空海ってどんな人?(序)
数年間毎年京都を中心に関西に行って、お寺回りをしました。別にお寺が好きだったわけではないのですが、関西には余りにたくさんのお寺があったことから、行けるだけ行ってみようと考えたものです。暇つぶしですが、数が多くなると達成感が得られます。
京都、奈良、滋賀の寺は、歴史の教科書に出て来る古い寺が多く、こんな環境に住んでいる大学受験生は、日本史では受験できないようにすべきと思ったものです。有名な寺と言う点では京都と奈良が多いのですが、有名なお坊さんという点では、高野山の空海と比叡山の最澄ではないかと思います。空海は最近映画にもなっていますし、本もたくさん書かれています。能筆でも有名ですし、満濃池を改修したというお坊さんらしくない話も残っています。そして空海が作り上げた高野山の町にも驚かされました。標高800mの山頂に3,000人くらいの人が住む町があるとは、行かないと実感できないと思います。
一方最澄については、面白い話題はなく、比叡山も寺ばかりで民家がなく、高野山とは全く趣が異なります。しかし、法然、親鸞、日蓮、栄西、道元などが比叡山で学び、新しい仏教の宗派を開いていることは驚きです。まるで仏教の学校のようなのです。
ここから、空海と最澄に興味を持ち、少しずつ仏教の本を齧り始めましたが、どうも前に進みません。これでは空海と最澄を理解するのは無理だなと思っていたところ、この夏2つの空海の本に出会いました。1つは、「眠れないほど面白い空海の生涯」(由良弥生)であり、もう1つは「空海の風景」(司馬遼太郎)です。由良弥生氏の本は昨年「眠れないほど面白い古事記」を読んでおり、興味がなくても読み始めれば引きずり込まれる書き方は秀逸です。やはりこの空海本も期待に反しない出来栄えでした。この本が無ければ、今回この空海の原稿を書くことはなかったと思います。この原稿の多くは、この本に依拠しており、要約版とも言えるものです。そし司馬遼太郎氏の本は資料の調査分析が秀逸と言われており、事実関係を検証するのに有益でした。
従って、この原稿は偏に2つの本の成果を拝借したものであり、独創性は殆どありません。主な目的は自分の知識の整理ですが、空海に多少興味がある人が空海を理解する助けにはなると思います。以下の内容を10日間に渡り連載します。(カテゴリーからは連載単位で読めます)
- 生い立ち
- 当時の仏教
- 空白の12年間
- 遣唐使として唐へ
- 大日経・金剛頂経・理趣経
- 帰国へ
- 都に入れず
- 空海と嵯峨天皇
- 空海と最澄
- 高野山開創
- 生い立ち
(1)幼少期
空海は幼名を真魚(まお)と言い、姓は佐伯直(さえきのあたい。直は称号。)となっています。父は名を田公(たぎみ)と言い、讃岐国の土着の土豪で、国司の下で郡を統治する郡司(ぐんじ)でした。母は朝廷に仕え代々学者を出している阿刀家の出で、兄の阿刀宿祢大足(あとうすくねおおたり。従五位下)は桓武天皇の第三皇子伊予親王の侍講を務めるほど優秀な儒学者でした。真魚は当時の習慣に従い母方の実家で育てられ、幼児期に英才教育を施されたと思われます。その後佐伯家で2人の兄が亡くなったため、跡継ぎとして育てられたようです。真魚は言語の発達が早く、5、6歳頃から漢文を学んでいたと言われています。地方官である父や都の学者の家系の出である母は、真魚が中央の官吏になることを望んだようです。というのも中央には佐伯姓の本家ともいうべき佐伯家があり、その佐伯家からは佐伯今毛人(いまえみし)という有能な官吏が出ていたからです。
(2)空海の進路に大きな影響を与えた佐伯今毛人
佐伯今毛人は、天平年間(729~789)に中央の大学を出て朝廷に仕えました。土木建築技術に精通しており、聖武天皇時代には紫香楽宮(しがらきのみや)造営、東大寺造営や東大寺大仏殿の建立を指揮しました。称徳天皇時代には西寺造営も指揮します。さらに桓武天皇時代には60歳を超えていましたが、長岡京造営を指揮しました。このように今毛人は中央官吏の中で土木建築の第一人者であったと思われ、空海が後に讃岐の満濃池を修築した際に、この人脈が大きな力を発揮したように思われます。
もう1つ今毛人で注目すべきは775年に遣唐大使に任命されていることです。結局今毛人が病気になり実現はしませんでしたが、空海が遣唐使を希望したしたことおよび悪い条件の中で空海が遣唐使の1人に選ばれたことは、今毛人の存在が大きな影響を与えているように思えます。
また、今毛人は、786年に大宰帥(だざいふのそち。九州における防衛・外交の責任者)を務めるなど、大宰府や筑紫での勤務歴もあり、空海が唐から帰国後約2年筑紫に滞在したとき、今毛人と交友のあった人たちから支援を受けたことが想像されます。
この当時官吏は中央の政争に巻き込まれ失脚することが多く、今毛人も1度巻き込まれ九州に左遷されています。これは佐伯一族で語り継がれ、空海が政治との距離を考える際に教訓としたようです。
(3)大学入学
788年、15歳の空海は、中央の官吏になるため大学入学を目指し、平城京に上ります(このとき最澄は22歳で比叡山寺(後の延暦寺)を開いている)。そこでは、官吏である叔父の阿刀大足の家(長岡京)に寄宿し、大足から大学入学試験合格のための教育を受けます。空海の大学入学は18歳であり、大足から論語、孝経、史伝、漢籍などを3年間学びます。後に空海は唐の長安で漢語を自由に話し、漢詩や書で評判をとり、密教を持ち帰ることになりますが、それらの能力は、幼少の頃母方の阿刀家で教育を受け、継続的に漢籍を学び、15歳から18歳まで大足に個人授業のように学んだ3年間があったからです。
この結果真魚は18歳で大学(正式名は大学寮)に入学します。大学は本来五位以上の位階を持つ貴族の子弟の教育機関でした。真魚の父のような地方官吏の子弟の教育機関としては国ごとに地方の官吏を養成する国学という学校がありました。いずれも入学年齢は13歳以上、16歳以下となっていました。真魚は当初讃岐国の国学に入学し学んでいましたが、真魚の突出した能力を見て、周囲が国学ではもったいない、何とか大学に入学できないかとなったようです。そこで伊予親王の侍講を務める伯父の阿刀大足や前年に没したが官僚として評価が高かった佐伯今毛人に連なる人々の尽力により、慣例を破り大学に入学しました。入学時真魚は18歳であり、16歳までという年齢制限も破っています。ということは、真魚の支援者は、都で相当の影響力を持っていたことになります。
真魚は大学入学後、中央の官吏となる要員を養成する明経(みょうぎょう)科に入ります。明経科は、主として儒教の経典である四書五経などを学ぶ学科だったようです。学習内容はこれらの漢籍の暗唱と暗記が中心だったようです。大学入学準備のため阿刀大足から3年間漢籍をみっちり学んでいた真魚にとっては、物足りない内容だったようです。そこで真央は音韻科で音博士のもとで漢音の発音を、書博士のもとで書法を学んだようです。これが唐に行った際に役立ったようです。その他仏教や道教、医学に関する中国の書籍も学んだようです。
(4)興味は仏教へ
この頃大学は平城京にありましたが、平城京には佐伯今毛人の建てた氏寺佐伯院があり、真魚は佐伯院に起居し大学に通います。佐伯院から東大寺は1時間程、大安寺は30分程の距離にありました。東大寺は当時官寺の最高格で仏教研究の中心でしたし、大安寺は唐への留学僧や海外から来た僧など800人余りが住み、仏教交流の中心となっていました。明経科に進んだものの物足りなさを感じていた真魚は、仏教の経典に関心を持ち始めたようです。もともと真魚の母方からは法相宗の僧玄昉(げんぼう)や善珠(ぜんじゅ)などが出ており、仏教界との繋がりもあったようです。ここから真魚は経典漁りを始めます。佐伯院の経典から始まり、大安寺、東大寺、法輪寺などの著名な大寺の経堂にある経典も読みたくなります。そのため佐伯院の関係者や伯父の阿刀大足などの紹介を得て、先ずは佐伯院から近い大安寺に出入りするようになったようです。大安寺は国内や国外の仏教文化交流の中心で中国僧や中国留学から帰った僧も居て異国の文化や言葉が溢れていたようです。ここで話されていた中国語で真魚の中国語能力は磨かれたのかも知れません。ここで聞くこと見ることは、真魚にとり初めてのことが多く、創造性を刺激されたものと思われます。真魚は理解力や習得力が早く、答えがない深遠なテーマを探していたように思います。ここで真魚はカオスに出会い、一生のテーマを見つけることとなります。
2・当時の仏教
(1)山岳信仰と古密教の時代
日本には元々山には神がいるとされ、山は信仰の対象でした。そこで山中で修行する者が存在しました。仏教が入ってきた後も官僧の中には山林修行を行う者がいました。奈良時代に権力を握った道鏡は、孝謙上皇が淳仁天皇を廃し自ら称徳天皇となった際、反乱を起こした藤原仲麻呂を鎮圧しますが、仲麻呂の仲間が山林に隠れ勢力を持つことを恐れ、官僧の山林修行を禁止しました。しかし、官僧の中には官寺を抜け出し、山林で修行するものが後を絶たなかったようです。こんな中、道鏡が失脚した後就任した光仁天皇は、僧の堕落を食い止めるには厳しい山林修行は有効であり、そこから新しい仏教や僧が生まれることを期待して山林修行を解禁しました。
山林修行では、山林は神が宿る清浄な一帯(神域)と見なされていました。一方修行者は自分の中には清浄と不浄が同居しており、不浄なものを追い出せば神に近づけ、神の霊験が得られると考え、山林修行に励みました(修験者)。修験者は、入ってきた仏教の考え方も受け入れます。仏教では罪の原因となる行為を悪、悟りを善とします。山林信仰の考え方と仏教の考え方を習合させ、清浄は善、不浄(穢れ)は悪と考えました。そこで修験者は、穢れを払い落し清浄になるために、山林で厳しい修行を行いました。その代表的人物が7、8世紀頃大和国の葛城山で修行したとされる役小角(えんのおずの)です。こういう中、奈良時代に古密教(雑密)と言われる呪術性の強い密教が入ってくると先ず修験者が受け入れました(*呪術・・超自然的な存在に働きかけて、種々の現象を起こそうとする行為)。修験者は、この古密教の教えに従い、山に籠って呪法を実践します。呪法とは、身体を使った授受の修法(行為儀式)のことで、本尊(大日如来などの仏身)を安置し、護摩を焚き、口に呪文(真言陀羅尼)を唱え、手で印を結び、心に本尊を念じて行う密教の加持祈祷のことです。目的により息災法、増益法、祈雨法などがあるようです。この修行を積めば目的を達成する験力が得られると考えられていました。その後この方法は、官僧や密教系の僧、遊行僧、私度僧にも広がりました。こうした修行を重ねて山から下りてくれば、神(仏ではない)への信仰が厚い村人から超自然的な力を身に付けた人として大切に扱われました。
