訪の本陣に到着し、論功行賞を行いました。その結果、甲斐は大部分を河尻秀隆に(一部は梅雪の所領として安堵)、北信濃は森長可に、上野は滝川一益に、駿府は徳川家康に、木曽谷は武田氏外戚で信長側に寝返った木曽義昌の所領として安堵などと決定しました。

ここで注意すべきは、梅雪の所領です。甲斐国南部の一部を占め、甲斐国の大部分を支配する信長勢(河尻秀隆)にとっては目障りなのです。信忠は武田一族および武田家重臣は見つけ出して殺害する方針でした。梅雪は、武田一族(母が信玄の姉。正室が信玄の娘)ながら、家康の説得に応じて寝返ったため、家康との関係で許されたものでした。そのため、信長家臣(甲斐に領土があるため)ながら家康与力となっています。梅雪は、家康に伴われ諏訪の本陣で信長に面会した際、信長から冷たい扱いをされたと言われています。従って、信長の招待により安土城を訪れた家康一行に梅雪が入っていたのは、信長の指名ではなく、家康が信長の梅雪に対する覚えを良くしようと同行したものと思われます。本能寺の変を知った後、梅雪が別行動を取ったのは、こんな信長への反発があり、早く甲斐に帰って蜂起しようと考えたからのように思われます。

これにより、旧武田領の織田支配が始まるのですが、ここで1つ注目しておきたい出来事があります。それは、天正10年(1582年)4月5日に起きた出来事です(本能寺の変の約2か月前)。北信濃の飯山は、越後の国境に近い北信濃の要所に当たりますが、ここにある飯山城は、森長可与力として美濃の稲葉貞通が守っていました。4月5日、ここが上杉景勝と結んだ旧武田家臣芋川親正に率いられた地侍など約8,000人に包囲され、陥落の危機に陥ったのです。長可が駆けつけてこれらを打ち払い、不測の事態は避けられます。しかし、これを受け、稲葉貞通は、飯山城守備の任を解かれ、諏訪の本陣に召還されます。稲葉貞通および稲葉家にとっては屈辱的な出来事であったと思われます。この稲葉家と言うのが、福(春日局)の母の実家(祖父の家)なのです。そして、福の父斎藤利三(としみつ)は、かって稲葉家に仕えており、その縁で当時の当主稲葉良通(一鉄。以下一鉄)の娘(福の母)を継室にしていたのです。一鉄は、西美濃の古くからの国人で、信長が斎藤道三亡き後美濃に侵攻した際、信長に内応し、道三後継の斎藤義龍を破るのに貢献、信長に臣従しました。一鉄は、その後も朝倉勢との姉川の戦いで活躍するなど武術に優れ、茶道や能に造詣があり、医道にも関心が高いなど多才であり、信長お気に入りの武将でした。ただし、頑固者で「頑固一徹」の言葉の語源となったと言われています。利三は、こんな一鉄に不満を持ち、親戚の光秀の元に行ったようですが、2度連れ戻されたようですから、決して喧嘩別れではなかったと思われます。一鉄は、天正7年(1579年)、長男重通(美濃清水を領有)が庶子だったことから、次男ながら嫡子である貞通に家督(美濃曽根)を譲っていました。(福は、父利三が本能寺の変で斬首された後、長男重通の養女となったことから、長男が庶子で次男が嫡子であれば、嫡子の次男が家督を相続するという慣習は分かっていたと思われます。)。信長は、稲葉家のこれまでの貢献に報いるため、北信濃の要所飯山を稲葉家に与えようと考えていたと思われますが、貞通の家臣団の人材不足から、その任に堪えられないと判断したようです。そこで一鉄は、貞通を支える有能な人材を確保する必要性に迫られました。そのとき頭に浮かんだのが娘婿であり、かって自分に仕えていたあの男だったのです。実は、これが本能寺の変の遠因(主因?)になって行くのです。

 

2.家康領訪問

信濃・甲斐の仕置きを終えた信長は、駿府・遠江・三河の家康領を通って帰路に就きます。信長が3月初旬に北陸の柴田勝家に出した書状に「関東見物」という表現があるようなので、最初から予定していた行動のようです。信長は天正12年(1582年)4月10日に甲府を出発し、12日に駿府の大宮城(現富士宮市)、13日江尻城(現静岡市)、14日田中城(現藤枝市)、15日遠江の掛川城、16日浜松城、17日三河の吉田城(現豊橋市)、18日池鯉鮒(現知立市)、19日尾張の清州城、20日美濃の岐阜城などを経由し、4月21日安土城に到着しています。

信長一行を迎えた家康は、道中の道路を整備し、辻々に茶屋や厩、用便所などを建て、川には新しく橋を架けたり、舟橋や御座船を用意し、宿泊所では豪華な食事を提供して持て成します。これには信長もひどく感激し、この後家康を安土に招待することとなります。

ここで注目すべきは、家康が光秀をとても丁重に扱っていることです。当代記に「光秀は老人なので信長の宿舎の近くに宿を仰せ付けられた」という記述が残されています。信長が言い付けたとも取れますが、家康が光秀に敬意を表して信長の近くに宿を用意したものと思われます。実質No.2扱いなので、光秀にとって嬉しい家康の配慮であったと思われます。

これを見抜いていた信長は、光秀に家康招待の接待役を命じます。光秀がかって足利幕府に仕え、朝廷や公家との取次役をしていたことから、京や公家の文化に詳しく、家康を驚かす接待を準備できるのは光秀しかいなかったのも事実です。光秀は接待役を名誉に思い、精力的に準備を進めたようです。そして家康一行は天正12年(1582年)5月14日安土に近い番場宿に到着します。ここでは光秀が仮宿所を建て、出迎えます。そして、家康一行が安土に入った翌15日から3日間、家康一行に対する歓待の宴が催されます。場所は大宝院、総見寺、安土城などとの記述が見られます。15日、16日は接待役として当然光秀も出席していたようです。しかし、どうも16日の宴の終了後、信長と光秀の間に信長が激怒するような出来事があったようです。その日の夜光秀は、接待役を免ぜられ、坂本城に帰っています。この日の出来事について、ポルトガル人宣教師フロイスは著書「日本史」で「信長と光秀の間に口論があり、1度か2度信長が光秀を足蹴にした」と書いていますが、口論の内容については触れていません。この部分については、本能寺の変の原因になったと思われるため、その後の軍記物などでもいろいろ書かれ、諸説入り乱れるところとなっており、信長と光秀を取り巻く当時の状況から推論するしかないと思われます。光秀がここで足蹴にされ恥をかかされたため、本能寺の変を起こしたという説もありますが、問題は何が原因でそのように信長を激怒させる事態になったのかということです。

この時点の状況から考えられることは、信長が光秀に至急秀吉支援に向かうよう指示したところ、これに光秀が異論を述べたことです。この頃備中高松城攻めを行っていた秀吉軍は、西から毛利軍5万人に対峙され、不利な状況に陥り、信長に支援要請を行っていました。それも何回か状況を知らせる書状が届いていたと思われます。そこで信長は、光秀の接待役を免じ至急秀吉支援に向かう準備をするよう命じたことが考えられます。これそのものは、極めて妥当な命令なので、最終的には光秀も問題なく従う気だったと思われます。ところがここで光秀は、「承知しました」と言いながら、お願いとして、長宗我部討伐を中止して欲しい(或いは自分に行かせて欲しい)と言ったことが考えられます。というのは、後で述べるように長宗我部元親は、3月に武田が信長勢に滅ぼされたことを知り、信長の指示(長宗我部の領土は土佐と伊予の2カ国だけとする)に従うことを決めていました。これは長宗我部との取次役である光秀にも伝えられていたはずで、光秀は信長に長宗我部討伐中止を進言したと考えれます。または、長宗我部の取次役として自分に行かせて欲しいと言ったとも考えられます。しかし、長宗我部討伐は5月に朱印状(命令)が発行され、織田信孝、丹羽長秀らで6月3日渡海の手筈が整えられていました。これは光秀も重々承知していたはずで、今更言ってもどうにもならないことでした。これを聞いて信長が激怒したことが考えられます。これに加えて、家康一行の接待を最後まで務めさせて欲しいと言った可能性があります。光秀は、信長一行が家康の領地の駿河・遠江・三河を訪問した際、家康に厚遇され、家康に感謝していました。そのため、安土での接待役を精力的に勤めていましたから、何とか最後までやり遂げたいという気持ちが強かったと思われます。しかし、秀吉の窮状を知る信長にとっては、「どっちが重要か分かっているのか」と激怒したくなる話だったと思われます。この問題は、2人の立場と情報格差がもたらしたものです。

このような推論の根拠は、次の秀吉の備中高松城攻めや長宗我部元親の項目を読んで頂ければ分かります。

 

3.秀吉の備中高松城攻め

天正3年(1575年)頃、信長は摂津を支配地とし、丹波・丹後への侵攻を始めていました。一方毛利は、備中・美作・石見・出雲を固めていました。その間の播磨・備前・但馬・因幡・伯耆には、まだ独立色の強い国人が盤踞していました。こんな中、信長と毛利には直接的な争いはなく、友好関係を維持していました。これが崩れ出したのは、天正3年(1575年)8月に信長が自ら出陣して越前を平定してからです。この頃、信長方だった摂津有岡城の荒木村重が支援していた備前の国人浦上宗影が家老の宇喜多直家に謀叛を起こされ、敗れます。宇喜多直家は毛利派だったため、備前が毛利東進の前線となりました。その結果、毛利の侵攻に怯えた播磨の御着城(姫路市)の小寺政職(まさもと)、三木城の別所長治、龍野城の赤松広英らが信長方に着くこととなりました。山陰でも因幡で信長の支援を受けた尼子勝久らが挙兵し、東伯耆の鳥取城に迫ります。丹波には光秀が侵攻し、黒井城を残し平定しました。こうして信長と毛利の対立が決定的となった中、信長により京から追放され、紀伊興国寺にいた足利義昭が毛利領備後鞆に移り、室町幕府征夷大将軍として各地の大名に信長を撃つよう号令を発します。その結果、武田勝頼、上杉謙信、北条氏政や本願寺らが呼応し、信長包囲網が形成されます。

