豊臣秀長と藤堂高虎
この2人に関心を持ったのは、堺屋太一氏が逝去され、当時の菅官房長官が毎日新聞のインタビューで「私は堺屋さんの「豊臣秀長」という小説を読み、補佐役に徹した秀長があこがれの武将となった」という趣旨の発言をしているのを読んだからです。私は今から4年くらい前加藤清正について調べた際に秀吉など他の戦国武将についても調べたのですが、秀長に関する資料や読み物は全くと言ってよい程ありませんでした。堺屋氏の「豊臣秀長」についても読むべき本として引っかかってきませんでした。そこで堺屋氏の「豊臣秀長」を読んでみました。この本の冒頭堺屋氏も、秀長については史料が殆ど存在せず、書かれた小説もないため、書くのに困ったと述べています。そこで堺屋氏は秀長を、秀吉を陰で支えた名補佐役だったと規定し、秀吉の出来事の中で秀長が参加した場面では、秀長は補佐役として行動したものとして描いています。即ち、秀長の具体的行動から、秀長は秀吉の補佐役だったと結論付けるのではなく、最初に補佐役と規定して、そこから秀長の行動を想定しているのです。この方法は人物の描き方として問題があるのは誰だって分かります。しかし、調べて行くと方法は間違っていますが、結論は間違っていないようです。
そこで、よく分からない秀長の行動からではなく、秀長と行動を共にした人物の行動から、秀長の人物像を描けないかと考えました。堺屋氏の「豊臣秀長」に秀長の直属の家臣である藤堂高虎がよく登場することから、高虎の行動を追えば秀長像が見えてくるのではないかと考えました。高虎は75歳まで生き、藤堂家は1871年の廃藩置県まで藩主(藩知事)を務めており、高虎の記録は比較的残されています。そこで高虎の記録や書籍を中心に秀長との関わりを調べました。また秀吉などの戦国時代の武将の記録からも秀長や高虎に関する記録を収集しました。そして再構成したのがこの読み物です。これは一次史料に当たったものではないので学術書ではありませんが、秀長や高虎についての読み物がない中では、2人の出来事をほぼ網羅し、秀長の人物像を浮き彫りにしていると思っています。
この調査で分かった秀長像は、
1. 秀長は豊臣政権の鎹(かすがい)であった。
2. 秀長は秀吉の補佐役であると共に武将としても名将であった。
3. 秀吉の軍資金作りも担当しており、豊臣政権の金庫番でもあった。
というものです。堺屋氏の秀長像とはかなり違った秀長像が浮かび上がってきます。
次に藤堂高虎ですが、主君を7人も変えているところから歴史家の評判は芳しくありません。しかし足軽から始めて一代で大身大名となり、江戸時代には外様大名ながら譜代と同格まで上り詰めた人生は、現代のサラリーマンにとって織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の人生より参考になると思われます。高虎の成功のベースは、槍や鉄砲、水軍指揮、築城、城下町作り、検地や木材の管理技術など主君が必要とする技術を持っていたことにあります。これは同じく外様ながら金山・銀山の管理技術を家康に認められ、奉行にまで上り詰めた大久保長安と共通しています。長安は死後不正蓄財があったとして家族が処刑されていますが、高虎は妬(ねた)みから足を引っ張られないよう常に先手を打っています。見事なリスクマネジメントで、地雷原を歩き通した人生だったと言えると思います。
これを読めば高虎について現在貼られている「主君を7人も変えた変節の人」「風見鶏」「世渡り上手」「ゴマすり」などのレッテルが不当であることが分かると思います。