国家から生活が保障されていた官僧まで山林修行に入ったのには他の理由もありました。奈良時代の718年に大安寺の僧道慈が唐から密教の虚空蔵求聞持法という呪法が書かれた経典を持ち帰ります。この呪法は虚空蔵菩薩を本尊として行う修法で、目的は、知恵と慈悲を虚空(大空)のように無限に持つ虚空蔵菩薩の智慧を獲得することでした。これを獲得すればあらゆる経典を暗記し、たちどころにその内容を理解できるとされていました。即ち、毎日経典の暗記と内容の理解に明け暮れる官僧たちは、この行為を楽にする方法を習得しようとしたのです。確かにこれは、僧だけでなく今のビジネスマンにとっても魅力的なものです。
密教の正式な経典は大日経と金剛頂経ですが、先ず大日経が730年頃入ってきたと言われています。これはサンスクリット(梵字)を漢訳したもので、サンスクリットも残っていたことから解読できる者がおらず、また官僧の試験科目でもなかったことから、どこかの寺の経蔵に仕舞われてしまったようです。従って、当時の密教は正規の密教ではなく、呪術性だけが強調された古密教(雑密)でした。そのような中で大日経を探し出し解読し、唐から新たに金剛頂経の経典を持ち帰ったばかりか、密教の第8代師位となって帰国したのが空海でした。
(2)神仏習合へ
仏教は奈良時代に入る頃から地方にも広がり始めます。この頃地方では、毎年のように起こる疫病や災禍は神の加護が衰えた結果と考えられ、有力な豪族の中にはこれを補うために氏寺を建て、仏像を安置する者が現れました。これが神宮寺の始まりであり、神仏習合の始まりです。
奈良時代の半ばになると、中央の貴族や寺院は荘園を持ち始めます。それに倣い地方の豪族も土地の私有を進め農民を支配下に置くようになります。しかし時代は公地公民制であり、これらの行為は律令違反でした。豪族たちは広がり始めた仏教の教えの下で、罪を意識するようになり、神の怒りや祟りを招くのではないかと心配し始めます。こういう中で現れたのが山林修行を終えた密教系の僧や遊行僧でした。これらの僧は、「滅罪生善」を説き、「心から懺悔して三法に帰依し、喜捨や供養に励めば救われる」「神は仏の教えを守護し助けるもの。神も衆生と同じように仏の教えによって悟りを得る」と説いたのです。これを受け地方の豪族の中には、神より仏に帰依した方がよいのでは、と考える者が現れます。
こういう中で地方の有力豪族が祀っていた氏神が、神託と言う形でその胸の内を山から下りてきた密教系の僧や私度僧、あるいは豪族自身に告知したという話が広がり始めます。神託は、「我々は古来神としてあったが、重い罪業を行ったため、今や災禍や疫病に苦しむ人々を救えない。今請い願わくば永く神の身を離れんが為に仏法に帰依せんと欲す」という内容でした。これは豪族の罪の意識を煽るために密教系の僧が作り上げた話だと思われますが、当時の豪族の心理状態に見事に嵌ったようです。この結果、地方の豪族の中には、氏神を祀る神社の敷地内に仏像の神像を安置するための寺を建てる者が現れます。この寺は、神社の祀る神を仏の教えによって救うもので神宮寺(別当寺、神護寺とも)と呼ばれました。ここには社僧がおり、神社の祭祀を仏式で行っていたようです。こういう中で781年には朝廷が、宇佐八幡宮が祀る宇佐八幡神(応神天皇)に八幡大菩薩という仏教の称号を贈り、鎮護国家・仏教守護の神としました。これにより、神仏習合の考え方は国家公認となりました。この結果仏(仏教)は神の上位の立場へと昇華しました。
更に平安時代に入ると神は仏が衆生を救うために仮の姿で出現したものであるという本地垂迹説が受け入れられるようになります。その結果寺院においても仏の仮の姿である神を祀る神社を敷地内に建てるようになります。この結果、神社には神宮寺が、寺院には神社があるのが当たり前の風景となって行きます。これは明治初期の神仏分離令まで続きます。
3.空白の12年間
空海は大学に入った年(792年)の翌年くらいから大学に行かなくなったようです。退学したのか休学だったのか分かりません。大学に入学してから遣唐使として唐に行く(804年)までの空海の行動はほぼ空白なのです。空海は18歳のとき(792年)に初稿を出し、24歳のとき(798年)に修正を加えたと言われる三教指帰(さんごうしいき)という戯曲を書いていますが、これは自伝的性格が強く、真魚が大学を辞め、仏教の道を志した背景が読み取れると言います。三教指帰には、空海自身と思われる仏教僧の仮名乞児(かめいこつじ)、伯父の阿刀大足と思われる儒教的現実主義者の亀毛先生(きもうせんせい)および道教を説く虚亡隠士(きょぶいんし)という人物が登場します。この中で仮名乞児はこれから兜率天(とそつてん。弥勒菩薩が住む所)に向かう旅の僧という設定であり、空海が仏教の道に踏み出したことが伺えます。これに対して亀毛先生は、官吏になるため大学に入ったのに、それを捨てることは国恩に背く、さらに私度僧になって社会の体制外によろめき出ることは儒教の仁義礼智信にもとることになると言っていますので、これに反対したことが伺えます。虚亡隠士は道教的視点から僧になることを諫めます。
真魚は大学に入って儒教を中心に学びますが、儒教は人が作った政治や道徳を説いたもので、俗世の取り決めを重んじ、世渡りの工夫しかしていない、儒教の勉強はこれを暗記し内容を理解することであり、この世界の真理とは程遠いと考えるようになったようです。このように考えるようになったのは、仏教の経典に触れたためと思われます。真魚は入学直後から仏経典を読み始めたと思われます。真魚が寄宿していた佐伯院の近くに当時仏教の交流拠点となっていた大安寺がありました。当時この寺に勤操(ごんぞう)という偉い僧がおり、真魚はその聡明さを勤操に認められ気に入られていたようです。そのため勤操の計らいにより、大安寺の経蔵にある経典を読むことが出来たようです。更に勤操の取り計らにより南都六宗の他の寺の経蔵にも出入りし、経典を読み漁ったものと考えられます。南都六宗のうち三論宗・法相宗・成実宗・倶舎宗は、釈迦の説法を記録した経典よりも、釈迦の教えを解釈し体系化した論書を重視していましたし、律宗は戒律を重視していました。これらは人が解釈して書き下ろしたものであり、理解しやすいものとなっていました。一方官寺の最高位である東大寺が奉ずる華厳宗は、華厳経に基づいており釈迦の教えとは相当かけ離れてました。華厳経の教えは、この世に存在する万物は華厳経の本尊である毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の悟りの表現であり内容であると説いていました。これは解脱や悟りを追及する釈迦の教えとは根本的に違います。宇宙の構成論に近く、哲学的でもあります。実は華厳宗は後日空海が信奉することとなる密教と大変近い内容だったのです。空海が華厳宗を学んだことが密教を志す原因となり、密教を学ぶ上でとても助けになったようです。
空海が最も通ったと思われる大安寺は道滋が唐から密経典の一部を持ち帰った寺で、その経典には虚空蔵求聞持法という呪法が書かれていました。虚空蔵菩薩は無限の智慧を持っており、この呪法を修得すれば虚空蔵菩薩が持つ智慧を獲得でき、84,000と言われる経文の全てを暗記してその内容を理解できると言われていました。仏教を学ぶ僧にとっては是非とも修得したい呪法であり、官僧でも隠れて山林修行を行ったのはこれを修得するためでした。そして、空海も先ずはこの虚空蔵求聞持法の修得を目指して山林修行に入ったようです。空海の消息は、792年の大学入学後遣唐使として唐に向かう804年までの12年間殆ど分かっていません。分かっていることは792年に三教指帰の初版を書いたこと、そして798年に加筆修正を加え3巻として完成させたことだけです。先ほど書いた南都六宗の経典を読み漁っていただろということや山林修行を行っていただろうと言うのは推定に過ぎません。推定といってもそれらのことがないと遣唐使後の空海の活躍はあり得ないからです。山林修行では大和国の葛城山や吉野山、紀伊の山中で修行した、阿波国の大瀧嶽に行った、そして土佐国の室戸崎に行ったという話が残っています。室戸岬の先端の岩礁に空と海が広がる2つの洞窟があり、真魚はここで修行を行い、ここの空と海から法名を空海としたと言われています。ここで修行していたある日の夜明け、谷で叫ぶとこだまが返ってくるように、目くるめくような音と光とともに明星が東の空に姿を現し、真魚に向かって飛んできて、真魚は明星の光に包まれる体感をしたと言います。空海はこの時の体験を「谷響きを惜しまず、明星来影する」と記すのみで、具体的に表現するのは不可能な体験だったようです。この際空海は虚空蔵求聞持法を修得した(と感じた)ようです。それまでに虚空蔵求聞持法を修得しようと血の滲むような努力を続けていながら、なお修得したという実感が得られなかったとき、それまでの鬱蒼とした山林の中という環境から空と海が広がる開放的な環境に身を置き、個別には完成していた脳の知覚神経が一挙に繋がったものと考えられます。ノーベル賞受賞者が受賞の対象となるアイデアが閃いたという瞬間に似ています。空海の成功は、この虚空蔵求聞持法なしには考えられません。虚空蔵求聞持法は、本の1ページをカメラで撮り脳に記憶する方法のように思われます。本のページを目で見た瞬間に記憶してしまうのです。従って経典なども凄い勢いで暗記できたはずです。また本に書かれた漢字の字体(書体)もそのままの形で記憶したものと思われます。そして記憶した書体をそのまま再現することができたと考えられます。そのため筆で評判をとったのです。空海の虚空蔵求聞持法の特徴は再現力です。1度目にしたものは、即座に再現できたのです。これは絶対音感がある音楽家や似顔絵師を考えれば理解できます。唐で恵果が空海に驚いたのはこの部分の能力だと思われます。空海は、恵果が話した内容を1回で理解し、やって見せた印の結び方などの動作を即座に再現したのです。これなら文句の言いようがありません。こうして恵果は僅か2ヶ月で伝法を終え、師位まで空海に譲ったものと思われます。
空海がいつから真魚ではなく空海と名乗るようになったかは不明ですが、この文では以後真魚ではなく空海と表記します。これにより虚空蔵求聞持法を修得した空海は、奈良に戻りまた経典を読み漁ったものと思われます。その中で密教の大日経というものが日本に持ち込まれていることを聞き、必死に探したようです。そして写しを見つけ解読しようとしたようです。しかし、サンスクリットが混じっていたことからさすがの空海も完全には理解できなかったようです。これに叔父阿刀大足と同じ阿刀氏の出である法相宗の僧玄昉がかって唐に留学していたこと、母方の成功者である佐伯今毛人がかって遣唐大使として唐に行く予定だったことを聞いていたこともあり、遣唐使を志したものと思われます。
4.遣唐使として唐へ
(1)最澄は国費派遣