天正4年(1576年)4月、信長は石山本願寺攻めを再開します(第3次)。これを見た毛利は、本願寺勢を支援すべく、淡路島北端の岩屋城を占拠し、ここを経由して海上から本願寺に兵糧や弾薬を運び入れることを計画します。そのため、天正4年(1576年)7月、村上水軍などの強力な水軍を動員し、紀伊の雑賀衆の協力も得て、木津川河口で織田水軍を撃破し、本願寺に兵糧、弾薬を運び入れます。これと並行して、毛利勢は陸路・海路で東進し、姫路まで進出します。ここでは信長方に着いていた御着城(姫路)の家老小寺(黒田)官兵衛の活躍により撃退され、一旦退却します。その後天正5年(1577年)7月、毛利勢は、讃岐・阿波に侵攻し、瀬戸内海の東の制海権を確保します。

これに対して信長は、天正5年(1577年)10月、豊臣秀吉を大将に指名し、本格的な毛利攻めの体制を整えます。秀吉は、小寺官兵衛から居所の姫路城を提供され、ここを本拠とします。これが姫路城発展の始まりです。ここから秀吉の怒涛の播磨平定が始まり、僅か2か月で播磨1国を平定します。しかし、毛利方も黙っておらず、一旦秀吉に奪われた備前・美作・播磨国境近くの要所上月城の奪取に狙いを定め、6万人の兵で攻め立てます。秀吉の兵は1万人程度であったため、歯が立たず、上月城を失うこととなりました。(この際信長が秀吉の支援要請を受け上月城支援に自ら行こうとしたところ、本願寺攻めの大将だった佐久間信盛が止めます。これが後の佐久間信盛追放の原因の1つになったと思われます。)翌天正6年(1578年)2月には、播磨の三木城主別所長治が毛利方に寝返ります。これにより別所長治に与する周辺国人の寝返りが続出し、秀吉は毛利方国人に包囲される状況となります。こうしておよそ2年間に及ぶ三木城合戦が始まります。ここで秀吉は「三木の干(ひ)殺し」と言われる兵糧攻めを敢行します。この最中の天正6年(1578年)10月、信長に臣従していた摂津有岡城主荒木村重が本願寺および毛利と結んで謀叛を起こします。これは1年後の天正7年(1579年)10月有岡城が陥落し終了しますが、秀吉はこちらの戦いにも部隊を割かれることとなりました。この一環で同年6月には、光秀が平定できずにいた丹波に豊臣秀長軍が援軍に入り、6月に矢上城を、8月に黒井城を陥落させ、これで丹波が完全に平定されます(黒井城には光秀家老の斎藤利三が入り、福はここで生まれたと言われています)。

三木城は、戦いの開始から約2年後の天正8年(1580年)1月に、兵糧が尽き陥落します。これと前後し、三木城主別所長治に与していた御着城などの諸城も陥落します。

またこの年天正8年(1580年)3月には、正親町天皇の勅命により信長と顕如が和睦し、本願寺との戦いが終了します。これにより東方が安全になった秀吉は、毛利攻めを本格化します。

山陰方面では、豊臣秀長軍により先ず但馬が平定されます。そして天正9年(1581年)6月、因幡(鳥取東部)の鳥取城攻めに入るのですが、ここで秀吉は又兵糧攻めを用います。この兵糧攻めでは、因幡の米を高値で買い占め、鳥取城内からも売る者があったと言います。また、城下の住人を城内に追い込み、兵糧が尽きるのを速めたと言います。そして丹後細川藩家老松井康之が率いる丹後水軍が毛利水軍を破って、毛利軍の海からの兵糧運び込みを阻止します(この際の松井康之と秀吉との関係が本能寺の変後、細川藩が光秀に与しない原因の1つになったと考えられます。)。これにより兵糧が尽きた鳥取城では、天正9年(1581年)10月、城主吉川経家(毛利で山陰側を指揮する吉川元春一族)と重臣が切腹し、開城しました。

この後秀吉は、伯耆(鳥取西部)に侵攻しますが、毛利の山陰軍の大将吉川元春に反撃され、備前・備中方面に転じます。これは、毛利方から信長方に転じ、備前で毛利の小早川軍と交戦していた宇喜多勢が劣勢になっていたためと考えられます。宇喜多勢では、宇喜多家当主直家が天正9年(1581年)2月に病死していましたが、跡継ぎの嫡男はまだ12才であり、これを隠して戦っていました。そして天正9年(1581年)8月、備前児島の戦いで毛利一族の小早川軍に惨敗を喫していました。秀吉は、この報に触れて備前へ転じたと思われます。

そして、秀吉は天正10年(1582年)3月に備中に入り、備中の毛利方の諸城を次々と陥落させて行きます。秀吉から秀の1字を与えられ宇喜多秀家となった直家の嫡男率いる宇喜多軍も秀吉軍に合流し、備中高松城を攻めることとなります。高松城は三方が沼、一方が広い池に囲まれた要害にあり、秀吉軍は攻めあぐみました。そこで秀吉が採ったのが、水攻めでした。高松城は古代海の湾だった場所にあり、二等辺三角形の底辺を南西方向にした中にありました。2本の等辺部分は山で、底辺部分が湾口部です。底辺部分に沿って近くを足守川が流れ、これまで何度も氾濫を繰り返したため、底辺部分に沿って土砂が堆積し自然堤防が出来ていました。底辺部分の長さ約3kmのうち、2.7kmくらいが自然堤防だったようです。従って、底辺部分の右側の約300mに新たに堤防を築けば、長さ約3kmの完全堤防となりました。秀吉は、お金で雇った農民らを多数動員し、5月8日に工事を開始し、5月19日には堤防を完成させたと言います。その間、堤防の高松城側には板戸を並べ立て、高松城からは何をしているのか見えないようにしていたようです。そのため、5月19日に板戸が外されたときには、約3kmの堤防が突然現れ、高松城に籠る兵は大変驚いたようです。秀吉が小田原城攻めの際、石垣山に築いた一夜城と同じやり方です。

一方、秀吉の水攻めを知った毛利勢も続々と押し寄せて来ます。毛利輝元は高松城から約20km離れた猿掛城(倉敷市)に、小早川隆景は約5km離れた日差山に、吉川元春は約1.5km離れた庚申山に着陣します。この兵約5万人と言われ、秀吉軍の約3万人を遥かに上回っていました。毛利軍が高松城を囲む山の西側から攻めたら、包囲を突き崩すことができたと思われます。そのため、秀吉軍は堤防をもっと高くする時間がなかったと考えれます。何故ならば、高松城は1階部分が床上浸水するくらいに留まっており、約5千人と言われる籠城兵も曲輪の高い部分などに居て無事だったと思われるからです。これでは高松城が更に難攻不落化しただけでした(尚、以後濠に囲まれた城が増えていきますが、このときの高松城を参考にしたものと思われます)。もう少し時間があれば堤防をあと4~5m高く築き、城を水没させることができたと思われます。このように秀吉軍は、相当追い込まれていたと考えられます。従って、秀吉が信長に宛てた支援要請は相当急かす内容であったと思われます。この支援を求める書状が安土城の信長の元に届いたのが、安土で家康を接待していた5月16日頃だと思われます。これを見て信長は、光秀に接待役を切り上げて至急秀吉支援に向かうよう命じたのです。ただ、状況を細かく把握していた信長と当日聞かされた光秀とでは、状況の理解に差があったと思われます。信長の命令を聞いた光秀の反応がどこか緊迫感に欠けたものとなったため、信長激怒に繋がった可能性があります。

尚、本能寺の変後、光秀の敗北を決定付けたのは、知らせを受けた秀吉の果敢な帰還行動でした。いわゆる中国大返しと言われるものです。秀吉は6月3日夜に本能寺の変の一報を受けたと言われています。そしてそれを隠して毛利方との和睦交渉に入り、翌6月4日中に和睦を成立させます。秀吉は、6月6日、和睦条件である高松城主清水宗治の切腹を見届けて、その日の午後2時頃高松城を発ったと言われています。そして7日には姫路城に入り、13日に山崎に布陣していますが、この間約180kmを6日間(移動日)で移動しています。1日約30km移動したことになり、これは武具を付けての移動としては驚異的なことです。特に、高松城と姫路城の距離は約80kmあり、これを約1日半で移動しています。1日約50m移動したことになり、もっと早く出発していたのではとの説もありますが、その後秀吉は天正11年(1583年)4月20日に、美濃の大垣から近江の木之元までの13里(約52km)を10時間で移動するという美濃大返しを行っていますので、事実であってもおかしくありません。ともかく、秀吉の帰還が余りにも早かったため、摂津の有岡城主池田恒興、茨木城主中川清秀、高槻城主高山右近などが秀吉に付くこととなりましたし、光秀が味方してくれると期待した与力の大和郡山城主筒井順慶まで離反させました。また織田信孝、丹羽長秀など信長側近の武将も秀吉に付きました。これは、日々戦いの最前線で臨機応変な判断と果敢な行動が必要とされた秀吉と平和な安土で家康の接待準備に明け暮れていた光秀の置かれた状況の差が現れたものと思われます。

 

4.荒木村重の謀叛

荒木村重は、摂津37万石の大名でした。中京から信長、東海から家康、関東から北条が出ているのだから、近畿から大物武将が出ていてもおかしくなく、この候補が村重でした。