尚、菅官房長は堺屋氏の「豊臣秀長」を読んで、あこがれの武将は秀長になったと言っていましたが、これは誤った理解に基づくものです。菅官房長官は、堺屋氏の「豊臣秀長」の中で多用される「補佐役」という言葉に心を奪われたものと思われます。当時菅官房長官は安倍首相に仕えており、補佐役に徹しなければならない立場にありました。しかし安倍首相はあの通り総論の人であり、具体的なことは考えられない人でした。一方菅官房長官は各論の人であり、生活の中で実感できるような具体的な政策でないと意味がないと考えていたように思われます。即ち2人は水と油の関係であり、お互いに違和感が強かったと思われます。こんな中で菅官房長官は、この「補佐役」という言葉を毎日念じて官房長官の職務を果たしていたと考えられます。この読み物を読めば、菅首相自身は豊臣秀長ではなく、藤堂高虎に近いことが分かります。例えば菅首相も派閥(担ぐ人)を数回変えていますし、お互い実務派です。違いは、高虎は天下を取れなかったけれど、菅首相は取ったということでしょうか。 以上
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以上
1. 高虎が秀長に仕えるまで
(1)生い立ち
高虎は1556年に近江国犬上郡藤堂村の土豪藤堂虎高の次男として生まれ、幼名を与吉と言いました。苗字が村名になっているように元々藤堂家は地元の小領主でしたが、戦国時代に入り没落し、高虎が生まれた当時は、百姓をしながら戦いのときは地元を支配していた北近江の浅井家に足軽として雇われていたようです。父の虎高は養子で、養子に来る前は甲斐の武田や越後の上杉などにも使えたことがあるいわゆる渡り奉公人だったようです。高虎もその後7人も領主を変えていますので、父親の血を引いているものと思われます。兄弟には兄と妹がいましたが、兄は早くに戦死しています。
(2)最初に仕えたのは浅井長政
高虎は1570年、15歳のとき、浅井長政の足軽として姉川の戦いで初陣を飾ります。体が大きくこのときは織田方の武将の首級を取る武功を挙げ、長政から脇差を与えられます。高虎はその後2度の戦いでも兜首を取り、少し名が知られる存在になったようです。その結果嫉妬する同僚も出てきて、ある日年上の同僚に絡まれ、口論から切り合いになりその同僚を殺(あや)めてしまいます。その結果高虎は、浅井家に居られなくなってしまいます。
(3)2番目に仕えたのは阿閉貞征
高虎が次に頼ったのは、長政の小谷城から約2里離れた山本山城(現長浜市)の阿閉貞征(あつじさだゆき)でした。貞征はその頃(1573年)には浅井から織田に寝返っており、浅井方に通報される恐れはありませんでした。貞征も高虎の評判を聞いており、すんなりと足軽として雇い入れました。その頃織田と浅井は睨み合いを続け、戦いはなかなか巡って来ませんでした。そんな中、高虎が小谷城で切ったのが貞征の縁者であることが分かり、縁者が貞征に引き渡しを求めて来ました。そこで困った貞征は、高虎に知り合いの小川城主(長浜の対岸の現高島市)磯野員昌(かずまさ)宛の紹介状を書きます。
(4)3番目に仕えたのは磯野員昌
員昌は、浅井家に居たときの高虎の武功を知っていたことから、喜んで雇い入れます。員昌は、古くから浅井家に仕え佐和山城主を務める浅井方の有力武将でしたが、織田方に攻められ降伏し、佐和山城から小川城に領土替えされました。小川城がある高島は、北陸に出る北近江の要所であり、ここに元浅井方を置くのは異例のことでした。
それは員昌が勇猛な武将として信長に評価されていたからであり、員昌は織田勢として浅井との戦いの前線に立っていました。ここでは小規模の戦い闘が多数あり高虎は小さいながら武功を挙げ、足軽頭になっています。そして1573年織田勢は小谷城を攻撃し、高虎も加わります。員昌は高虎の働きを高く評価し、数々の褒章を出したようですので、高虎にとっては居心地の良い場所だったようです。
そんな中、ある日突然磯野家に難題が降りかかります。信長が員昌に甥の信澄を嗣養子にするよう命じたのです。信澄は信長に反抗して殺された信長の弟信行の長男で、信行死後柴田勝家に育てられ、信長と浅井長政が同盟を結んだ際に人質として小谷城に行き、長政亡き後員昌に預けられていました。員昌には長男と次男がいたのですが、信長は北近江の要所である小川城には信頼出来る織田方を入れたかったようです。小川城の対岸の長浜には秀吉を入れていますので、考えは理解できます。員昌としては従う以外選択肢はありません。そして1577年、員昌は隠居し家督を信澄に譲ります。このため高虎は4人目の領主に仕えることとなります。尚、この後員昌は出奔し行き不明になりますが、員昌の長男行信はその後信澄の下を離れ明智光秀に仕え、本能寺の変で明智家が滅んだ後高虎が召し抱えます。員昌の娘は浅井家家臣小堀正次の妻となり、作庭や茶道などで有名な小堀政一(遠州)を生みます。小堀正次および遠州は浅井家滅亡後高虎と同じく豊臣秀次に仕え、高虎は養女を遠州に嫁がせています。高虎は近江出身者との縁が濃厚となっています。