大日経を解読する中で壁に突き当たっていた空海が遣唐使派遣の話を聞いたのは802年頃とされています。藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)を団長とする今回の遣唐使の派遣(第16次)はその前年の801年に決まっていたようです。24、5年ぶりの派遣で803年3月の出航となっていました。その中には比叡山の最澄が含まれていました。最澄は還学生(げんがくしょう。国費で派遣される短期留学生。)としてであり、天台山で天台宗を学び、帰りの遣唐使船で帰国することになっていました。このとき最澄は36歳で、既に内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)という宮中で天皇の安寧を祈る高位な僧となっていました。
最澄は近江国比叡山山麓の出身でした。12歳で官許を得て近江国の官寺国分寺に入り出家しました。14歳の時に国分寺の僧枠に欠員が生じたため得度(見習い僧)し、法名を最澄とします。それから5年後の785年4月東大寺の戒壇で具足戒(250の戒律)を受けます(正式な僧)。しかしその3カ月後の7月国分寺を辞め比叡山に草庵を建て12年に渡り山林修行を行います。最澄は仏教を自身の栄達の手段とし衆生の救済を顧みない南都六宗に代わるものとして法華経を拠り所とする天台宗の教義を確立しようとしていました。最澄の主張は、南都六宗のうち華厳宗を除く5宗は釈迦の説法を記録した経典を拠り所としておらず、経典の解釈書である論書を拠り所としている、釈迦の説法を記録した法華経を拠り所とする天台宗だけが釈迦の教えを受け継ぐ唯一の仏教である、ということでした。これに理解を示し保護したのが山城の高尾山寺(現神護寺)を私寺としていた和気清麻呂でした。清麻呂は南都六宗に批判的でした。清麻呂は皇位に就こうとした道鏡の野望を阻止し、一時は道鏡により九州の大隅に左遷されましたが、その後復活し、当時の桓武天皇に重用されていました。当時桓武天皇が遷都した長岡京では忌々しい事態(藤原種次暗殺など)が発生し、平安京遷都が決定されました。それに合わせ桓武天皇は南都六宗に代わる新しい仏教を求めており、和気清麻呂が最澄を推薦したようです。平安京遷都の3年後桓武天皇の寵愛を受けた最澄は内供奉十禅師の1人に就任します。この年最澄は31歳でした(空海24歳。私度僧)。それから5年後の802年最澄は桓武天皇の勅命により高尾山寺で南都六宗の代表的な学問僧を呼び法華会を行っていますので、天台宗および最澄は南都六宗の上位にたったことになります。この後最澄は桓武天皇に入唐求法(にっとうぐほう。唐に行って仏教の経典を手に入れる)を上表したようです。日本仏教界の頂点に立ち、更に仏教経典の研究を充実させなければならいと思ったようです。これに対しては翌月には勅許が下りています。最澄は国の使節扱いであり、通訳が付き多額の官費が支給されました。
(2)空海もメンバーに潜り込む
一方当時の空海は私度僧であり、いわば不法僧でした。空海としては大日経の解読を進めた結果、唐に行って大日経の経典の解釈や修法を学ぶ必要性に迫られていましたが、1年後に迫った遣唐使船の出航までには時間がなくどうしようもありませんでした。
空海は節目節目で幸運に恵まれています。803年4月に難波津を出航した遣唐使船は、九州の近くで悪天候に合い引き返し、翌年7月に再出発することとなったのです。
これを知った空海を応援する人物たちが動きます。その筆頭は空海の才能を高く評価する大安寺の勤操だったと思われます。勤操は大安寺の有力僧であり官僧の管理を行う僧綱所(そうごうしょ)や高級官吏とも繋がりがありました。また伯父の阿刀大足も桓武天皇の第三皇子の侍講だったことから、朝廷に人脈がありました。更に佐伯氏に連なる佐伯今毛人は、桓武天皇の長岡京造営で重要な役割を果たしましたし、775年には遣唐大使に任命され入唐する予定になっていた(病気で中止)こともあり、その関係者として縁が強調されたものと思われます。縁と言えば古くには(716~735年)阿刀氏に連なる法相宗の僧玄昉も唐に留学していたこともありました。これらが功を奏して804年1月空海に留学生(るがくしょう)として入唐することを認める勅許が下りました。留学生は滞在期間20年で、留学費用は自分で準備する必要がありました。私度僧だった空海は急ぎ東大寺の戒壇で得度し(具足戒を授けられた僧。しかし官僧ではない。官僧は欠員がでないとなれない)、遣唐使船の出航まで留学費用の工面に奔走したようです。空海はこのときの留学費用も無事準備しましたし、その後資金が入用な場面では見事に獲得していますので、資金集めは上手かったものと思われます。
(3)空海は苦難の末に長安へ
そして空海らが乗った遣唐使船は、804年5月12日に難波津を出航しました。九州肥前国の田の浦津を7月6日に出発しているようなので、この日を以て遣唐使船の公式な出発日としているようです。この船団は4隻で空海は第1船に遣唐大使藤原葛野麻呂、後の三筆の1人となる橘逸勢(たちばなのはやなり)と一緒に乗り込みます。最澄は第2船に乗り込みます。その後船は東シナ海で暴風雨に合い、第3船と第4船は行方不明となります。第1船は34日漂流して8月10日現在の福建省寧徳市近辺に流れ着いたようです。第2船は50日余り漂流して9月1日現在の浙江省寧波市に流れ着きました。第1船が着いた町の役人では上陸の判断ができず、海路を250km離れた福州の大きな町に行くよう指示されます。中国に流れ着いてから2カ月が経っており、一同とても一国の使節とは思えない様相となっていました。そのため福州の町の役人に海賊と疑われ、上陸許可が出ません。そこで遣唐大使の藤原葛野麻呂が福州の観察使宛に嘆願書を出しますが、遣唐使を証明する国書なり印符なりを見せるよう要求されます。しかし、国書は持参しないのが遣唐使の慣例になっており、印符は第2船に乗っている判官菅原清公が持っていました。そこで困り果てた藤原葛野麻呂は、橘逸勢から漢詩や漢文が得意で能筆と聞いていた空海に嘆願書の代筆を依頼します。というのは、中国では能筆や文書を書く能力が尊ばれ、文書の内容や筆致によって相手がどの程度の人物か判断する習慣があったからです。空海は格調高く、見事な筆致の嘆願書を書き上げます。それを見た観察使は態度を一変し、上陸の許可を与えると共に長安に指示を求めます。すると長安からは国賓として扱い、速やかに長安に送るようにとの勅命が発せられます。
しかしここでまた難問が生じます。長安に行けるのは一行120名余のうち20数名というのです。そうなると上級官吏や官費留学生が優先されます。そしてその選択権はこの町の観察使にありました。案の定観察使から示された長安に行くことを許可する者のリストには空海の名前はありませんでした。そこで空海はまた観察使宛に長安に行かなければならない理由などを書いた嘆願書を書き上げます。これも見事な内容と筆致だったため、観察使は空海のことをただ者ではないと判断し、長安行きを許可します。空海一行は11月3日に福州を出発し、12月23日に長安に到着しました。
(4)最澄は順調に目的を果たす
一方最澄の方は、乗船していた遣唐使判官の菅原清公が印符を持っていたことからすんなりと長安行きが認められます。この一行は11月15日には長安に入ったようです。しかし最澄は長安には向かわず天台山に向かいます。天台山は流れ着いた浙江省の東部の山で、天台宗の中心地でした。そこで最澄は天台宗第7世道邃(どうすい)から天台法華経の教えを受けると共に日本には入っていなかった経典を書写し持ち帰る準備を進めたようです。また道邃から大乗菩薩戒を受けたことが後に比叡山寺に大乗戒壇を設けるきっかけとなります。天台山では禅林寺で南宋禅も相承(そうじょう。教えを受け継ぐこと)し、帰国後天台宗の1部門としました。最澄は空海らが長安に到着した頃には、天台山を降り海に近い龍興寺に移り、その後遣唐使船が出向する明州に向かったようです。しかし明州では遣唐使船の出港準備に時間がかかるとのことから、越州の官立寺院龍興寺に出向き、その寺の順曉(じゅんぎょう)という僧から1カ月程密教の教えを受けます。順曉は不空の弟子とされていますので、最澄が教えを受けた密教は金剛頂経を中心とした不完全なものだったようです。しかし、この後最澄が日本に帰国し、直ぐに桓武天皇に密教を報告し桓武天皇の支持を受けたことから、最澄は日本において密教の指導者の地位を占めます。なぜこんなに早く桓武天皇の支持を得たかというと、唐の玄宗皇帝が不空の密教の呪術性を気に入り、宮廷で修法を行わせて効果を上げているという情報が桓武天皇の耳に届いていたからでした。遅れること2年後空海は大日経と金剛頂経を共に学び帰国しますが、そのときには最澄の伝えた密教が日本で正当な密教の地位を確立しており、空海の密教が認められるには、4年以上の歳月を要しています。密教によって最澄と空海は接近し、そして離反します。
長安では、藤原葛野麻呂らの同伴者は翌年805年2月10日に長安を出発し帰国の途についています。藤原葛野麻呂や最澄を載せた帰りの遣唐使船は、明州の港を805年5月18日に出港し、805年6月5日には対馬に到着しています。
(5)長安での空海
藤原葛野麻呂一行を見送った空海は、長安の賑やかな一般街にある西明寺に止宿します。西明寺は奈良の大安寺にそっくりでした。そのはずです。大安寺は西明寺を真似て建てられた寺だったのです。西明寺ではサンスクリットで書かれた仏教経典の漢訳を行っていました。また密教情報の収集・調査の役割も果たし、日本から来た留学僧の殆どが止宿していました。空海の目的は密教、とりわけ大日経の教えを学ぶ(確認する)ことと具体的修法を学ぶことだったのですが、大日経にはサンスクリットで書かれた部分が多かったため、先ずはサンスクリットを学ぶことから始めたようです。空海は艶泉寺のインド僧般若三蔵からサンスクリットを学びます。2月末から5月末までの約3か月間をサンスクリットの習得に充てたようです。それと当時に密教に関する情報を収集します。それによると密教は大日経に基づく密教と金剛頂経に基づく密教という2つの思想があることが分かりました。大日経は東インド生まれの善無畏(ぜんむい)という僧が、金剛頂経は中インド生まれの金剛智(こんごうち)という僧が漢語に翻訳して唐に伝えたということです。いずれも日本にあった呪術性の強い古密教とは違い、しっかりと体系化されていました。金剛智の弟子である不空は自ら金剛頂経や理趣経などの密教経典を漢訳し、金剛智から金剛頂経に基づく密教を受け継ぎます。不空は唐における密教の隆盛を招いた人で、玄宗皇帝に寵愛され、金剛頂経は唐王朝の宮廷宗教の一画を占めます。不空の一番弟子である恵果は不空から金剛頂経に基づく密教を受け継ぎ、大日経に基づく密教を善無畏の弟子である元超から学びます。ここで恵果は2つの密教を知る唯一の人となったのです。そして恵果はこの2つの密教を統合して瑜伽(ゆが)密教という新しい密教を作り上げます。しかし唐では不空亡き後儒教や道教、天台宗などが勢いを持ち、瑜伽密教は勢いがありませんでした。恵果は学究肌で皇帝に取り入る能力は無かったようです。