村重は、1535年、摂津池田城主池田長正の家臣荒木義村の嫡男として生まれます。池田家に仕え、長正の娘を娶り、池田家の有力家臣となります。1563年長正が亡くなり、実子でないながら優秀だった池田勝正が家督を継ぎ、嫡男の池田知正と対立しますが、村重は勝正を支えます。当時京は、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友道)が支配し、池田家も三好三人衆に従っていました。しかし、1568年信長が足利義昭を擁して上洛し、三好三人衆を追放すると、足利義昭・信長に臣従します。ここで勝正は、足利義昭から和田惟正(芥川山城=高槻)、伊丹親興(伊丹城)と共に摂津三守護に任命されます。しかし、1570年、村重は再度三好三人衆の1人三好長逸と通じ、足利義昭派の主君勝正を追放し、三好三人衆派の知正を擁立します。そして池田家重臣の中川清秀らと協力して、足利義昭派の伊丹親興、茨木重朝(茨木城主)や和田惟正を攻め破ります(清秀が茨木城主となる)。1573年、高槻城主であった和田惟正の息子惟長が家臣の高山友照・右近親子に殺害され、高槻城は高山親子が支配することとなります。この直後村重は、三好三人衆派の主君知正を追放して池田家の実権を掌握し、信長に臣従します。この際、中川清秀と高山親子も村重と行動を共にします。1574年、村重らは伊丹城の伊丹親興を攻め、自害に追い込みます。ここで伊丹城を有岡城と改名し、村重の本拠地とします。このように当時の摂津には、阿波・讃岐を本拠とする三好一族が攻め込んでいました。これを知った信長は、当初阿波・讃岐の領有も認めていた長宗我部元親との約束を反故にし、阿波・讃岐の領有は認めないと言い出します。

ここまでで分かるように村重は、主君を追放してでも自分の思いを遂げる性向があったようです。また、2人の主君を殺さず追放しているように、むやみに人を殺さないところがありました。村重は、和歌や茶道にも造詣が深く、茶道では利休十哲の1人に入っています。

信長に臣従した村重は、1576年の第3次本願寺攻めにも参加します。準備万端の本願寺勢に織田軍は、天王寺砦付近まで攻め込まれ、大将の塙直政が戦死し、砦には明智光秀が立て籠ります。これを知った信長は、手勢3,000人ほどで約15,000人の本願寺勢の包囲を破り砦に入り、すぐさま籠城兵と合流して反撃に打って出ます。勢いに押された本願寺勢は、本願寺内に撤収しました。この後、本願寺からの支援要請を受けた毛利水軍が多数の船で木津川口に押しかけ、守る織田水軍を撃破し、本願寺に兵糧・弾薬を運び込みます。これにより、本願寺との戦いは持久戦となります。尚、信長は、戦死した本願寺攻めの大将塙直政の後任に、古参の重臣佐久間信盛を任命します。これには、本願寺がある摂津の国守である村重には不満が残ったと言われています。こんな中、天正6年(1578年)2月、村重は、信長の許しを受け、本願寺の顕如と和睦交渉を行っています。これは失敗に終わりますが、この最中に、村重組下の茨木城主中川清秀の家中の者が本願寺側に兵糧(米100石)を渡していたところを信盛配下の軍目付に見つかります。これにより村重は、本願寺との密通を疑われることとなります。

この後村重は、播磨の秀吉支援を命じられますが、村重にとっては、本願寺との密通を疑われてのペナルティのように映ったようです。また、秀吉の指揮下に置かれたことも不満であったと思われます。村重は、着陣した上月城の戦いでは戦意を見せず、天正6年(1578年)10月、突然秀吉軍を離脱して有岡城に帰ってしまいます。これは、信長方からは謀叛と見なされました。

驚いた信長は、光秀・松井友閑・万見重元を派遣して事情聴取と説得を行います。光秀は、村重の嫡男村次に長女倫を嫁がせていました。村重は説得に応じ、母を人質に出すことに決め、信長に釈明するため村次を伴い安土城に向かいます。ところが、途中立ち寄った茨木城で、組下の中川清秀が「安土からの情報によると信長は到着次第村重を処刑する手はずだ」と告げ、行かないよう説得します。村重は、清秀の説得に応じ、謀叛を決行する意思を固め、有岡城に引き返します。そして、本願寺顕如・毛利輝元・足利義昭に同盟を求めます。村重は、村次に嫁いでいた光秀の娘倫は離縁し、光秀の元に返しています。この後も信長は、佐久間信盛、秀吉らを派遣し、思い留まるよう説得しましたが、村重は「野心はない」と言いながら母を人質に出すことには応じず、謀叛を続けました。

こんな中、村重の説得に来たのが播磨の御着城家老で村重と親交があった小寺(黒田)官兵衛でした。村重は、同盟関係にあった官兵衛の主君小寺政職(まさもと)から、「官兵衛は裏切者だから殺害してほしい」という依頼を受けていたようですが、殺害せずに土牢に閉じ込めました。その結果官兵衛は、有岡城が落城するまでの約1年間、土牢に閉じ込められることとなりました。助け出されたとき官兵衛は、やせ細り、足が不自由となっていましたが、村重は、最後まで官兵衛を殺害するつもりはなかったようです。

村重の謀叛の決意を知った信長は、村重に連動すると思われる本願寺勢の様子を見ながら、鎮圧の機会を探ります。村重鎮圧を優先したい信長は、本願寺に和睦の使者を送りますが、本願寺側は「毛利と相談する必要がある」と言い応じませんでした。そんな中、天正6年(1578年)11月6日、毛利水軍が多数の船で木津川口に来襲し、本願寺に兵糧・弾薬の運び込みを図ります。前回敗北していた信長は、織田水軍の九鬼嘉隆に命じ、大砲を積んだ大型の鉄甲船を作らせており、これを用いて毛利水軍を撃退します。これで本願寺は動けないと見た信長は、11月10日、滝川一益、光秀らの兵を動員し、村重組下の中川清秀の茨木城を包囲します。村重組下のキリシタン大名の高山右近には、「村重に従えば、宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を破壊する」と脅し、宣教師のオルガンチーノを派遣し、説得に当たらせます。それに対して、右近の父の高山友照は、村重に従うよう主張しますが、右近は藩主を辞して1キリシタンになる決心をして、信長の元へ向かいます。右近に会った信長は、これを喜び加増(2万石から4万石)の上高槻城主としての地位を安堵します。一方村重に従うことを主張した友照は、村重の元に行き経緯を話し、自身が身代わりになるので人質に入れている娘と右近の子2名の助命を懇願します。村重はこれを聞き入れ、誰も殺害することはありませんでした。

右近が降伏したことを知った中川清秀も降伏し、逆に村重を攻撃する信長軍に加わります。村重謀叛の原因は、清秀家臣の者が本願寺に兵糧を渡したことで本願寺との密通を疑われたことであり、村重に謀叛決行をけしかけた清秀が信長方に寝返ったのは、村重にとって大きな誤算でした。12月8日から有岡城での戦いが始まりますが、有岡城は、東西400km、南北600mに渡る総構えの城で、城内には多数の砦が築かれており、難攻を誇りました。攻める信長方に多数の犠牲者が出たため、信長は、兵糧攻めに切り替え、自身は安土に帰ります。村重は、毛利の救援に期待していましたが、木津川口の戦いで敗れた毛利軍が救援に現れることはありませんでした。そして籠城から約1年経った天正7年(1579年)9月2日の夜、村重は側近5~6名と共に有岡城を抜け出して、猪野川を下り、息子の村次が守る尼崎城に移ります。自身の妻や家族、そして多くの家臣やその家族を城内に残したままの逃亡でした。城主が去った有岡城では、城を守る荒木久左衛門らが頑強な抵抗を続け、陥落しません。そこで信長方は、「村重が尼崎城と花隈城を明け渡せば、本丸に籠る家臣とその家族の命は助ける」という和平案を出し、荒木久左衛門がこれを受け入れ開城します。荒木久左衛門は、村重説得のために尼崎城に向かいましたが、村重は説得に応じませんでした。そこで怒った信長は、城内にいた村重や重臣の家族ばかりでなく、家臣やその家族など600人以上を処刑しました。歴史上信長の残虐性を示す出来事の1つとされています。

ここで、村重の謀叛を考えてみると、何か中途半端です。村重が支配する摂津は、淀川西側から神戸までですから、本気で蜂起すれば信長軍を混乱に陥れることが出来ました。先ず、本願寺を包囲する信長軍を攻撃すれば、本願寺勢と信長軍を挟撃することが出来ました。また、播磨では、備前国境近くにある上月城を毛利軍が攻め、播磨国内では毛利に味方する多数の国人が秀吉に抵抗していましたから、村重が摂津から攻め込めば、秀吉軍を滅ぼすことも可能だったと思われます。なのに村重は、攻撃に出ることがありませんでした。そもそも村重に本気で謀反を起こす気があったのか疑問が残ります。本願寺との密通を疑われ、やる気がなくなったという感じです。村重は若いときから、自分の思う通りにならないと、上司を替え、自分の思う通りにしてきました。今回も自分の思う通りにならず、上司を替えようとしたように思えます。しかし、今回は大義がなく、爆発的な行動にならなかったと思われます。

この村重の謀叛は、本願寺との戦いを終結させ、佐久間信盛追放、光秀の昇進に繋がり、本能寺の変の決行方法にも影響を与えたと思われます。即ち、籠城戦となったら勝ち目がなく、負けたら一族皆殺しになることから、確実に信長を殺害できる方法として本能寺襲撃が考えられたと思われます。

 