(5)4番目に仕えたのは織田信澄
高虎にとって4番目に仕えることとなった信澄は、高虎が選んだ領主ではなく、突然降ってきたようなものでした。信澄は高虎を気に入り、空きができた母衣(ほろ)衆に加え80石の扶持を与えます。母衣衆は領主の警備担当であり、戦いがなくても仕事はあります。というより戦いがない方が望ましい職場と言えます。1573年8月の朝倉家滅亡、1575年5月長篠の戦いでの甲斐武田勝頼撃破、同年9月の浅井家滅亡により、当時築かれていた信長包囲網が破け、高虎が信澄に仕えていた時代には戦いに駆り出されることが殆どありませんでした。こんな中高虎と母衣衆の1人が諍いとなり、相手が槍を手にしたためその槍を高虎が払ったところ相手が前のめりに倒れ、怪我をします。その相手は信澄のお気に入りで、信澄に高虎に非があったと訴え出ます。その結果信澄は高虎にだけ30石の減俸と謹慎処分を申し付けます。これが当時母衣衆では成り上がれないと考えていた高虎を領主替えに向かわせます。1576年、高虎は信澄の下を出奔します。高虎21歳のときです。信澄はその後信長の命令で明智光秀の娘を妻にしますが、本能寺の変の後共謀者と疑われ、大坂で織田信孝および丹羽長秀により殺害されます。もし高虎が信澄の下にいたら、高虎の命もなかったかも知れません。
- 高虎が秀長に仕えていた時代
(1)秀長との出会い
信澄の下を出奔した高虎は、磯野員昌のことを思い出し、員昌から紹介されたことがある能登川村の村長を訪ねます。するとなんと村長の家に員昌が滞在していたのです。員昌は高虎の事情を聴き、村長に誰か紹介できる武将はいないか尋ねます。すると村長から出た名前が羽柴小一郎秀長、後の豊臣秀長だったのです。浅井家滅亡後、浅井家支配地域の大部分12万石は、小谷城攻略に貢献が高かった羽柴秀吉に与えられます。秀吉は小谷城を琵琶湖近くに移し長浜城を築くのですが、いきなり12万石の領主(うち秀長1万2,000石)になったことから、家臣不足に悩み、旧浅井家家臣などを積極的に雇い入れていました。その採用活動の中心は秀長であり、村々を回っては有力者に人材の紹介を依頼していたようです。村長の提案を聞いた員昌も秀吉および秀長は良く知っており、秀吉および秀長も浅井方重臣でありその後織田方で小川城主を務めた員昌は良く知っていましたから、員昌の紹介状があれば採用されないはずがありませんでした。案の定高虎は秀長と面会し、足軽として採用されます。それも信澄から与えられた80石の4倍近い300石の俸禄でした。ここで秀吉家臣ではなく、秀長家臣(秀吉からすると陪臣)とされたことは、後の高虎の人生を考えるとよかったように思えます。というのは、高虎は秀吉の家臣となっても活躍したと思いますが、この頃になると秀吉は有力武将を家臣としており、足軽から出発して秀吉の有力大名に上り詰めた武将はいないからです。秀吉と秀長の出生地は尾張ですが、尾張は信長の本拠であり、秀吉も秀長も秀吉の最初の領地である近江から多数の家臣を集めており、旧浅井家家臣が主力だったようです。
(2)秀長について
秀長は言わずと知れた豊臣秀吉の3つ違いの弟です。1540年、尾張国愛知郡中村(現名古屋市中村区)の生まれとされています。秀吉とは異父兄弟と言われていますが、同父という説もあります。父は一時織田家の足軽を務めたことがあるようですが、百姓と言ってよいと思います。その父も秀長(当時小竹)が小さい頃亡くなり、兄の秀吉が10代で家出したため、秀長は20代に入るまで母と共に百姓仕事をしていたようです。そんな秀長が武士になったのは、兄秀吉が信長に足軽として仕え足軽頭になったため、信頼出来る部下が必要となり、秀長を誘ったためのようです。当時の武将は偉くなるたびに親族、縁者を引き入れて家臣を増やしていますので、秀長の場合もこの例だと思われます。