空海は、大日経に基づく密教については大日経の写しを読んでいましたが、金剛頂経や理趣経については聞いたことさえありませんでした。
(6)空海、恵果から灌頂を受ける
こんな中で5月末頃空海は青龍寺に恵果を訪ねます。会うなり恵果は「我、先より汝来ることを知りて相俟つこと久し。今日相ま見ゆること大いに好し、大いに好し」と喜び、「私の寿命は長くありませんが、密教を託する人がいません。直ぐに弟子になる儀式を行いましょう」と弟子入りを許します。空海が長安に入ってからその文才や能筆なことなどが文化人の間で評判になっており、恵果にも伝わっていたものと思われます。またサンスクリットを学んだ般若三蔵からもその学習能力の高さが伝えられていたと思われます。また恵果は瑜伽密教を伝授した1番弟子を失くしており、次の後継者に足る人物を探していたものと思われます。そこに丁度空海が現れたのでしょう。空海と会った恵果の喜びようは大変なものだったようです。
空海が恵果から教えを受けたのは6月と7月の2カ月間だったようです。先ず6月上旬に胎蔵界の灌頂(教えを受ける前などに行う儀式)を受け、その後1カ月間大日経に説かれている修法や儀軌(儀式規則)、観法(真理を直観的に認識する修行)などを伝授されました。次は7月上旬に金剛界の灌頂を受け、その後1カ月間金剛頂経に説かれている修法や儀軌、観法などの伝授を受けました。そして空海は8月上旬に伝法灌頂を受けます。これは阿闍梨位(教える立場になる位)を受ける者に対して秘密の修法を授ける儀式です。これにより空海は恵果の弟子の中で最高位となり、恵果の後継者となります。これから約4か月後の12月15日に恵果は入滅したため、空海は密教の第8代の師位に就いたことになっています。しかし、これは正確でないと思われます。確かに金剛頂経は不空から恵果に引き継がれており、空海は正当な承継者と言えますが、大日経については、恵果は大日経の正当な承継者からその地位を引き継いだわけではなく、その弟子の1人から教えを受けただけです。その上で恵果は、金剛頂経と大日経を統合した瑜伽密教を作り上げています。それも経典は整備されておらず、考え方を口述で空海に伝えただけです。そのため空海は日本に帰ってからこの経典の整備に時間をかけています。瑜伽密教は恵果が提唱し、空海が確立した新しい密教と言えると思われます。
恵果は弟子が1000人もいながら、異国から来た空海に何故あっさりと密教の指導者の地位を譲り渡したのでしょうか。この点については、唐でも長老たちを中心に反対があったようです。恵果が不空から師位を引き継いだ後、密教は道教などに押され衰退する一方であり、今後中国で再び盛んになる可能性は少なかったように思われます。恵果はこの状況を寂しく思い、自分が考えた新しい密教(瑜伽密教)が異国の日本で隆盛することを期待したのではないでしょうか。
5.大日経・金剛頂経・理趣経
(1)大日経
ここで密教経典の3本柱である大日経、金剛頂経、理趣経について少し説明したいと思います。
大日経は、正式には「大毘盧遮那成仏神変加持経」(だいびるしゃなじょうぶつじんべんかじきょう)と言います。この経典は、大日如来(魔訶毘盧遮那仏)を根本最高の仏とし、大日如来が密語(真意をわざと隠して説いた言葉や教え)で説法する様子を描いたもので、胎蔵界を描いています。胎蔵界とは、大日如来を理性の面から見て言う言葉で、蓮華や母胎が種子や子を育てるように、大日如来の広大な慈悲が衆生の秘めている仏性を育てて仏とする理法の世界のことで、この世界を絵図にしたのが胎蔵界曼荼羅です。密教では教えの深奥を言葉で表すよりも図示して人々に感じさせる方法をとります。胎蔵界曼荼羅は大日如来を中心にしてその知恵と大悲(慈悲)によって生まれ出た諸仏・諸菩薩など総勢390尊が宇宙に満ちてゆく様子を描いています。その様子は悟りへと至る精神の道筋ということになります。そして大日如来はこの世界(宇宙)のありのままの姿(実相)を仏格化したもので、仏智(仏の欠けたとこの無い知恵)を得るとは、大日如来の智慧を獲得することで、それは即ち大日如来となること=成仏するということになります。
そして成仏する=大日如来になる具体的な方法が大日経に書かれています。それは、修行者(人間)の3つの行為(三業)と大日如来の3つの行為(三密)がシンクロ(相応)して融合することで不思議な力が現れ、その瞬間に仏となり(即身成仏)悟りの境地になれるとします。三業とは人間の身体の動作である身業(動作)、言葉表現である口業(言葉)、心の働きである意業(意志)のことで、これが仏の身密・口密・意密(三密)と1つになれば(三密加持)即身成仏できると説くのです。それは、人間はもともと仏性を持っているとされているからです。要するに人間の原点に戻れば良いだけだと考えるのです。その為に修行者は、身(手)に印契(いんげい)を結び(身密)、口に真言を唱え(口密)、心に大日如来を思い描く(意密)ことを行います。そしてこれらの具体的方法(修法。どのような印を結ぶか、どのような真言を唱えるかなど)は秘法となっており、密教の師から次の師に受け継がれていました。密教というと護摩を焚く場面が思い浮かびますが、それも修法の1つです。護摩とは火祭りを意味するサンスクリットの音訳で、護摩木を焚いて祈る儀式のことです。護摩木は人間の煩悩を表し、火は仏の智慧や真理を表し、煩悩を仏の智慧や真理で焼き払い消滅させます。その際に真言を唱えますが、真言は仏・菩薩の誓いや教えなど真実を語っている意味の深い呪文的な短い言葉のことでサンスクリットのまま唱えます。そのとき手には印契を結びますが、それは指を決められた形に折り曲げて、仏や菩薩の悟りや力を象徴的に表しています。このように密教は抽象的な言葉を具体的な形にして教え示そうとしているように思われます。
(2)金剛頂経
次に金剛頂経です。これは大日経とは違ったアプローチにより大日如来に至る教えです。金剛頂経とは、正式には「金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経(こんごうちょういっさいにょらいしんじつしょうだいじょうげんしょうだいきょうおうきょう)と言います。金剛とは金属の中で最も固い宝石のことで、大日如来の智慧の力のことです。その知恵が全ての煩悩を打ち砕くことから大日経の胎蔵界に対して金剛界と呼ばれます。金剛頂とは全ての経典の中で最高と言う意味です。この経典では大日如来が自ら悟りの内容を明かし、それを得るための方法、即ち仏になるための方法を5段階に分けて示しています。順番に、自分の心の奥底を見つめること、悟りを得たいと思うこと、菩提心を起こすこと、自分の心は仏と同じと思うこと、仏と自分は1つと思うこと、です。これは最終的には大日如来と一体化することを意味しています。金剛頂経に基づいて大日如来に至る道筋を描いた絵図が金剛界曼荼羅です。そこに描かれている諸尊の数は1,458尊で胎蔵界曼荼羅の3.7倍以上です。これは金剛頂経が現実の煩悩から出発しているため、煩悩の種類が多くなり、そのためそれらを打ち砕き悟りに導く菩薩や仏の数が多くなったのではないかと考えられます。
ここで分かることは、金剛頂経の中では金剛頂経こそすべての経典の中で最高のものと言っており、大日経と相いれない関係にあるということです。また金剛頂経は煩悩にまみれた現実の世界を出発点にして、大日如来と一体となる方法を示しています。一方大日経は、そもそも人間は仏性を持って生まれていると考えますから、出発点は生まれたての人間です。即ち、出発点が真逆なのです。そして同じ大日如来に辿り着いています。帰納と演繹の関係に似ています。
金剛頂経は不空により唐の玄宗皇帝に認められ、宮廷宗教の一画を占めます。それでも中国で生まれ護国思想を説く道教が圧倒的地位にありました。そんな中で不空は個人的才覚で玄宗皇帝に取り入ったのです。不空は本来金剛頂経にはない護国の験力を説いて玄宗皇帝に取り入ります。そして玄宗皇帝時代に起きた反乱(安禄山の反乱)の際には、反乱軍を破るために壇上に登り金剛頂経の修法を行います。その後皇帝側が勝利したことから、不空は玄宗皇帝から寵愛されます。しかしこれは不空個人を寵愛したものであり、金剛頂経を寵愛したものではありませんでした。玄宗皇帝が帰依するのはあくまで道教でした。この為不空が亡くなると、その後継者である恵果には不空のような政治的才覚は無く、金剛頂経は宮廷宗教の一画の地位を失くして行きます。空海が恵果に会った頃は、金剛頂経の唐での衰退が明らかになっていた時期でした。
恵果は、本来別々の思想として生まれた大日経と金剛頂経の2つを統合し1つにしたと言われていますが、不空からは金剛頂経の師位を引き継いだようですが、大日経については 大日経の正統な承継者である善無畏の弟子の元超から教えを受けたと言うだけで正当な承継者ではないようです。従って、恵果が統合したしたのは、2つの正当な密教ではないと考えられます。そもそも別々に生まれ育った2つの教えを1つに統合することができるのか疑問が残りますし、2つの曼荼羅の存在などに統合の難しさが現れていると思われます。
密教では両部不二と言う言葉があり、胎蔵界と金剛頂界は別々に存在するが2つではない、1つだと説明され、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅を左右に並べて一対として飾られます。
(3)理趣経
密教の3つ目の経典は理趣経です。正式名は「般若波羅蜜多理趣百五十頌」(はんにゃはらみったりしゅひゃくごじゅうじゅ)です。意訳すると「真理に至る修行の道理を歌った詩」となるでしょうか。理趣経は、宇宙に存在する一切のものはもともと清浄であり、煩悩に悩まされている人間の心も本来は清浄であり、その営みも清浄である、ということを説いています。とりわけ男女の愛欲行為を清浄なものとして肯定し、17の教え(十七清浄句)として説いています。これでは男女の愛欲行為の様々な所作を示して清浄であり、悟りの境地であると説いています。普通に読めば愛欲礼賛とも読めることから、一般には知られていません。公式な理趣経の説明としては、人間は小欲という個人の欲望を超えて大欲という大きな望みを持ち、真理を求めて生きることが大切であり、あらゆる人々の利益を願うのが人の務めであるということを説いている、とされているようです。しかし、実際の内容は愛欲礼賛になっています。密教が人間はもともと清浄であると考える限り、生殖のための行為は清浄の極みと位置付けざるをえません。これは密教の出発点であり、根本原理とも言えます。しかし、これが行き過ぎると邪淫教となることから(実際にこの教えを強調する一派が存在した)、密教と言えば大日経と金剛頂経とされ、理趣経は隠されてきました。また今後とも表立って取り上げられることはないと思われます。面白いのは、真言宗寺院や空海が一時別当を務めた東大寺では、朝の勤行で理趣経が読誦されていると言うことです。理趣経は短い詩句で構成されているので、読む際にリズムが良いからのようです。