5.本願寺との和睦

荒木村重の謀叛の項目で見たように、村重の謀叛は、本願寺および毛利との連携を前提にしていました。本願寺および毛利にとっても異存なかったはずで、これが機能したら、信長は窮地に陥ったものと思われます。村重が本願寺を包囲する信長軍を攻撃し、本願寺勢が寺の中から打って出れば、包囲軍を挟撃することが出来ました。また、村重軍が播磨に攻め込めば、秀吉軍を毛利と播磨の反乱軍で挟撃し、壊滅させることも可能だったと思われます。信長は、これを心配し、本願寺との和睦を探ったようです。そこで信長がとったのが、朝廷を動かして本願寺に和睦を働きかけることでした。本願寺側は村重および毛利と連携していますから、応じるはずがありません。案の定本願寺側は「毛利と話し合う必要がる」と回答し、事実上拒否します。その後天正7年(1578年)11月6日、毛利水軍の多数の船が木津川口に来襲し、本願寺に兵糧・弾薬を運び込もうとしますから、村重・本願寺・毛利の連携は取れていたようです。しかし、信長は、1576年の木津川口の戦いでの敗北を教訓に、織田水軍の九鬼嘉隆に命じ、大砲を搭載した大型の鉄甲船を建造させ、木津川口に配備していました。これが功を奏して、今回は織田水軍が毛利水軍を撃退することとなりました。これにより、当面毛利の救援が望めなくなった本願寺では、兵糧・武器の欠乏が心配される状況となりました。これで本願寺は打って出れないと見た信長は、村重の鎮圧に乗り出します。そして天正7年(1579年)10月、村重の本拠である有岡城が陥落すると、本願寺内でも和睦を探る動きが本格化します。そして今度は、本願寺側から朝廷に信長との和睦の斡旋を依頼します。朝廷は、本願寺に勧修寺晴豊らを勅使として派遣します。一方信長も公家の近衛前久を本願寺に派遣して、妥協点を探ります。これにより天正8年(1580年)閏3月、信長と本願寺の和睦が成立します。そして同年4月、顕如は石山本願寺を退去し、紀伊鷺森御坊に移り、本願寺と信長との戦いは終結します。

この和睦は、信長の命で行われたとなっていますが、信長は、朝廷には敬して近づかずの態度であり、これまで天皇には殆ど会わず、官位さえ受けようとしませんでした。従って、信長は、天下布武の戦いに朝廷を利用する気はなかったし、利用価値があるとも思っていなかったと思います。そのため、信長の側に本願寺との和睦に朝廷を利用するよう進言した者がいると思われます。信長側の朝廷との窓口(取次)は光秀であり、進言した者は光秀しか考えられません。光秀は、勧修寺晴豊らの公家と古くから親しく、信長も朝廷との窓口として光秀を側に置いていたと思われます。本願寺との和睦の件は、本願寺・勧修寺晴豊・光秀の間で根回しが行われ上で、信長に進言されたと思われます。この和睦交渉を光秀が信長に進言したのは、1578年に村重が本願寺との和睦交渉を行ったことに触発されてのことと思われます。本願寺との和睦の中心が光秀であったことは、次に起こる佐久間盛信の追放とその後信長が光秀を重用したことから伺えます。また、光秀は、今回の和睦の実現により、朝廷を動かせることが自分の強みであると認識したと思われます。光秀は、本能寺の変後、朝廷を利用して政治体制の安定を図ろうと考えていたと思われます。

 

6.佐久間信盛の追放

佐久間信盛は、信長の父織田信秀に仕え、信秀の命令で幼少の時代から信長に仕えていました。信秀死後の家督争いでも一貫して信長を支え、信長の弟の信行が謀叛を起こしたときも先頭に立って戦いました。その功により信長家臣団の筆頭に位置付けられました。その後も桶狭間の高い、長島一向一揆、越前一向一揆、姉川の戦い、比叡山焼き討ち、長篠の戦いなど信長の主だった戦いに参戦し、武功を上げています。

そこで天正4年(1576年)、信長は、本願寺との石山合戦の際、激戦となった天王寺の戦いで、本願寺攻めの総大将だった塙直政が戦死した後の総大将に、佐久間信盛を任命します。信盛には、三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊・摂津という7カ国の大名を与力に付けられ、織田家中で最大の兵力が与えられました。しかし、その間の本願寺との戦いは、硬直し、傍目には、ただ包囲しているだけとも見えました。そんな中で天正6年(1578年)12月には、組下の荒木村重が本願寺の顕如と和睦交渉と行います。しかしこれは失敗し、村重与力の茨木城主中川清秀の家臣の者が本願寺側に兵糧を提供してところを信盛配下の軍目付に見つかり、村重は本願寺との密通を疑われ、謀叛の原因となります。信長家中のその他の軍団に目を移すと、秀吉は播磨・但馬・因幡平定を平定していましたし、光秀は丹波を平定しています。柴田勝家は、北陸で加賀を平定し、能登・越中も平定する勢いでした。このような中で、信盛の本願寺攻めの無策が目立ちました。特に村重が謀叛を起こしたときには、村重・本願寺・毛利勢の連携が機能すれば、信長側は一挙に不利な状況に追い込まれる可能性がありました。それを救ったのは、信長が九鬼嘉隆に建造を命じていた大砲を搭載した大型の鉄甲船でした。そして、本願寺との戦いを最終的に終結させたのは、光秀が朝廷を動かして実現した本願寺との和睦でした。

これらの経緯から、信長は、天正6年(1580年)8月、信盛に19ヵ条からなる折檻状を突き付け、嫡男信栄(のぶひで)共々高野山追放処分を言い渡します。

この19カ条の折檻状の要旨は、以下の通りです。

・信盛・信栄の親子は、5年間天王寺城に在城しながら、積極的に戦わず、調略もせず、ひたすら守るだけだった。

・一方、秀吉、光秀、柴田勝家は、見事な戦果を挙げている。

・信盛は、これまで新たな領地を与えても、家臣に知行を増やしてやることもせず、新たな家臣を雇うこともせず、自分がため込むばかりであった。

・信長が生涯唯一勝利できなかった三方ヶ原の戦いの際には、援軍として駆け付けながら、戦うこともせず、1人の犠牲者も出さなかった。その結果、もう1人の援軍の将平手汎秀(ひろひで)を見殺しにした。

・朝倉勢を打ち破った刀根坂の戦いで、追撃しなかったことを叱ったところ、「そうはおっしゃられても我々以上の部下はお持ちになれますまい。」と言い、信長の面目を潰した。

秀吉、光秀、勝家らに比較すると、信盛が5年間戦果を上げなかったのは事実であり、信盛が格下げになるのは仕方ないと思われますが、その理由として過去の出来事まで持ち出したことから、信長の重臣の多くが「明日は我が身か」と感じたようです。特に、秀吉、光秀、勝家の中では、光秀が信盛の性格に一番近いことから、この思いは光秀が一番強かったと思われます。本能寺の変の直前、光秀は信長の激怒を買い、これが本能寺の原因になったと言われていますが、信盛追放の思い出が光秀の恐怖を増幅させた可能性があります。

また、信盛追放の結果、光秀が信盛に代わり近畿地区の総大将の地位に付いたことから、佐久間家臣団の中では、信盛追放は光秀の讒言によるものという認識があったようです(寛政重修諸家譜)。

 

7.長宗我部元親

長宗我部元親は、1539年、土佐の国人長宗我部国親の嫡男として生まれます。1560年、国親の急死により家督を相続し、普段は農業をしながらも鎧と鑓を具備し、戦いがあれば直ぐに駆けつける農兵制度(一領具足)を敷き、領土を拡大していきます。そして1574年には土佐をほぼ制圧したと言われています。この間、1563年には、光秀と同じ美濃の土岐一族である石谷光政の娘を正室に迎えます。光政は当時、室町幕府13代将軍足利義輝に仕えていました。光政には男子がなく、同じく義輝に仕えていた斎藤頼辰(よりとき)を養子とします。頼辰は、同じく土岐一族の斎藤利賢の長男でした。次男が光秀に仕える斎藤利三(福の父)だったのです。その後頼辰も信長による第15代将軍足利義昭の京都追放後、光秀に仕えることとなり、元親が頼辰、利三兄弟を通じて光秀と繋がることとなります。その後頼辰は、元親に嫁いだ光政の娘との間に生まれた長宗我部信親に自分の娘を嫁がせ、関係を深めます。また、養父の石谷光政は、土佐に行き元親を補佐しています。

このような背景の中で元親は、光秀を取次として信長と同盟を結びます。同盟の中では、四国は元親の切り取り次第となっており、元親は四国統一を目指し、伊予・阿波・讃岐へと侵攻して行きます。そして、天正8年(1580年)までに伊予・阿波・讃岐を不完全ながら勢力下におき、四国統一もう一歩のところまで来ます。この頃信長は、摂津の荒木村重の謀叛を鎮圧し、本願寺との戦いを終結させ、播磨も平定していました。その結果、和泉・摂津・播磨の対岸の阿波や讃岐は、信長にとっても重要な地域となっていました。そこで信長は、取次の光秀を通じ、元親の領土は土佐と阿波南部限りとするよう迫ります。このとき実際に元親の説得に当たったのは、石谷頼辰であったと思われます。しかし、既に四国をほぼ支配下に納めていた元親は拒否します。信長側としては、阿波は瀬戸内海の東の入り口で、古くから三好一族が支配し、対岸の和泉、河内や摂津に進出し、京を脅かした危険な地域です。また讃岐も三好一族の勢力下にあり、淡路島を挟んで播磨は目と鼻の先であり、瀬戸内海の制海権を握る上においても重要な地域です。伊予も今後の対毛利との戦いにおいて重要な地域でした。従って、信長に臣従する光秀、その光秀に仕える斎藤利三、石谷頼辰にとっても、信長の考えは十分理解できたはずです。当時信長は、播磨まで支配下に置いており、元親との取次に当たる光秀らは、元親に敵う相手ではないと分かっていたと思います。

ここで信長の指示を受けた秀吉は、仙谷秀久を淡路島に派遣し、支配下に置きます。そして、阿波を支配していた三好一族との取次を秀吉が務めていた関係から、黒田官兵衛(1579年、有岡城から助け出された後、小寺姓から黒田姓に戻した模様)を派遣し、讃岐と阿波の勢力を糾合し、元親と戦う体制を構築します。その結果、阿波や讃岐で元親勢力を後退させることに成功します。

こういう中で、天正10年(1582年)3月、甲斐の武田勝頼が信長勢に攻められて自害し、武田が滅亡します。この知らせを聞いた元親は、信長と戦っても勝ち目はないと悟り、信長の命令に従うことを決心します。しかし、信長は同年5月、3男の神戸信孝を総大将とする元親討伐軍の編成を命じます。