鎌倉時代に親鸞は妻帯に踏み出しますが、これも理趣経の影響ではないかと考えられます。というのは、親鸞が学んだ比叡山の天台宗は、法華経を基本として密教もその一部としていました。そのため、親鸞は理趣経も学んだと考えられます。仏教を幅広く衆生に受け入れられるものとするためには、僧自身も妻帯可能とするのが当然の流れであり、それは理趣経の教えと合致しました。
6・帰国へ
空海は、恵果から伝法灌頂を受けた翌年の806年2月、日本からの遣唐使船が昨年12月末に明州に到着したと聞かされます。この半年くらい前に空海らが乗った遣唐使船が日本に帰ったばかりでしたので、にわかには信じられないことでした。しかしこれは事実でした。帰国した藤原葛野麻呂から順宗皇帝が即位したということを聞かされた日本の朝廷がその祝賀のために高階遠成(たかしなのとうなり)を判官とする遣唐使船1漕を派遣したというのです。この情報を確認した空海は、この帰りの遣唐使船で帰国する決心をします。空海は期間20年の留学生として唐に来ており、これを勝手に切り上げて帰国することは闕期(けっき)という罪となりました。しかし、恵果から伝法灌頂を受け、恵果が入滅し密教の第8代の師位を受け継いだ空海には、もう唐で学ぶものは残っていませんでした。そこで遣唐使船の帰国まで半年くらいかかるとみて、空海はその間長安の街を歩き回り密教や他の宗教関係の資料、書や漢詩などの資料を買い漁ります。20年間の留学費用をこれに充てたようです。高階遠成らは2月の半ばに長安に到着しますが、即位を祝う予定だった順宗皇帝が突如亡くなったため、慶事ではなく弔事に参列することとなりました。空海は留学生であり日本から唐の皇帝に託された学生の身分でした。そこで帰国するためには、日本の大使(この場合は高階遠成)から唐の皇帝に申請し、許可を受ける必要がありました。空海は自ら申請書を書き上げ高階遠成に提出し、皇帝の帰国許可を得ます。ここでも空海の文章と筆の力が生きたようです。また空海の筆と漢詩の実力や恵果から伝法灌頂を受けたことなどが皇帝側(官吏)に伝わっていたことが許可の助けになったと思われます。この許可には、空海と一緒に留学していた橘勢逸も含まれていました。勢逸の場合は漢語が分からず、学び続けることが困難と言う理由だったようです。この後空海は、お世話になった人たちに漢詩を贈るなどお礼と帰国の挨拶をしています。空海が残した漢詩が今も中国に残っているようです。また、その後遣唐使船に乗る間滞在した越州では、地元の節度使に書籍の寄付などを要請する書簡を書いて、資料の収集を行っています。空海一行は明州を8月下旬に出航、九州の博多津に806年10月初旬に到着し、大宰府に入ります。しかしこれから2年以上空海は大宰府に留め置かれることになります。
7・都に入れず
大宰府で鴻臚館に滞在した空海は、朝廷に報告するため、唐から持ち帰った密教の経典(仏の教え)、経論(経典の解釈書)、仏画、法具などを書いた一覧表を付けた報告書(請来目録)を作成します。この目録は長さが10mにも及んだということです。空海の最大の懸念は、20年の留学期間を僅か2年余りで切り上げて帰国したことでした。これは闕期という罪に当たりました。従って空海は、この報告書の中でこの弁明に力を入れます。空海はこの中で、「闕期となったことは死して余りある罪であり心から謝罪する、しかし唐で密教の最高指導者恵果から密教の奥義を残らず伝授されたので唐で学ぶものはなくなった、恵果からも早く日本に帰り国家に密教の教えと修法を差し出し、国に広めて人々の幸福に努めよと言われたので帰国した」と弁明しています。これは10月21日の日付となっており、3週間くらいかけて作成したようです。丁度その頃朝廷から高階遠成に上京せよとの命令が下りますが、上京者の名簿には空海は含まれていませんでした(橘勢逸は含まれる)。そこで空海は請来目録と多くの経論を高階遠成に預けて朝廷に差し出して貰うことにします。高階遠成一行は12月13日には京に到着し、ほどなく高階遠成は空海から預かった請来目録などを朝廷に差し出します。年が明けても空海への上京許可は出ません。その原因の1つは、空海が遣唐使船で出発した後、朝廷では空海が国家から認められた官僧でなく私度僧だったことに気付き、問題になっていました。そんな中、遣唐大使だった藤原野葛麻呂が帰国して、空海のおかげで長安に入れたことなどを力説します。その結果朝廷は、805年9月11日付(空海は長安で伝法灌頂を終えていた時期)で太政官符を発令し、空海は804年4月に国家から認められて出家・得度した(官僧になった)ことにしました(翌月5月、遣唐使船は難波津を出発)。
このような問題があった空海が20年の留学期間を2年余りで切り上げて帰国したのですから、問題にならないはずがありません。言うなれば空海はいわくつきの僧ということになります。このとき空海の留学を許可した桓武天皇は没しており、責任者不在の状況でした。
それに加え、805年6月に帰国した最澄が密教を桓武天皇に報告し、桓武天皇の寵愛を得て、日本における密教の最高指導者の地位についていたのです。朝廷内には最澄以外の高僧も仕えていたので、空海から提出された請来目録を見れば、空海の持ち帰った密教が本物であることは直ぐ分かります。しかし、今空海が入京したら最澄の下に出来上がっていた仏教界の秩序が崩壊する恐れがありました。更に桓武天の後に即位した平城天皇の下、謀叛の噂や醜聞が空海の上京を阻んでいました。謀叛の噂と言うのは、桓武天皇の第三皇子伊予親王が謀叛を企んでいるという噂です。伊予親王の侍講の1人は空海の叔父の阿刀大足であり、大足も仲間と噂されていました。その結果空海も仲間ではと疑われたのです。これは当時権勢を誇っていた藤原家の内部抗争で、平城天皇擁する藤原式家の藤原仲成と妹で平城天皇の愛人である藤原薬子の兄妹が、南家に繋がる伊予親王が力を持つのを恐れて流した嘘の噂でした。その結果伊予親王は自害に追い込まれます。これが807年11月頃です。この頃空海は大宰府の鴻臚館から同じく大宰府の官寺観世音寺に移って半年経っていました。伊予親王自害後、朝廷は平城天皇・上皇を藤原仲成および薬子兄妹が操る時代が約3年続きます。この結果空海は上京できないこととなります。
こういう中で翌年808年6月太政官符が発令され、その中に空海は官僧であるからこの夏の課役は見送るという記載と共に、空海を在唐20年間の留学義務から解くよう申し送るとの記載もありました。着々と空海上京の環境作りが行われていることが伺われます。朝廷では、空海を連れ帰った高階遠成や橘勢逸が長安での空海の評価の高さを伝えると同時に、空海が提出した請来目録を見た南都六宗の高僧たちも早く実物を見ることを望んだようです。そして最も空海の上京を望んだのは意外にも最澄だったようです。809年、空海に京ではなく和泉国の槇尾山寺に入るようにとの指示が来ます。ここは空海を評価していた大安寺の勤操が管理する寺で、槇尾山寺への移動には勤操が関わっていることが伺われました。これは、京では平城天皇下で藤原仲成と薬子兄弟が権勢を誇っており、伊予親王事件の影響が残っていることから、空海を京から遠ざけようとしたものと考えられます。
そして翌年の809年4月、平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位します。平城天皇は36歳と若かったのですが、伊予親王が自害した後体調不良となりました。平成天皇はそれを伊予親王の祟りと考え、突発的に退位宣言をしたようです。
嵯峨天皇は唐へのあこがれが強く、書や漢詩に通じ、特に書は一流でした。そこで南都六宗の高僧たちが動きます。と言うのは桓武天皇から平城天皇の時代には、天皇家に禍が降りかかり、これを払うために密教をもたらした最澄が寵愛され、今では宗教界のトップに君臨していました。南都六宗の高僧たちにとっては、この最澄の影響力を削ぐのが悲願だったのです。それには請来目録を見れば分かるように最澄のもたらした密教を上回る密教を持ち帰った空海を押し立てる必要がありました。当時の平安京は南都六宗の影響力を削ぐために遷都されたため、寺としては東寺と西寺しかありませんでした。そこで最澄が拠点を構える都の北東の比叡山寺に対し、都の北西にある高尾山寺に空海を住まわせたらどうかとなったようです。しかし、その頃高尾山寺は最澄の庇護者である和気氏(清麻呂の子広世)の私寺で最澄用の住坊も用意されていました。そこで和気氏から最澄に相談したところ、空海が持ち帰った密教経典を評価する最澄は快く承諾したようです。こうして嵯峨天皇即位3か月後の809年7月16日、槇尾山寺にいる空海に上京せよとの太政官符が発令され、空海は高尾山寺に移ります。
8・空海と嵯峨天皇
809年10月嵯峨天皇からの勅使がやって来ます。空海は密教のことかと思ったようですが、そうではなく、「世説」という五世紀半ばに成立した中国の支配階級の逸話集の中から秀句を抜き出し屏風二帖に揮毫して差し出せということでした。唐では文人や名士の間で書を鑑賞する文化があり、そんな長安で空海が評判を採っていたという話が嵯峨天皇の耳にも届いていたようです。嵯峨天皇は唐風を好み、自ら能筆であったことから、空海の実力を試してみたいと思ったようです。空海は評判取りの揮毫を行い、嵯峨天皇を虜にします。ここから空海は嵯峨天皇の敬愛を受け、実質的に仏教界の最高実力者に上って行きます。
一方嵯峨天皇は退位し上皇となった平城上皇の反抗的な態度に悩まされます。平城上皇は禍を避けるためと称して寵愛する薬子と共に転居を繰り返します。そして最終的には旧都平城京に住むと言い出します。しかしそこには上皇が住めるような宮殿がなかったため、薬子の兄藤原仲成に宮殿の造営を命じます。その間大臣の旧居を仮の御所として再び政治に関与するようになり、二朝政治と言われるようになりました。そして810年9月6日、平城上皇は天皇ではないのに平城京に遷都する旨の詔勅を発します。ここで嵯峨天皇は素直に上皇に従うような素振りを見せ、坂上田村麻呂ら3人を平城京の造営使に任命し、派遣します。坂上田村麻呂には、畿内から東国に抜ける3カ所の関所に兵を配置するよう命じます。その上で藤原仲成は捕らえて監禁の上左遷する、薬子の官位(従三位)と尚侍(ないしのかみ)という官職を剥奪し無位無官とする決定をします。これを聞いた平城上皇は東国へ行き兵を集め挙兵しようとしますが、関所が固められていたため失敗します。その結果、藤原仲成は射殺され、薬子は服毒自殺し、平城上皇は剃髪し出家しました(薬子の変)。
これにより嵯峨天皇の親政が始まります。そして空海はこのような状況を利用し、空海の真言密教を国家公認の正統な密教としようとします。というのは、当時最澄の天台宗が南都六宗に次ぐ7つ目の国家公認の仏教の地位を獲得し、最澄がもたらした密教が正当な密教の地位を獲得したままだったのです。そこで空海は薬子の変が鎮圧された直後、嵯峨天皇に一連の政変で混乱した国家を鎮めるための修法を高尾山寺で行いたいという上表文を提出します。それは嵯峨天皇も望む所であり、直ちに勅許します。これは唐の玄宗皇帝のときに、金剛頂経の師位にあった不空が安禄山の反乱を鎮めるために大々的に密教の修法を用いたのと似ています。このため空海は恵果よりも不空を目指していたという見方もあります。空海は11月1日から7日間真言密教に依る修法を行います。煌々と焚かれる護摩木、護摩壇に飾られた見事な法具の中で、手に印契を結び、真言を唱えながら光り輝く法具類を駆使する空海の神秘的かつ華麗な修法に参列した皇族や貴族などは圧倒され、息を飲みます。これを見た嵯峨天皇は、空海の真言密教は鎮護国家に役立ち、自分らに降りかかる禍を振り払う力があると確信します。ここから空海と嵯峨天皇は、書と教えの両面で強い絆で結ばれます。翌年嵯峨天皇は空海に対し唐の漢詩である「英傑六言詩」、「飛白書」などの書写を依頼します。空海も唐で入手した「徳宗皇帝真蹟」、「欧陽詢真蹟」などを書写し、嵯峨天皇に献上します。こうして空海と嵯峨天皇の交友が深まって行く中で、この年空海を1年の任期で官寺乙訓寺の別当とする旨の太政官符が発令されます。実質的には嵯峨天皇の勅命でした。この目的は、嵯峨天皇が空海を近くに置き交遊を深めたいと思ったことと同時に、不幸な歴史がある乙訓寺を空海の験力で除霊することにあったと思われます。乙訓寺は26年前桓武天皇の皇太子早良親王が藤原種継暗殺を指示したとして、桓武天皇によって幽閉された寺でした。その後早良天皇は淡路に配流される途中で絶命したため、乙訓寺には早良親王の霊が住むという話があったようです。乙訓寺に滞在した1年間で空海と嵯峨天皇の交遊は一層深まったようです。空海は乙訓寺で取れた柑子を嵯峨天皇に献上します。また嵯峨天皇から請われ狸の毛で作った筆を献上します。漢字の学習書である「急就集」や詩集の「王唱齢集」なども献上しています。嵯峨天皇の近くに住まわせた効果は十分あったようです。
9・空海と最澄
(1)最澄が日本の密教の第一人者に
最澄は、805年6月唐から帰国して朝廷に帰国報告をしますが、入唐の主目的だった天台宗についての成果よりも、帰国船を待つ間に偶然学んだ密教の方に興味を持たれます。それは最澄が入唐中に唐から当時唐の玄宗皇帝が取り入れていた密教の評判が日本の朝廷に聞こえていたからです。密教は、鎮護国家や禍除去の験力を持つと評判でした。当時弟の早良親王やその母を自害に追い込んだ桓武天皇は、早良親王らの怨霊の祟りを恐れていました。桓武天皇は、最澄がもたらした密教に怨霊祓いを期待したのです。そこで桓武天皇は、最澄に高尾山寺で灌頂を行うよう勅命を出します。そしてその灌頂には、南都六宗の長老も出席するよう命じます。即ち、天皇、皇族、貴族、高位の官吏ばかりでなく南都六宗の高僧まで密教の信者にしようとしたのです。これは最澄帰国後3カ月も経たない時期(805年9月)に行われます。その後最澄は、宮中で桓武天皇の病気治癒や禍除去のため密教の修法を行い、桓武天皇の信頼を深めます。
翌年の806年1月最澄は、桓武天皇に天台宗に南都六宗のように毎年2名の官僧を出す資格(年度分者)を与えて欲しいと上表します。これは天台宗を南都六宗と並ぶ国家仏教とすることを意味していました。この上表はあっさりと承認されます。そこで天台宗は毎年2名の官僧を出すことが出来るようになりましたが、1名は法華経を学ぶ天台コース(止観業)から、もう1名は大日経を学ぶ密教コース(遮那業)から出すとされました。これにより密教は天台宗の1部門とされ(台密)、最澄は桓武天皇から「密教を伝えた第一人者である」と認定されます。こうして最澄は仏教界の頂点に立ちます。しかし、その1カ月半後の806年3月、最澄の修法の効果もなく桓武天皇は病死します。この頃空海は帰国のために長安を発った頃で、このような事実は全く知りません。桓武天皇の死後即位した平城天皇も南都六宗には批判的であり最澄に好意的でしたが、最澄に批判されていた南都六宗は最澄追い落としの機会を狙っていました。
そんな中空海が帰国し提出した請来目録を見た南都六宗の高僧たちから、空海が持ち帰ったのが正統の密教で、最澄が持ち帰ったのは傍流の密教であり、それも一部に過ぎないという評価が広がります。それは否定しようがなく最澄自身も感じていました。しかし国家の公式の立場としては、桓武天皇が最澄を密教の第一人者と認定していました。そこで最澄は、空海が持ち帰った密教の経典を学び、空海から伝法灌頂を受ければ密教の第一人者としての地位を護れると考えたと思われます。
(2)密教経典の貸し借りが始まる
そのため最澄は、空海が高尾山寺に移って1カ月も経たない809年8月24日、最澄からの手紙を持たせた弟子経珍を空海の元に派遣します。その手紙は、借りたい経典として密教経典12部53巻を書き連ねただけの極めて事務的な内容となっていましたが、文末に下僧最澄と書かれ、一応空海への敬意が示されていました。そこで空海は依頼された経典を最澄に貸し出すことにします。最澄の2回目の手紙に「今やりかけていることを成し遂げていないので、お目にかかるわけにはまいりません。いずれきっと教えを授けて頂きましょう。」と書いてあることから、空海は最澄からの1回目の手紙の返書に、密教は面授(師伝)を基本とするから最澄自ら高尾山寺に来て教えを受けるよう説いたようです。最澄から空海への手紙は23通残っているようですが、16回目までは借用依頼の手紙であり、最澄が空海の元を訪れることはなかったようです。しかし、文末には下僧最澄から弟子最澄と書かれるようになっていました。
最澄はこの間天台宗の教義のことは置き去りにし、空海から借りた密教経典の書写と研究に励んだようです。そのため810年1月には天台宗の座主を愛弟子の泰範に譲り、自分は引退すると宣言します。最澄は天台宗の寺務を離れ、密教経典の書写や研究に専念しようとしたようです。しかし座主を譲ると言われた泰範はなぜか喜ばず、その年のある時期に比叡山を下り、近江国高島郡の自房に退去します。それまでも最澄は密経経典の書写と研究に没頭し、天台宗の寺務は泰範に任せていたようで、泰範がいなくなった最澄は狼狽します。そして何度も泰範に考え直して比叡山寺に戻るよう懇願する手紙を書いています。そして最澄は遺言を発表し、その中で泰範を総別当にするとも書いています。しかし泰範は戻りませんでした。その理由については他の僧と折り合いが悪かったからという説もありますが、私は、天台宗(法華経)を信じて比叡山寺に来た泰範は、天台宗を忘れ密教経典の書写と研究に励む最澄に失望したのではないかと思います。
(3)最澄、空海の元を訪れる
そんな中、乙訓寺の別当の任期が切れる2日前の812年10月27日、最澄が突然乙訓寺に空海を訪ねて来ます。その前には空海が最澄から天台宗の重要な教本である「魔訶止観」を借用し、お礼の手紙の中で自分が比叡山寺に出向きたいところだが多忙で行けない、どうかあなたが高尾山寺に来て欲しいと書いています。空海としては密教の師は自分であり、最澄は師に教えを請いに来るべきとの思いが強かったようです。そんな中での最澄の突然の訪問でした。最澄としては、空海から借用し書写した密経経典が相当数に達し、理解も進んだことから、そろそろ空海から密教の伝法灌頂を受けたいと考えてのことだったようです。空海に会った最澄は灌頂を受けさせて欲しいと頼みます。空海はこれまで筆授に拘り、面授を頑なに拒否してきた最澄が、面授が必要な灌頂を受けたいと申し出たことを自分の勝利のように喜びます。そして年内に灌頂を行おうと提案します。最澄は空海のこの提案を年内に伝法灌頂(師となる資格を与える儀式)まで終えると採ったようです。空海は、最澄は11月早々には高尾山寺に来ると思っていたようですが、最澄が来たのは11月14日でした。その為空海は、翌日に金剛界灌頂を行うと言います。それは灌頂の後約1カ月かけて金剛頂経の印の結び方や真言の文句などを伝授することから、次の胎蔵界のことまで考えると時間がなかったからです。翌月の12月14日には胎蔵界灌頂を行っています。そしてそれから面授により大日経の秘法の伝授に入ろうとしたとき、空海からこちらは金剛頂経の秘法の面授より遥かに時間がかかると言われます。最澄は空海が恵果から伝法灌頂のための面授を受けた期間が2カ月であることを知っていましたから、密教を十分に勉強している自分もそれくらいで伝法灌頂を受けられると考えていたようです。そこで最澄が空海に伝法灌頂を受けられるまでどれくらいの期間が必要かと尋ねると、空海は「サンスクリットの真言の深奥を理解するには3年の期間が必要」と答えます。これを聞いて最澄は愕然とします。愛弟子泰範が去った比叡山寺は最澄がいないと維持できません。そこで最澄は出直したいと申し出て、大日経に関する面授は受けずに比叡山に帰ってしまいます。前年の10月に乙訓寺で空海は最澄に年内に灌頂を終えようと言っていますから、11月、12月の2カ月で伝法灌頂まで終えようと考えていたように思われます。ところが最澄が高尾山寺に来るのが遅かったことに加え、面授において最澄がサンスクリットを理解できていないことおよび教えた印契などを速やかに再現できないことから、2カ月では無理で、もう少し時間が必要と考えたように思われます。それは3年間という意味ではなく、もう少し時間が必要と言う意味であり、最澄の本気度を見ようとしたものと思われます。
(4)最澄、天台宗の優位性を主張する
その後空海は最澄に残りの面授を受けるよう促す手紙を書きますが、最澄は密教経典を書写し終えてから教えを請いたいと言い、応じません。その代わり弟子を送るので、弟子に伝授して欲しいと要請します。空海はこの要請を弟子に学ばせ自分は面授を受けない意志と採りますが、最澄の弟子3人を受入れます。3人の中には最澄が灌頂を受ける際に誘って連れてきた泰範も含まれていました。泰範は最澄が比叡山に帰った際にも一緒に帰らず空海の元に留まっていました。他の2名は最澄が新たに送り込んだ円澄と光定でした。空海はこの3人に面授で大日経の秘法を伝授します。空海には最澄の意図は分かっていましたが、伝授を受けた3人は空海の密教に帰依し、最澄の元には帰らないという自信があったようです。結局1カ月間面授を受けた円澄と光定は最澄の元に帰りましたが、泰範は戻らず空海の元に留まります。この泰範に対し最澄は何度も比叡山寺に戻るよう手紙を書きますが、泰範は応じませんでした。そんなこともあって最澄は泰範に当時泰範が持っていた「止観弘決」という天台宗の重要な教本を返還するよう求めます。ついに最澄は泰範と決別する覚悟を固めたようでした。その後最澄は「依憑(えひょう)天台宗」という本を書き、密教の大日経の根本には天台宗の教えが見られると指摘し、密教と天台宗の教義は一致すると主張します。また空海が学んだ恵果の師匠である不空を天台宗の弟子としました。これには空海が気分を害しないはずがありません。