元親討伐軍の総大将には、本来なら取次である光秀が就任するものです。毛利の取次であった秀吉は、毛利攻めの総大将に就任しています。その方が話合いのルートが通っていることから、早く和睦に達することができるのです。光秀も信長に元親討伐に行かせて欲しいと申し出たと思われます。しかし、聞き入れられることはありませんでした。理由としては、秀吉が毛利攻めに出ており、丹波を支配する光秀は、秀吉の後詰めの役割が期待されていたからだと思われます。光秀は、それまでも1年のうちで丹波、本願寺、播磨と転戦していました。従って、信長が光秀を元親討伐に派遣しないことは、光秀にも理解できていたと思われます。

光秀が本能寺の変を起こした原因として、信長の元親討伐への反発があったとの説がありますが、それはないと思います。むしろ光秀は、信長との実力の差が分からず、自分の説得に応じない元親に怒っていたと思われます。そのため、自分が元親討伐に出かけ、早く和睦に持ち込もうと考えていたと思われます。信長は、元親討伐の大将信孝には讃岐を与え、阿波は信長家臣となっていた三好一族の三好康長に与えると約束し、土佐や伊予には言及していないので、早期に元親と和睦する考えだったと思われます。

2014年、林原美術館所蔵の古文書(石谷家文書)の中から、元親が斎藤頼辰に宛てて書いた天正10年(1582年)5月21日付けの書状が発見され、その中で元親は、信長の命令に従うと書いています。元親討伐軍は6月3日渡海で準備が進められており、時すでに遅しの状態だったと思われます。しかし、元親のこの意向は、正式な書面ではなくとも光秀には伝わっていたはずで、5月16日夜信長と光秀が会った際に、光秀から信長に元親討伐軍の渡海を中止して欲しい(或いは自分を派遣して欲しい)と要請した可能性があります。その結果信長が激怒するのですが、これが光秀に本能寺の変を決意させたとは思えません。何故なら、当然断られる、或いは怒られると予期できるからです。本能寺の変を決意させた原因は、これ以外の理性的には解決できないことにあったと思われます。

尚、本能寺の変後、石谷頼辰は京を逃れ土佐に来て、元親の家臣になっています。

 

8.本能寺の変

これまで見てきたような背景の元で、天正10年(1582年)5月16日夜、光秀が信長に呼ばれた席で、信長が激怒する出来事があったようです。この日は、家康一行を安土に招いた信長主宰の宴会の2日目でした。この当時の出来事を見渡すと、秀吉が備中高松城で水攻めを敢行し、これを聞き付けた毛利軍約5万人が押し寄せ、秀吉軍約3万人を圧迫していました。そのため、水攻め用の堤防も急ぎ作られたせいで、高松城の1階部分が床上浸水する程度にしかならず、逆に高松城は難攻不落化していました。ここで毛利軍に西の山側から攻められたら、秀吉軍は敗走することになったと思われます。そこで秀吉は、毛利方の取次である安国寺恵瓊を通じて、もうすぐ信長が大軍を率いて到着すると吹聴し、毛利軍を牽制していたと思われます。堤防作りは、5月8日に開始し、5月19日に終了したとなっていますので、この間信長の元には、秀吉から毛利軍の増強の様子と支援を求める書状が届いていたと思われます。秀吉支援に行かせるとすれば、主力は光秀軍しか残っていません。当初信長は、家康一行の安土滞在が終了する5月21日以降に、光秀に秀吉支援に向かうよう命じる予定だったと考えられます。しかし、秀吉から急ぎの支援を求める書状が届くに至り、予定を早め5月16日夜に光秀に支援に行くよう命じたのではないでしょうか。この命令そのものは、秀吉が置かれた状況を考えれば当然のものであり、光秀もすんなり従うべきものでした。しかし、それまで毛利攻めにおける秀吉の華々しい成果しか聞いていなかった光秀には、その緊急性が理解できていなかったと思われます。それで「承知しました。」と言いながら、2つのことを信長にお願いした可能性があります。1つは、四国の長宗我部元親討伐の件で、元親は信長の命令に従うと言って来ているので、元親討伐を中止して欲しいということです。或いは取次である自分に行かせて欲しい、と付け加えたかも知れません。もう1つは、家康一行に対する宴会が明日までなので、接待役を明日まで務めさせて欲しい、ということです。これを聞いて信長は激怒します。それは、元親の件は既に出発の準備が完了し、6月3日渡海と決まっていたこと、光秀は中国に近い丹波を領地としていることから、元親討伐ではなく秀吉支援に当たらせることは既に伝えてあったからです。それに、秀吉が置かれた状況を考えれば、接待役をもう1日続けさせて欲しいという申し出も我慢ならなかったと思われます。

光秀は、信長の予想外の怒り方に驚愕したものと思われます。そして、信長の命令を受承り、失礼を詫びて急ぎ安土の屋敷に帰ります。冷静になった信長は、気の小さい光秀の余りの驚き様を気に懸けて、使者に光秀の様子も見てくるよう命じます。そこで使者が光秀の屋敷を訪れ、信長は気にしていない、もうケロッとしている、光秀も気にする必要はない、と伝えます。しかし、光秀の落ち込み方は酷く、使者はその旨を信長に報告します。すると信長は、もう一度行って、毛利攻めでは出雲・石見は光秀の切り取り次第だ、と伝えるよう命じます。この趣旨は、今の坂本・丹波に加え、出雲・石見を加増するということだったのですが、激怒した信長がその後部下に対して取った厳しい対応(例えば佐久間信盛追放)を何度も見てきた光秀は、坂本・丹波から出雲・石見へ転封されるものと採りました。これは「明智軍記」にある内容で、実話ではないという説もあります。しかし、これを以て光秀が信長を恨み本能寺の変を決める理由とするのなら、単に出雲・石見への転封を命じられたと書けば十分です。2回も使者があったことが実話として語り伝えられていたから、「明智軍記」にもその話が挿入されたと思われます。山岡荘八や司馬遼太郎の歴史小説を読めば分かるように、歴史小説は史実に推定、創話を織り交ぜて書かれています。そして、史実はできるだけ省かないようにしています。従って、後に書かれた軍記物だから全部作り話とするのは妥当性を欠きます。

翌17日光秀は坂本城に帰り、その後丹波亀山城に入り、備中高松城支援に出かける準備をするのですが、出陣が6月1日になっていますので、少し間が空いています。光秀に代わり接待役の1人となった堀秀政は、5月20日まで安土で接待役を務め、その後直ちに軍目付として備中高松城の秀吉の元に駆け付け、本能寺の変の知らせは秀吉から受けています。

私は、光秀が丹波亀山城を出発する6月1日までの間に、1度信長に安土城に呼ばれ、ここで本能寺の変を決意する出来事があったのではないかと考えます。

それは、「稲葉家譜」に書いてある出来事です。「稲葉家譜」には、天正10年(1582年)5月27日の出来事として、「美濃の稲葉家の家老那波直治が光秀の家臣になったことから、(信長との付き合いが長い稲葉家前当主の)稲葉一鉄が(娘婿の斎藤利三も奪っておいて今度は那波も奪うのかと)怒り、信長に訴え出た。その結果信長は、光秀に那波は返すこと、利三は切腹と申し渡した。これには同席した猪子兵助が信長をなだめ、利三の切腹は取りやめとなった。この際怒った信長は光秀を打擲した。」という内容の記述があります。これと同様な内容は、「明智軍記」「絵本太閤記」にもあることから、「稲葉家譜」の信頼性が疑われ、歴史研究者の間では本能寺の変の原因として殆ど取り上げられていません。稲葉家は、山城淀藩、安房館山藩、豊後臼杵藩を治めており、それぞれ家譜があるのですが、上記の内容が書かれている「稲葉家譜」は、どこの稲葉家の家譜で、いつ頃書かれたものかはっきりしないのです。それでもこの「稲葉家譜」は巻41まであり、東京大学史料編纂所データベースに登録されていることから、全くの作り話とは断定できないようです。私は、この内容は史実に近いと考えます。このレポートの最初の方で、信長の信濃・甲斐討伐のことを書きましたが、その中で、天正10年(1582年)4月5日の出来事として、武田から奪った北信濃の飯山城を稲葉貞通(一鉄から家督を譲られた嫡男)が守っていたところ、旧武田家臣芋川親正に率いられた地侍など約8,000人に包囲され陥落しそうになり、大将の森長可が救援に駆け付け事なきを得たが、貞通は飯山城の守備を解かれ諏訪の本陣に召還された、という史実(信長公記)を紹介しました。このとき貞通の側に仕えていた家老が那波直治だと思われます。直治は、この一件の責任を取って稲葉家を辞することとし、旧知の斎藤利三に相談したものと思われます。その結果、利三から光秀の元に来るよう誘われ、光秀家臣になったのでしょう。こうなると、稲葉家はガタガタです。そこで一鉄は、信長に泣きつき、直治と娘婿の利三を帰すよう光秀に命じて欲しいと頼み込んだものと思われます(直治の件は、堀秀政書状から史実とされている)。一鉄は頑固者でしたが、気のいい人であり、訴訟して2人を懲らしめようと言う気はなかったと思われます。信長にとって一鉄は、信長が美濃を攻略する際いち早く味方した功臣でした。また、当時美濃は、信忠が支配していましたが、それを支える河尻秀隆は甲斐の、森長可は北信濃の支配を委ねられ、手薄になっていました。更にこれから信忠が秀吉支援に向かうとなると、その間美濃を任せられる強力な武家が必要となります。このため、2人を帰らせ稲葉家を強化することは、信長にとっても必要なことでした。しかし、利三は明智家の筆頭家老であり、丹波で一番最後に陥落し不安定な黒井城を押さえていましたから、光秀にとっても重要人物でした。そこで、直治を帰すことについては承諾しても、利三を帰すことについては、相当抵抗したと思われます。その結果信長が激怒し、ならば利三は切腹だと言ったものと考えられます。しかし、利三は切腹に相当する行為はしておらず、本気ではなかったと思われます。それは一鉄も望んでおらず、これから秀吉支援に向かう光秀軍にとってもマイナスだからです。その際に光秀は「良い侍を蓄えることは上様のため」と言ったという話(「川角太閤記」「続武者物語」)もあり、これが事実だとすれば、佐久間信盛が高野山追放になった際、信長が折檻状で理由の1つとして挙げた、昔信長の面目を潰したという信盛の言葉「そうはおっしゃられても我々以上の部下はお持ちになれますまい。」と重なるところがあります。この言葉は、その後光秀に「しまった!信盛の二の舞になるかも」と思わせたかも知れません。