(5)空海、「理趣釈経」の借用を断る
そして最澄が「理趣釈経」という理趣経の解釈書の借用を頼んで来たとき、空海は初めて最澄の要請を断ります。その断りの手紙の中で空海は、最澄を「汝」(なんじ=おまえ)と表現し、面授を嫌い筆授を貫こうとする最澄を痛罵します。面授でなければ実効性のある修法は伝えられないと言います。これは空海が最澄にこれまで何度も説いてきたことです。ここで痛罵にまで至ったのは、理趣経が「十七清浄句」という十七の愛欲行為を肯定する教えを説いていることから、本を貸したら誤った解釈をされ、何を書かれるか分からないという心配があったものと思われます。この手紙の後最澄は泰範宛に手紙を送り、空海が送ってくれた漢詩に返礼の漢詩を送りたいのだが詩の中に知らない本の名前があるのでその内容を空海に聞いて教えて欲しいと依頼します。最澄は、借用依頼を断る空海からの手紙に空海の怒りを感じて、直接聞けなかったようです。その後最澄は、空海に返礼の漢詩を送っています。これに対して空海は、礼状を送っていますから断絶には至っていないようです。
(6)空海は神宮寺の密教化を狙う
その後空海と最澄の書状の交渉は殆どなくなったようです。そして空海と最澄は、己の信念を実現すべく行動します。空海は嵯峨天皇との関係の強化を図ります。2人の間には漢詩や書のやり取りが頻繁にあったようです。空海はそれ以外の多くの時間を高尾山寺で唐から持ち帰った密教経典類の整理に費やしたようです。自分も書写することもあったようですが、多くは知り合いに頼んだり若い僧に書写させたようです。そのため書写に必要な紙や筆、墨などが不足し、大宰府などの知人に協力を求める手紙を書いています。中には米や油の提供を求めるものもあります。空海は窮すると巧みに知人などの協力を引き出します。空海が帰国(806年)してから8年が経った814年当時でも書写が終わっていなかったようですから、如何に膨大な資料を持ち帰ったかが分かります。原本があれば書写は必要ないように思いますが、密教を普及させるためには有力な寺の僧や国司、地方豪族などに書写本を贈り、彼らから更に書写して知人に贈って貰うことが必要だったのです。こうして信者を増やさないと真言宗は成立しないし、南都六宗や天台宗のような国家公認の仏教になることも不可能でした。出来上がった書写本は山林修行で鍛えた弟子たちが全国に運んだようです。書写本には空海の勧請文が添えられていました。その中で空海は既存の仏教と密教の違いを説明しています。空海は既存の仏教を顕教(けんぎょう)と表現し、密教と区別しています。顕教は、永劫の修行により悟りを得た者(輪廻転生の中で悟りを得た者=報人)や釈迦のように現世で悟りを得た者(人の目に見える=応身)の教義であり、衆生を救済する様々な方法を説く。それに対して密教は、大日如来という永遠の真理を仏としたもの(理念としての仏=法身)であり、人の力を借りず自分の心の内で悟りを得る方法を説く、顕教で悟りを得られるのは来世かも知らないし、結局悟りを得られないかも知れないが、密教ではこの世において自分の身で悟りを得る(即身成仏)ことが出来る、だから顕教より密教が優れており、密教に帰依しなさい、と説きます。密教は、現世利益を強調するものであり、地方豪族などにおいては魅力的な教えと言えます。空海の狙いは地方豪族が氏神を祀った神社に建てられ始めていた神宮寺を密教化することだったようです。
(7)最澄は大乗戒壇の設置を狙う
一方最澄は、天台宗と南都六宗の違いを出すため、比叡山寺に大乗戒壇を設けたいと考え、支持を求めて地方の有力な寺を行脚します。当時戒壇(僧になるための授戒の儀式をおこなう壇)が設けられていたのは、奈良の東大寺、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺という大官寺のみでした。しかも小乗戒(具足戒)という戒律の数が250(尼僧は348)という大変厳しいものでした。最澄はこの戒律の数を減らし(58)内容を緩和した大乗戒を授ける戒壇を比叡山寺に設けることを国家に認めさせるべく、地方の寺の支持を求めて歩いていました。これは小乗戒を前提とする南都六宗と真っ向から対立するものでした。これは最澄存命中は認められませんでしたが、822年最澄入滅7日後に嵯峨天皇により認められます。この効果は、比叡山寺が持つ年分度者2名の授戒を東大寺ではなく比叡山寺で行うことができるだけでなく、これまで東大寺に授戒を受けに行った僧が南都六宗に移り、比叡山寺に戻らないというケースが続発していたのを防止できる効果がありました。また他宗も独自の戒壇の設置を目指すことになり、国家管理の戒壇から宗派管理の戒壇への流れ、戒律の緩和・有名無実化が進んで行きます。一方、大乗戒壇が認められた比叡山寺には、多彩な人物が集まることとなり、鎌倉時代になると比叡山寺(後の延暦寺)に学んだ僧の中から庶民に受け入れやすい新しい宗派(浄土宗、浄土真宗、日蓮宗など)が誕生することになります。
大乗戒壇を認めさせるため多忙を極めた最澄は、どうしても空海の元にいた弟子の泰範を呼び戻すべく、再度泰範に手紙を書きます。その中で最澄は、密教に惹かれている泰範を天台宗に引き戻すために、天台宗も真言宗も同じ一乗(悟りに導く教えは唯一つという考え方)の立場を採っているのだから優劣はない、共に天台宗を学び仏教を広めるために全国を行脚しよう、と呼びかけ戻るように懇願します。ここで泰範は返事の手紙に困ります。
空海の密教は、現世利益を強調するものであり、本来多くの人に受け入れられやすいものでしたが、具足戒に加え三昧耶戒という密教独自の戒律もあるという厳しい戒律となっていましたから、最澄の大乗戒の考え方とは相容れませんでした。
(8)空海、泰範の手紙を代筆する
そんな中空海は、最澄が泰範に書いた手紙を知ることになります。空海は、この手紙で最澄が天台宗と真言宗には優劣はないとい言っている点に激怒したようです。空海は、全国に向けた勧請文の中で真言宗こそ最高の教えと説いていましたから、最澄のこの考えに同意する訳には行かなったものと思われます。
ここで空海は、前代未聞のことをします。それは、泰範の最澄への返事を代筆したのです。これは、空海の最澄に対する怒りを伝えるためでした。この中で泰範に成りすました空海は、「泰範言(もう)す」と書き始め、先ずは最澄が戻るように言ってくれることに感謝します。そして自分は、豆と麦の区別もつかないほどの愚か者と言いながら、天台宗と真言宗の優劣については言わずにはおれないと言い、両者の違いを述べます。その中で、天台宗は釈迦が分かりやすい言葉(方便)で衆生に説明した教えであり、真言宗は大日如来の教え(実の教え)をそのまま伝えるものである、という違いは厳然とあると言い、私(泰範)は大日如来の実の教えの醍醐味に夢中なので、方便としての教えである天台宗を修める暇はないと言います。そして最澄には多くの支持を受ける天台宗があるのだから、それに専念し、真言宗には関わらない方が良いとと述べます。事実上の絶縁宣言です。最澄は一読してこの手紙は空海が代筆したと分かったようです。その後最澄は、泰範に手紙を書くことはありませんでした。一方で最澄は弟子が他宗派に流れることを防ぐための諸規則・諸制度作ります。これまで南都六宗は、大きく仏教一門と考え、自由に行き来し学び会っていましたが、この最澄の動きに影響を受けて、南都六宗も僧の流出を防ぐ制度を設けるようになり、後の閉鎖的な宗派制が出来る原因となったようです。しかし天台宗は、法華経に密教、戒律、禅を取り入れていた(四宗相承)ことから、割と幅広く学ぶことが出来、それが鎌倉に時代に比叡山で学んだ僧の中から新しい宗派が生まれる原因となりました。
(9)空海と最澄を比べて見れば
最澄は、6歳で出家し、14歳で得度した根っからの仏教僧であり、最初に学んだ法華経の考え方がベースにありました。そこからできるだけ多くの人々を救うための仏教のあり方を考え続けた人のように思われます。その結果、厳しい戒律は不要という大乗戒の考え方に至り、南都六宗や空海(具足戒に加え三昧耶戒もある)の反対に会いながらも、822年入滅7日後に比叡山寺に大乗戒壇の設置が認められます。これは仏教界の革命と言っても良い出来事であり、国家管理だった授戒が宗派管理に移行し、それまで皇族や貴族、豪族のものだった仏教が庶民に広がるきっかけとなります。そして鎌倉時代には、比叡山で学んだ僧の中から、天台宗の教えを庶民に受け入れられやすい内容や行法に焼き直した新宗派がいくつか誕生します。法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗などです。更に宋から臨済宗をもたらした栄西(比叡山)や曹洞宗をもたらした道元(園城寺)も学んだ寺は違いますが天台宗出身です。これらの宗教が現在まで続いていることを考えると、その母胎を作った最澄は現代仏教の生みの親とも言える存在であり、日本仏教界の泰斗と言えると思います。
一方空海は、虚空蔵求聞持法を体得した数少ない日本人と思われ、いわゆるスーパーマンです。経典など難なく暗記でき、漢詩や漢文の暗記などは訳なかったと思われます。また、それらが書かれた書体もそのまま記憶し再現できたため、能筆の評判をほしいままにしました。空海は18歳で大学に入学し、官吏に必要とされる儒学などの学問を学んでいることから、盲目的信心はなく、比較探求する姿勢が強かったように感じられます。そのため、今一つ完成度の乏しい釈迦由来の仏教に納得が行かず、更に完成度の高い仏教を追い求めたのです。その結果宇宙論に近い密教に辿り着きます。しかし、この密教が空海の可能性に蓋をしたように感じられます。密教は師伝を必須としたため、個人の解釈が入り込む余地がなく、真言宗から時代に合った新しい宗派が生まれる余地はありませんでした。そのため真言宗は庶民の間に広まらず、一部の人たちの仏教に留まりました。空海が唐で恵果から密教第8代師位を譲られ、密教を伝承する立場に立たなければ、空海は密教を基礎に新しい仏教、空海教というものを作り上げていたように思えます。空海は仏教僧としてよりも高いレベルで何でもできたスーパーマンとして歴史に残る人物だと思います。
10・高野山開創
(1)高野山を下賜される