光秀が長宗我部元親討伐ではなく秀吉救援に向かうことは、誰が考えても当然のことであり、信長から命じられた光秀に不満はなかったと思われます。しかし、利三を稲葉家に帰す件は、理性的に割り切れることではなく、光秀の心にわだかまりとなって残ったと思われます。特に、取り消されたとは言え、一旦切腹を命じられたことは尚更です。利三の件は、秀吉支援から帰った後稲葉家に帰すこととなったのか、もう返さなくてよいこととなったのか分かりませんが、光秀には、これだけ信長を激怒させたからにはこの後厳しく当たられるだろうという思いが芽生えたと思われます。

それでも光秀は、この出来事で直ぐに本能寺の変を決心した訳でないと思われます。それはまだ光秀の運命の破綻が確定したわけではないからです。光秀が本能寺の変を決心した経緯については、「備前老人物語」にある話が一番納得感があるように思います。「備前老人物語」では、光秀は本能寺の変の想いが浮かんできた際に、娘婿で家老の明智秀満に話したとあります。それに対して秀満は「多少の不満はあっても都に近い近江と丹波を拝領しているのだから、十分な取り立てを受けており、冥加にかなっています。どうか思い留まり下さい。」と言い、光秀はそれを受け入れます。翌日光秀はまた秀満を呼び、「そなたに相談した後、4名の家老にも相談したら、全員そなた同じ意見であった。従って、思い留まることとする。」と言います。これを聞いて秀満は驚き、光秀に言います。「4人にも話したのならば、いずれこの話は上様の耳に入ることになるでしょう。ならば決行するしかありません。」これで本能寺の変を決行することが決まったとなっています。ここまでの経緯から考えて、この流れが一番納得感があります。私は、この話は史実に近いと考えます。

尚、利三は光秀にとって重要な人物であり、光秀が抵抗することが分かっていながら、信長は何故一方的に一鉄の申し出を聞き入れ、利三を一鉄に返せと光秀に命じたのでしょうか。普通に考えれば、直治は返し、利三は返さなくてよいとするところです。深読みすると、信長は、将来大坂城を築き自らはそこに移り、信忠を美濃から安土(近江)に移し、光秀を美濃国守にして、稲葉家に支えさせる考えだったかも知れません。光秀は、美濃の守護土岐一族の出であり、信長は光秀が美濃に強い思い入れがあることを知っていました。それに美濃には、織田支配に反発する旧斎藤家臣も大勢いました。それは、本能寺の変後、美濃で旧斎藤家臣が蜂起したことからも分かります。従って、光秀を美濃の国守に据えることは、美濃安定の上からもメリットがあったのです。

だとすれば、親の心子知らずで、2人の思いがすれ違った結果、本能寺の変が起こったことになります。5月16日の夜まで、信長と光秀は蜜月と言ってよい程良好な関係であり、その夜以降破滅に向かっています。本能寺で光秀の謀叛を知った信長は、原因は利三の件にあると直ぐ分かったはずで、それで苦笑いを浮かべ「是非にあらず」と言ったように思います。

光秀謀叛の原因が利三の件であったことから、利三は光秀と並ぶ本能寺の変の首謀者にされたようです。6月7日に安土で光秀と面談し、本能寺の変のいきさつをよく知っていると思われる吉田兼見と親しい公家の山科言継の日記「言継卿記」には、「日向守の内、斎藤内蔵助(利三)は、今度の謀反之随一」と書かれ、同じく公家の勧修寺晴豊の日記「日々記」には「かれ(利三)など信長打談合衆也」と書かれています。実際、山崎の戦いでは、利三は光秀軍の先攻を務め奮戦しています。その結果、六条河原で処刑され、光秀と共に首を晒されます。これにより、その娘福には、主君殺しの逆賊の娘というレッテルが張られることとなり、家光将軍生母と名乗れないこととなります。

尚、信長の守りが手薄な本能寺を襲い、信長を殺害するというやり方は、永禄8年(1565年)に起きた永禄の変にヒントを得たのではないかと考えられます。その頃京では、室町幕府第13代将軍足利義輝と三好三人衆が主導権争いを繰り広げていました。そんな中、永禄8年6月19日、三好三人衆が兵約1万人で、守りが手薄な二条御所を襲い、将軍義輝を殺害します。この事件は、光秀が足利将軍家に仕える前の出来事ですが、その後第15代将軍となった足利義昭に仕えた光秀も良く知っていたと思われます。

 

9.光秀の政権構想

本能寺の変当日まで、本能寺の変を決行することは、明智家の家老5人以外には知らされていなかったと思われます。しかし、決行直前、丹後宮津の細川藤孝には、本能寺の変を決行する旨を知らせる使者があったと思われます。藤孝は、6月2日の夜本能寺で開かれる信長主宰の茶会に出席することになっていましたが、宮津を出発した様子がありません。そして本能寺の変後、直ぐに髷を落とし、不戦の態度を示しています。藤孝にとって本能寺の変の決行前に、光秀から知らせを受けたことは甚だ迷惑だったと思われます。何故なら共謀を疑われるからです。藤孝が知らせを受けた時は、もう手の打ちようがないときで、その後は信長を信奉する息子忠興が京に向かうのを押さえるのに大変だったと思われます。細川家としては、忠興が信長の信奉者であること、光秀はかって細川家の家臣であったのに今では細川家の上にいることへの家臣の反発、および実力家老の松井康之は鳥取城攻めに参加し、秀吉と友好関係にあったこと、などから光秀を支援することにはならなかったと思われます。更に問題になったのは、忠興に嫁いでいた光秀の3女玉(後の細川ガラシャ)の扱いでした。重臣の中には、主君殺しの逆賊の娘として首を撥ねるか、離縁するよう迫った者もいたようです。しかし、玉を可愛がっていた藤孝と溺愛していた忠興はこれを受け入れず、丹後の山中味土野に隠すこととしました。

光秀がもう一人支援してくれると考えていた光秀与力の大和郡山城主筒井順慶は、秀吉の帰還が近いことを聞いて、光秀支援に動きませんでした。順慶は、光秀軍と秀吉軍が戦った山崎を見渡せる洞ヶ峠で両軍の戦いの趨勢を見守り、秀吉軍の勝利が明らかとなったところで秀吉軍に味方します。この日和見的な態度は、「洞ヶ峠を決め込む」という言葉を生んでいます。

光秀の娘(4女)が嫁いでいた織田信澄(近江大溝城主)は、信長の弟信行の息子で、信長3男信孝らと長宗我部元親討伐のため四国に渡海するため野田城に居ましたが、信孝から光秀との共謀を疑われ、殺害されます。もちろん光秀が信長の信頼が厚い信澄に、謀叛を打ち明けるはずがありませんでした。

こういう中で、光秀の謀叛に呼応した武将が2名います。近江国奥島の京極高次と若狭小浜で丹羽長秀の与力となっていた旧若狭守護武田一族の武田元明です。元明には高次の妹竜子(後に秀吉の愛妾となる)が嫁いでいました。2人は、光秀に味方し秀吉の留守城長浜城を占拠しています。

それから、美濃でも旧国守の斎藤家家臣が蜂起しますが、稲葉一鉄らが鎮圧しています。信長が光秀の元から那波直治を稲葉家に帰らさせた効果があったと言えます。

光秀は、本能寺の変後、朝廷・公家への工作を盛んに行っていますから、本願寺との和睦のように勅命で有力武将間の和睦を成立させ、朝廷を中心とした政権を樹立しようと考えていたのではないでしょうか。その当時の武将の勢力を前提して、暫く朝廷親政を敷き、その後話合いで武家の棟梁(将軍)を決めます。光秀は、その候補として家康を考えていたように思います。家康は、三河・遠江・駿府に甲斐・信濃を加えた5カ国を支配します。光秀は、近江・丹波に加え、美濃を支配します。秀吉は播磨で、柴田勝家は北陸、尾張には織田信孝または織田信雄が入ります。これでまとまるか微妙ですが、勅命があればまとまることに希望を抱いていたと思われます。

本能寺の変は、天下取りを狙ったものではなく、利三を守るためという甘美な動機に基づくものでした。だから光秀は、その後の天下のことはあまり考えていなかったと思われます。考えてもうまく行くシナリオしか浮かびようがなかったはずです。その中でも自信を持っていたのが、朝廷・公家は自分に味方するということだったと考えられます。事実、朝廷側の取次を務めていた吉田兼見は、本能寺の変後何度か光秀と面会しています。6月2日には安土城に向かう光秀に会い、6月7日には安土城に行き光秀と面談しています。そして6月9日に上洛した光秀は兼見邸を訪れ、天皇、親王、兼見らに対して銀子の献上を申し出ています。この後光秀は、秀吉軍に対処するため下鳥羽に出陣しますが、兼見は誠仁(さねひと)親王(正親町天皇の嫡男)の親書を持って下鳥羽の光秀の元を訪れています。これらを見ると、朝廷は光秀を支持していたものと思われます。6月12日山崎で光秀と秀吉の戦いが始まり、その翌日には勝敗が決します。ここから兼見や朝廷は我関せずの姿勢です。

このように光秀が思い描いた本能寺の変後の構想で思い通りに行ったのは、兼見と朝廷の動きだけだったと言えます。それは、天下取りを企図して決行されたものではない本能寺の変の当然の帰結でした。

 