こういう中で空海も真言教団の設立に向けて動き出します。先ずは弟子の養成のための根本道場の建立を決意します。場所を高野の山地(高野山は金剛峯寺の山号であり、高野山と言う山は存在しませんが、以下便宜的に高野山と表記します)と決め、朝廷に土地の下賜を上表(請願)します。高野山は、空海が若い時に修行していた葛城山や吉野山、大峰山などに近く、何度か上ったことがあったようです。標高800mの頂上付近が南北4km、東西6kmの平地になっており、ここに真言宗の伽藍を配置する構想を持ったようです。高野山のような山の中にした理由については、インドや中国では修行のための寺院が山上にあることが多いことが上げられていますが、比叡山に開創した最澄への対抗意識があったように思われます。密教を天台宗の一部と主張する最澄に勝たなければ真言宗は生き残れないと考え、比叡山VS高野山の構図を考えたように思います。その中で高野山にしたのは、山上の地形のほかに、古来高野山周辺は辰砂(水銀を含む鉱物)や鉛丹(酸化鉛)を含む赤い土の産地であり、寺の柱などに塗る朱の入手が容易であったこと、またこれを生業とする地方豪族が栄えていたため、これらの豪族から経済的支援を受けられるということがあったようです。
816年6月19日に上表文を提出したところ、8日後の6月28日に嵯峨天皇の使者が織物と錦の縁取りの五尺の屏風4帖を持参し、屏風に古今の詩人の秀句を書いて差し出すようにと伝えます。それから10日後の7月8日、高野山を空海に与える旨の太政官符が発令されます。屏風は8月15日に差し出したようです。空海と嵯峨天皇の関係はなかなかしゃれた関係です。その後空海は病床に伏した嵯峨天皇のために病気治癒のための修法を行っています。
(2)空海、高野山開創に着する
翌817年から高野山開創に着手します。実際にそのために働いたのは、一番弟子の実慧(じちえ)や泰範、真然(しんねん、高野山第二世となる)らでした。空海は高尾山寺に留まり著作に励みながら、天皇や皇族、貴族ら上層階級を相手に種々の修法を行っていたようです。空海が高野山に移ったのは818年11月となっています。ここから伽藍の建立に入るのですが、先ずは建立資金集めから入ります。嵯峨天皇の寵愛を受けているのだから、天皇から出してもらえばよいではないかと思いますが、当時の朝廷は引き続く自然災害により財政が窮乏し、皇子や皇女を臣籍に降下させて凌ぐ有様でした。貴族も同様です。そのため空海は自ら勧請に出たり、知人や地方豪族に支援を求める手紙を書きます。手紙の中には釘の寄進を求めるものや工事関係者の米や油を送ってくれるよう求めるものをあるようです。目標を達成するためには、何でもするというのが空海の特徴です。
(3)空海、中務省に入る
空海が高野山に入って開創の陣頭指揮を執り始めた翌年の819年7月、空海に中務省に入るようにとの勅命が下ります。中務省は、詔勅の文案や上奏など天皇側近の事務を行う部署でした。空海の文書力を評価する嵯峨天皇が空海に事務方の指導を期待してのことと思われます。空海は詔勅の代筆のほか南都六宗の高僧の上奏文の代筆も行い、南都六宗と良好な関係を築いたようです。そんな空海は、820年10月20日、伝燈大法師位(でんとうだいほっしい)という三位に相当する僧位を授かります。空海47歳のときで、最澄は44歳のときにこれより一段低い伝燈法師位(四位に相当)を授けられていましたので、空海は僧位では最澄を上回ったことになりました。最澄はその2年後、入滅の4カ月前に伝燈大法師位を授けられています。
(4)空海、満濃池を修築する
821年5月27日、空海は故郷讃岐国の農業用の溜池満濃池(周囲21km、貯水量1,540万t、灌漑面積3,239ha)修築の別当に任命されます。これは満濃池の度重なる決壊に悩まされていた周辺の住民が讃岐国出身の空海の名声を聞きつけて、地元の国司を通じて朝廷に請願して実現したようです。空海は1人の沙弥(20歳未満の若い僧)と4人の童子を従者にして讃岐に赴任します。工事期間は6月初めから8月末までの三カ月間でした。この工事では、アーチ式の溜池壁(溜池の水を貯める壁が溜池側にカーブしている)や余水吐き(溜池の容量を超える水を溜池壁側面などから排出する)など現代でも用いられている技術が使われています。これについては、空海は僧の学芸である五明のうち工芸明という工学知識を身に付けており、唐でこの方式を見たことがあったから知っていたと説明されています。しかし、空海は仏教典の暗記や解読に忙しく、土木工学を学ぶ時間があったとは思えません。また土木工学の場合、工事経験が重要ですが、空海にはありません。従って、満濃池工事に当たっては、土木工学に秀でた協力者がいたと考えれます。それは同じ佐伯氏で繋がる佐伯今毛人の元部下たちではないかと思われます。佐伯今毛人は正三位の官位まで行った官吏で、東大寺や西寺の造営、東大寺大仏の造立、長岡京の造営責任者を務めた土木建築の権威でした。空海が中務省に入ったことから同じ官吏組織にいる今毛人(いまえみし)の元部下と繋がりが出来て、彼らが改修工事を指導監理したのではないかと思われます。都を造営するくらいの技術を持っていますから、満濃池で用いた優れたアイデアが出て来てもおかしくありません。これらのアイデアを空海のものとするのは、やり過ぎのように思われます。
(5)空海、東大寺に灌頂道場を設ける
空海が満濃池の修築工事を終えた翌年822年2月、空海に新たな使命が下されます。それは、東大寺に灌頂道場を建立し、鎮護国家、息災および増益の修法を行うようにとの命令でした。前年の秋に長雨が続き不作だったこと、またその年の冬に雷が多く、今年は流行り病や洪水が予想されることから、密教の修法の力でこれらを防ぎ、良いことがあるようにしようという狙いでした。空海にとっては願ってもないことでした。東大寺は南都を代表する官立の大寺院であり、全国の国分寺の総本山でした。そこに灌頂道場を設置することは、密教が国家から認められることを意味しました。これにより密教は全国に知られるようになり、空海が目指していた全国の神宮寺を密教化するという目的に役立つことは間違いありませんでした。修法とは、本尊(大日如来)を安置し、護摩を焚き、口で真言を唱え、手で印を結び、心に本尊を念じて行う密教の加持祈祷のことです。そんな中その年の6月、最澄が入滅します。これで空海は仏教界で並び立つ者がない存在となります。しかし、最澄入滅の日から7日後に最澄が朝廷に要望していた比叡山に大乗戒壇を設けることが認められますから、将来仏教界の評価で最澄が空海を逆転する布石が打たれたことになります。
(6)空海に東寺が与えられる
そして翌年823年1月には、官寺である東寺を空海に与えるという勅命が下ります。
東寺は朱雀大路の南端にある羅城門の東側に置かれた官寺でした。桓武天皇が平安京に遷都したのは南都六宗の政治への関与を弱めるためでしたから、平安京に置かれた寺はこの東寺と反対側にある西寺のみでした。このうち西寺には、官寺やそこの僧侶を管理する僧綱所(そうごうしょ)が置かれました。また西寺は外国の賓客を宿泊させてもてなす鴻臚館の役割も果たしていました。しかし東寺は薬師如来像を本尊とする金堂があるのみで、整備が遅れていました。嵯峨天皇は、空海の力でこの東寺の整備を一挙に進めようと考えたようです。この当時空海は、高野山に開創しようとしていましたから、このままでは密教は高野山に移り、京(高尾山寺)から密教が無くなってしまうと考えたのかも知れません。官寺ですから財政が厳しいとは言え、国からの支援があります。従って、高野山より遥かに早く整備が進められます。それに道場としての地の利は最高です。空海は東大寺にも真言院という密教の修法所を設置しましたが、東大寺は華厳経を教義としており、空海も密教に次ぐ教えと評価していましたし、全国の官寺を統括する所という性格から、密教寺院化することは難しかったようです。嵯峨天皇はこういうことを踏まえて東寺を空海に与えたようです。嵯峨天皇はその3カ月後に譲位(淳和天皇)していますから、嵯峨天皇から空海への最後のプレゼントだったようです。嵯峨天皇が空海を心から尊敬していたことが伺えます。
空海は東寺で真言密教の理想の形を実現しようとします。その試みの1つが金堂に設けた立体曼荼羅です。これは曼荼羅の世界を五仏・五菩薩・五大明王・六天の二十一尊の仏像で表現しようとしたものです。また東寺では他の宗派の僧が入り込むことを禁止し、学ぶべき経典を決め他の宗派の経典は学べなくします。南都六宗の出入り自由、学び自由の慣行に挑戦するものでした。最澄も弟子の泰範が空海の元に走ったとき、他宗との交流を禁止する規則を作りましたが、天台宗は法華経・密教・戒律・禅の教えを取り込んでいたため学べる範囲は広かったようです。これらのことは空海が朝廷に請願し認められて実施したものですから、空海と淳和天皇の関係を良好だったようです(嵯峨上皇がいたせいかも知れません)。
これらの朝廷の愛顧に答え空海は、皇后院で息災の、東寺で転禍脩福と国家鎮護の、清涼殿で懺悔滅罪の修法を行うなど朝廷専属の修法担当のような働きぶりです。それに伴い空海は824年2月には少僧都(しょうしょうず。僧網所の上から3番目の役職)に任命され、僧尼や諸大寺の管理の役割も担います。そして824年6月には東寺長者に任命され、名実ともに東寺は空海が自由に運営できる寺となります。この翌年の825年には空海が長く住んだ高尾山寺が準官寺となり、寺名を神護寺に変更していますから、これは空海の意向によるものと思われます。826年11月には東寺の五重塔の造営に取り掛かります。完成が883年ですから、57年に及ぶ大プロジェクトです。827年には大僧都に昇格しています。828年には綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)という日本初の私学校を東寺の東側に設立します。当時の学校は貴族など位の高い者向けであり、庶民が行ける学校が必要と考えたようです。綜芸種智院は、誰もが儒教・道教・仏教を学べ、授業料無料、全教師と全生徒に食料が給付されると言う理想の学校でした。
(7)空海、高野山で入滅する
829年、空海は奈良の大安寺の別当に任命されます。また和気氏からは神護寺を託されます。この頃が空海の絶頂期だったと思われます。そして830年には、南都六宗に対して密教の教義の要旨を書いて渡す(朝廷経由)ようにとの勅命が下ります。そこで書かれたのが「秘密曼荼羅十住心論」10巻とその要約「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)3巻です。これらは難解で、ここから入ると挫折すると思います。831年には高野山金剛峰寺の金堂が完成します。またこの年比叡山延暦寺の円澄(最澄に代わり大日経の面授を受けた最澄の弟子)ら十数人の僧が、真言の教えを受けにやって来ます。空海はこころよく受入れます。これで真言宗と天台宗の対立は解消され、両宗が平安時代を代表する宗派となります。832年、高野山開山15年目のこの年、高野山で初めての「万燈万華会」が営まれます(今も続いています)。その後835年には、これまで南都六宗の高僧が行っていた恒例の御斎会(ごさいえ)と並行して真言密教による修法も行われることとなります。その後真言宗にも年度分者3名が認められます。これで東寺は東大寺に匹敵する大官寺となりました。
その後高野山に戻った空海は死期を悟り、断食生活に入ったようです。そして835年3月31日入滅します。享年62歳でした。