10.家康の伊賀越え

天正10年(1582年)6月2日の深夜から未明にかけて、光秀軍により本能寺が襲撃され、信長は自害します。その日の朝、家康一行は堺での予定を終了し、その夜信長主宰の茶会が行われる本能寺に向かおうとしていました。この時点では、本能寺の変のことは一切知りません。家康一行が本能寺の変のことを知ることとなるのは、摂津の枚方まで先行していた本多忠勝に京の茶屋四郎次郎から知らせが届けられ、2人が河内の飯盛山付近まで戻って、家康一行に報告したときでした。ここで家康は、京都知恩院に入り信長の後を追うと言いますが、同行者一同がこれを諫め、三河に帰国することとなります。京や近江は、光秀軍に占拠されていますから、それ以外のルートを取る必要があります。先ず浮かぶのは大和高田から桜井、名張を通って津に抜けるルートですが、大和は光秀与力の筒井順慶の支配地であり、取れません。また信長に多数の住民が虐殺されて(天正9年(1581年)9月、天正伊賀の乱)間もない伊賀を長く通るルートも避ける必要があります。ということで山城の宇治山田、近江の甲賀を通り、御斎峠から伊賀に入り、大和街道を通り加太峠を越えて伊勢に入るルートが選ばれたようです。家康一行には、安土から接待役の長谷川秀一が同行しており、帰国経路の決定や宇治山田での宿泊、甲賀での休憩所の手配などを行ったようです。本件は、「徳川実記」では「神君伊賀越え」と書かれ、さも危険な目に会ったような印象ですが、実際は同行者に1人の犠牲者もなかったことで分かるように、危ない場面は殆どなかったようです。家康一行が取れるルートは限定されており、もし光秀が家康一行殺害を考えていたら、容易に実現できたと思われます。家康一行34名の中には、酒井忠次、本多忠勝、井伊直政、榊原康政の徳川四天王を含め多くの家康重臣が含まれており、光秀が徳川を滅ぼそうと考えていれば絶好の機会でした。しかし、徳川実記には、光秀軍に遭遇したという記述は全くないことから、光秀は家康一行を殺害する気持ちは全くなかったと思われます。むしろ、本能寺の変後速やかに、光秀から家康に本能寺の変決行の事実と接待役として帰路の安全を保証する旨の書状が届けられたように思われます。それは、茶屋四郎次郎を通じてではないでしょうか。家康を安土で接待するとなると、家康の料理の好みや喜びそうな土産物などについて徳川家の御用商人茶屋四郎次郎に相談していたと考えられます。また、接待役として同行した長谷川秀一にも、光秀から家康の帰路の案内を頼むこと、道中の安全を保証することを内容とした書状が届けられたと考えられます。これは、家康一行が山城の宇治や近江の甲賀など光秀支配地に近い場所を通っていることからも推測されます。むしろ家康一行の帰路は、光秀軍に密かに警護されていた可能性があります。光秀は家康を、信長亡き後の政権運営の中心に考えていたように思われます。そして、その考えを本能寺の変後書面で家康に伝えていたのではないでしょうか。これを知らされた家康は、果たしてそんなにうまく行くか確信が持てなかったでしょう。6月4日に岡崎に戻った家康は、早速家康領に逃れていた旧武田家臣や甲斐・信濃にいる家康と親密な旧武田家臣を通じて、甲斐の穴山梅雪領平定やその他の甲斐・信濃の情報収集に動きます。梅雪領については、梅雪に代わり家臣の知行を安堵して平定します。梅雪は、本能寺の変を知った後家康一行を離れ別行動を取り、宇治で落ち武者狩りにあって殺されたことになっていますが、本当は、甲斐に一足先に帰国しようとしたため、旧武田家臣を集めて蜂起することを恐れた家康一行が殺害した可能性があります。甲斐の梅雪領平定とその他の甲斐や信濃の情報収集を優先したため、家康の西に向けた動きは遅れ、当初6月9日出発と発表されます。しかし、今度は西の情報を集めていたためか更に延期され、6月14日になって尾張の鳴海まで兵を進めます。この間伊勢や尾張の織田方からは同盟を確認する使者が来ています。そして15日には、伊勢の織田信雄から光秀を打ち取ったとの知らせがあります。それでも家康は16日、尾張津島まで兵を進めます。19日秀吉から、光秀のことは片付いたので帰国されよと言ってきて、撤収を開始します。

このように三河に戻った家康の最大の関心は、隣接する甲斐の梅雪領を平定することとその他の甲斐や信濃の情報を収集とあわよくば自領にすることだったようです。そして、光秀謀叛後の西の情勢については、慎重に見極めていたようです。家康は、光秀の謀叛は成功しないと踏んでいたように思われます。

 

11.福は将軍跡継ぎを生む任務を帯びて江戸城へ

これまで見てきたことから分かるように、福の父斎藤利三と家康との関係は殆ど伺えませんでした。信長一行が駿府・遠江・三河の家康領に来た際に利三も光秀に同行して家康に面会しているかも知れないし、光秀が安土で接待役を務めた際に家康方との連絡に当たっていた可能性はあります。しかし、家康が恩を感じるような関係はなかったと思われます。従って、斎藤利三の娘だったから、家光の乳母になったということはないと思われます。

ならば、福の夫である稲葉正成との関係からとなります。稲葉正成は、元亀2年(1571年)林正秀の次男として生まれ、稲葉一鉄の長男(庶子)稲葉重通の婿養子となります。しかし、重通の娘が死去したため、重通は姪(姉の娘)で斎藤利三死後引き取って養女としていた福を正成に嫁がせます。

福は、天正7年(1579年)、明智光秀家臣斎藤利三と稲葉一鉄娘安との間に、当時利三が守っていた丹波黒井城下で生まれたとされています。利三には、男7人、女3人の子供がいたようです。男子の消息は3男利宗と5男三存(みつなが)以外はよく分かりません。利宗と三存は福の出世に伴い徳川幕府に召し抱えられています。2人の姉は柴田勝全(かつまた)という武将に前妻、後妻として嫁いでいます。福は、本能寺の変後利光が六条河原で処刑された後、美濃の祖父稲葉一鉄が引き取り、その後重通が養女として育てたと言われています。重通は秀吉に仕え伏見に移ったようなので、そこで福は、和歌などの高い教育を受けたと思われます。

一方正成は、重通と共に秀吉に仕えていましたが、秀吉養子の豊臣秀秋が毛利一族の小早川隆景の養子となり小早川家を継いだため、秀吉の命で秀秋付きの家老(5万石)となります。その後、小田原攻めで活躍し、慶長の役(朝鮮出兵)にも秀秋に従って出兵しています。そして、1600年の関ヶ原の戦いで家康に恩を売ることとなります。それは、関ヶ原の戦いの結果を左右することとなった小早川秀秋の家康方への寝返りを主導したからです。正成が家康への寝返りを主導した原因は、朝鮮で蔚山城の救援に駆け付けた際、小早川秀秋が先頭を切って敵軍に攻めかかったことを、石田三成配下の軍目付から秀吉に大将として軽はずみな行動だったと報告され、秀秋は肥前名島30万石から越前北ノ庄15万石への減封転封を言い渡されたことで、三成に恨みを持っていたこと、また家康は秀吉が下した秀秋の転封処分を取り消したことから、家康に恩義を感じていたからでした。これにより、関ヶ原の戦い後秀秋は、肥前名島から岡山55万石へ加増転封となりました。しかしこの後秀秋は、世間から裏切者と言い続けられたことから、裏切りを主導した稲葉正成と不仲となり、正成は美濃に蟄居しました。その後秀秋が死去して小早川家が断絶になると、正成は浪人の身となります。これを知った家康が正成を召し抱えるべく動いたようです。

従って、家康の狙いは福ではなく、稲葉正成だったようです。しかしここで家康は、正成の妻で当時まだ23歳(1579年生)ながら男子3人を生んでいる福に注目します。それは、慶長7年(1602年)秀忠の正室江が子供を産みますが、女子であり、江はその年29歳(1573年生)ともう今後子供を産むのは難しい年齢になっていたからです(秀忠は1579年生れで福と同じ年)。このように、この頃将軍跡継ぎの確保が幕府の重要な課題となっていたのです。家康は、家柄が高くなく、かつ子供を産んだことがある後家や人妻を離縁させて側女としていました。例えば、都摩の方(穴山梅雪の妻。振姫の生母。)、牟須の局(後家)、阿茶の局(後家)、茶阿の局(鋳物師の妻。6男忠輝生母)、西郷の局(後家。3男秀忠、4男松平忠吉の生母)、お亀の方(後家。9男義直生母)などです。それは、有力外戚の排除の意図や男の扱い方を知っており気易かったこともあるでしょうが、子供を生む可能性が高かったからと言います。このことは家康側近の本多正信が述べています。そしてこの正信は当時将軍秀忠の側近となっていました。従って、正信を中心に福に将軍跡継ぎを生ませるプロジェクトが始動したと思われます。この任務を聞いた福は、稲葉家再興のため引き受けることとし、正成と離縁して江戸城に入ります。これは家光が生まれる前の年の慶長8年(1603年)前半のことと考えられます。そして慶長9年(1604年)家光が生まれます。

家光を生んだ福は、当初側室とする計画だったと思われます。しかし、福が信長殺害に深く関わった斎藤利三の娘だったことから、生母とすることは好ましくないとされ、乳母とすることになったと思われます。従って、家光誕生後、京で乳母募集の高札が出され、それを見た福が応募し、家康が決めたというのは幕府が打った芝居だと思われます。

正室の江としては、叔父(信長)殺しの福が生んだ子を自分の子とすることには抵抗があったと思われますが、将軍跡継ぎを生んでいない手前やむをえなかったでしょう。その代わり、次に江が男子を生んだらその子を将軍跡取りとすることが秀忠と江の間で約束されたと思われます。そして江は、慶長11年(1606年)忠長を生むのです。江33歳、意地の高齢出産でした。もし家光が江の本当の嫡子であれば、危険の伴うこんな高齢での出産はしなかったのではないでしょうか。これらを考えれば、忠長誕生後秀忠と江が忠長を可愛がり、これを見た江戸城内の家臣の多くが秀忠後継は忠長と考えたことが理解できます。

 

12.家光は福が生んだ子、否定する方が難しい

今でも家光は江が生んだことになっています。しかし、福が生んだという史料と状況証拠が多数あり、福が生んだ子と考えるのが妥当です。江が生んだと言う証拠は何もないし、幕府がそうしていることを根拠としています。証拠的には、江が生んだとする方が厳しいと思います。

それでは、家光は福が生んだ子であるという主張の論拠を見て行きたいと思います。以下論拠の多くは福田千鶴氏の「春日局」(ミネルヴァ日本評伝選)に依っています。

・江戸城紅葉山文庫に保管された「東照宮御文の写し」に「秀忠公御嫡男竹千代君御腹春日局 三世将軍家光公也 同御二男国松君御腹御台所 駿河大納言忠長公也」との文言があること。

・臼杵稲葉家(福の母の実家稲葉本家を相続した貞通家系)の「御家系典」に福について「慶長8年(1603年)に江戸城に出仕し、江付きの侍女になったが、容色美麗であったので、将軍の胤を宿し、慶長9年(1604年)7月17日に竹千代君が誕生した。しかし、利三の由緒を嫌い、江の出産として披露した。」という記述があること。

・秀忠には8人の子供が生まれたが、全て江が生んだとすれば11年間に8人産んだことになり現実的でなく、このうちの多くは侍妾が生んだと考えられること。

・家光の誕生月日は、家光が将軍になるまで明らかにされず、具足始めや元服の日時もはっきりしないなど将軍跡継ぎの嫡男として育てられたとは思えないこと。

・家光に付けられた小姓は、親の身分が低く、長男でなかったこと。

・江の葬儀は、家光ではなく、忠長が執り行ったこと。

これらの論拠があっても、なお歴史研究者の中で家光は春日局の子と認められるには至っていません。それは、論拠が一次史料に基づいていないからです。歴史研究者は一次史料研究者と言うのが実体であり、一次史料に基づかない見解は、研究者にあるまじき見解と見なされるようです。一方、家光は江が生んだと言う論拠は何もありません。将軍になったのだから江の子という理由だと思われます。

 

13.家康が家光を後継将軍に指名した理由

ここで家康が家光を秀忠の後継将軍に指名した理由が問題となります。家光を江が生んだ子と見なす人たちは、家光が将軍秀忠と正室江の嫡子で長子だから、当然の指名だと言うことになります。

しかし、家康が家光を秀忠の後継将軍に指名したのは、大坂の役終了後の元和元年(1615年)または元和2年と考えられており、なぜこの時期になったのかが問題となります。家康はこのとき74歳(数え)または75歳(同)であり、いつ死んでもおかしくない年齢でした。しかもその前には、命を落としかねない大坂の役に出陣しています。もし自分で秀忠後継将軍を指名するつもりであったなら、もっと以前に指名していたと思われます。指名していなかったということは、秀忠の後継将軍は秀忠が指名すればよいと考えていたものと思われます。慶長11年(1606年)の忠長誕生後、秀忠と江は忠長を溺愛し、家光には愛情を示さなかったと言われています。そこで江戸城内では次の将軍は忠長と噂する家臣が多かったと言います。この噂は家康の耳にも届いていたはずで、もし家康が長子相続を考えていたとすれば、この時点で家光後継、長子相続を宣言していたと思われます。当時の武家の相続としては、嫡子相続が慣習となっていました。従って、家康も秀忠が長子ながら庶子である家光ではなく、次子ながら嫡子である忠長を後継将軍に考えていることを承知し、承認していたものと考えられます。

これが大坂の役に出陣中の出来事で考えが変わったものと思われます。それは次のようなことが考えられます。

1つは、家康が6男忠輝を勘当したことです。忠輝は、越後高田で75万石を与えられていました。忠輝は、生まれつき容貌が醜かったため(或いは生母茶阿の局の身分が低かったため)、家康に嫌われ、本多正信を通じ下野栃木城主皆川広照に預けられて育てられます。その後弟の7男松千代が早世したため、松千代に代って松平庶流の長沢松平家を相続し、武蔵国深谷1万石を与えられます。その後加増移封されていくのですが、慶長8年(1603年)信濃国川中島藩12万石に加増移封され、当時飛ぶ鳥の勢いで出世していた大久保長安を家老に付けられてから、表舞台に登場することとなります。そして慶長11年(1606年)、長安の仲介により伊達政宗の長女五郎八(いろは)姫を娶ります。ここから忠輝は長安や政宗の野望に利用されることとなります。(その後越後高田を加増され、高田城を築き、移る。)

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に際しては、留守居役を命じられ、これに不満な忠輝は、高田城を出発しようとしませんでした。これは政宗がなだめ、遅れ馳せながら出発します。翌慶長20年(1615年)の大坂夏に陣においては、高田城から大阪に進軍中の近江守山で、忠輝を追い越した将軍秀忠直属の旗本長坂血鑓九郎信時(家康の甲斐攻めの際、穴山梅雪を寝返らせた長坂血鑓九郎信政の子孫)を斬殺します。またこのときは、大坂城大和口の大将を命じられていましたが、遅参し軍功を挙げられず、家康に怒られることとなります。大坂の役終了後には、京で家康が朝廷に戦勝報告に行くため忠輝も同行するよう命じていたところ、忠輝は病気を理由に同行しなかったのですが、後日このとき嵐山で川遊びをしていたことが分かり、再度家康の怒りを買います。この結果、同年8月、家康は忠輝に対して今後対面しないことを伝えます。事実上の勘当処分です。この結果、忠輝は家康の死に目にも会えませんでした。そして元和2年(1616年)の家康死後、秀忠により改易と伊勢国朝熊への流罪を命じられます。忠輝の一連の処分には、このほか、伊達政宗が忠輝を担ぎ天下取りを狙っているとの噂があったことや、将軍側近の中に大久保長安が忠輝の家老として更に権勢を拡大することへの警戒感もあったようです。

一方、大坂冬の陣には、9男尾張藩主の義直が初出陣し、夏の陣には10男駿府藩主の頼宜が初出陣しています。特に頼宜は、当時14歳で、生まれてからずっと家康の元で育てられ、家康お気に入りの息子と言われていました(加藤清正次女八十姫と婚約済み)。家康は、頼宜初出陣の際自ら頼宜に具足を着せたと言われています。

このとき義直は慶長5年(1600年)生まれの16歳(数え)、頼宜は慶長7年(1602年)生まれの14歳(同)、更に11男頼房(水戸藩主)は慶長8年(1603年)生まれの13歳(同)でした。一方家光は慶長9年(1604年)生まれの12歳(同)、忠長は慶長11年(1606年)生まれの10歳(同)でした。

将軍秀忠より13歳年下の忠輝(当時22歳)でさえ、将軍秀忠にライバル心を燃やしていましたし、そういう忠輝を担ぎ伊達政宗が将軍交替を狙っているとの噂もありました。そうだとすれば、義直、頼宜、頼房と家光、忠長は年が近いだけにライバル心を燃やし、将来将軍を争う心配があります。またこのライバル心を周囲が利用する可能性があります。家康は、この根を断っておこうと考えて、大坂の役後家光後継、長子相続制度を宣言したのではないかと考えられます。

もう1つは、信長の血を引く将軍を誕生させないためであったことが考えられます。大坂の役では、どう考えても勝ち目はないのに秀頼は戦いを挑んで来ました。冬の陣は、やってみないと分からなかったとしても、濠が埋められた後の夏の陣は、100%負けが分かっていた戦いでした。それでもなお戦いに臨み、最後は山里曲輪の炎上する倉の中で自害した様子が、炎上する本能寺で自害した信長に重なったのではないでしょうか。家康は信長の血は破滅の運命を持っていると感じたと思われます。そして、江戸城の忠長を思い出したとき、信長の面影があることに気付き、信長の血を引く者を将軍にしてはいけないと考えたのかも知れません。この場合、家光の後継指名は、忠長排除が目的だったことになります。その大義として長子相続が必要だったのです。

乳母の福が駿府に行き家康に家光後継を直訴したという話がありますが、将軍後継問題は乳母が触れられる問題ではありません。触れたら出過ぎたこととして処分されるのが落ちです。福は稲葉一鉄の長子重通の養女として育てられましたが、重通は一鉄の長子ながら庶子だったため、稲葉本家の家督は、次子ながら嫡子である貞通が相続していましたので、福は、家光は長子ながら庶子であり、秀忠の後継将軍は次子ながら嫡子である忠長が継ぐものと分かっていたと思われます。従って、家康が秀忠の後継将軍に家光を指名したことは、福にとって晴天の霹靂であったと思われます。

 

14.福から春日局へ

晴天の霹靂ながら、家康が福が生んだ子家光を秀忠の後継将軍に指名したことから、福は、江戸城にやってきた目的である稲葉家の再興を果たすこととなります。元夫の稲葉正成は、慶長12年(1607年)に美濃に1万石の領地を与えられ大名に返り咲き、更に家康の孫松平忠昌の付家老となります。福の長子の正勝は、家光に小姓として仕えてからとんとん拍子に出世し、年寄で小田原藩8万5千石の大名となっています。正勝は38歳で病死し、嫡男正則が12歳で小田原藩を相続し、福の兄斎藤利宗が補佐します。福には他に正定、正利の2名の実子がいたという説とこの2名は実子ではないという説があります。私は、福は3人の男子を生んだことが評価されて、将軍世継ぎを生むため江戸城に入ったと考えますので、3人とも実子だと考えます。正定は徳川義直の、正利は徳川忠長の家臣となっていますので、福はリスク分散のため違う主君に仕えさせたものと思われます。福の関係でその後出頭したのが堀田家です。堀田家は、稲葉正成の前妻の娘万を福が養女とし嫁がせた堀田正吉の家です。福が万と正吉の間に生まれた正盛を養子としたことから、家光の近習に取り立てられ、その後家光側近として老中、大政参与にまでなります。

このように福が稲葉正成と離縁してまで江戸城に入った目的は達成されますが、これは家康が心配した外戚の勃興でもありました。その後、福は、家光の後継者作りのために大奥を作り、老中並みの政治力を発揮します。そして朝廷から春日局の名号を賜り、官位は従二位下まで登りました。

(歴史好きの方はこちらもhttp://www.yata-calas.sakura.ne.jp/