秀長は20歳に入るまで百姓をしており、戦いには全く参加していなかったため、秀吉の家臣になって後の仕事は、配下の足軽の世話や出陣の準備など裏方の仕事だったようです。しかし1563年頃秀吉が東美濃侵攻の先頭に立つようになってからは、戦いや陣地の守備に参加するようになったようです。この頃秀吉配下には軍師として有名な竹中半兵衛が加わっていますので、秀長は秀吉との軍議に半兵衛と共に加わり軍略を学ぶと共に、実践を通じて戦いのノウハウを身に着けて行ったと思われます。秀吉は1567年の美濃稲葉山城攻略で活躍していますので、記録はありませんがこのとき秀長も参戦していると思われます。
その後秀長の名前が戦いの記録に現れるようになるのは、元亀元年(1570年)4月の朝倉攻めのときからです。このとき織田・徳川連合軍は、越前朝倉を攻めるため若狭に侵攻し金ヶ崎城を落とします。このときももちろん秀吉が参加し、秀長も加わっています。ここでまさかの事態が起こります。同盟関係にあった北近江の浅井長政が裏切ったのです。こうなると信長軍は東から朝倉軍に、南からは浅井軍に攻められ、西は山、北は海と袋のネズミとなります。そこで織田軍は琵琶湖西側の山中を退却することとし、先ず信長自身が馬で一目散に京に駆け抜けました。残された織田・徳川連合軍は、秀吉軍が殿となり退却します。殿は朝倉軍の追撃を撥ね退け、味方の退却の時間を稼がなければなりませんから、玉砕覚悟となります。その殿軍の殿の指揮を秀長が勤めて、無事任務を遂行しています。
この3年後の天正元年(1573年)8月8日、信長は3万の軍を率いて浅井長政の本拠小谷城に攻め寄せます。これを知った浅井と同盟関係にある朝倉義景も2万の軍を率いて浅井支援に入ります。ここで暴風雨があり、これを好機と採らえた織田軍が攻勢をかけたところ、朝倉軍は砦を次々に失い、撤退を開始します。それを織田軍が追撃し、越前領に達します。朝倉義景は8月15日に本拠地の一乗谷城に戻りますが、供の兵は少なくなっており、18日に家臣の裏切りにより殺害され、朝倉家は滅亡します。織田軍は直ぐに小谷城に取って返し、小谷城攻略を開始します。ここで活躍したのが秀吉軍であり、秀長も参加していました。秀吉軍は城の裏側から攻めて、本丸と京極丸を分断する役割を与えられますが、秀長が一番手を担って成功させています。また秀長は、落城寸前に蜂須賀小六と長政の元に行き、お市の方と3人の娘を織田方に引き渡すよう説得しています。このように秀長は、戦場での実績も十分持つ武将になっていました。ここに加わったのが高虎だったのです。
(3)安土城築城
1576年信長は、天下統一を目指し京に近い近江の安土に安土城を築き始めます。総奉行に佐和山城主の丹羽長秀を指名し、傘下の大名、近辺の農民など幅広く駆り出されます。当然近くの長浜が領土である秀吉は積極的な協力が求められ、秀吉は秀長を担当に指名します。秀長は長浜に来てから近江の村々を歩き回っており、人夫の動員や職人の手当も心得ています。秀長は高虎も参加させ、これらのノウハウを高虎に伝えたようです。ここでの穴太衆(石工)や甲賀衆(大工)などとの人脈が後に高虎が築城の名人と言われるようになるのに役立っています。高虎も若かったこともあり、石工や大工などと一緒になって働き、彼らの技術を自分のものとして行ったようです。そのため彼らと高虎との関係は、主従関係ではなく、同志関係と言えるものとなっているようです。
(4)但馬攻め・丹波支援・三木城攻め
1577年秀長は、秀吉の毛利攻めに参加します。播磨を征服後秀吉は秀長に但馬の竹田城と岩洲城(ともに現朝来市)攻略を命じます。竹田城は因幡から山陰道へ出る要所にあり、毛利方と通じた太田垣輝延が守っていました。岩洲城はその支城のような存在だったようです。秀吉はここを抑え、播磨の北を安全にすると共に、因幡・伯耆方面への侵攻を考えていたようです。天正5年(1577年)11月、岩洲城は難なく落ちたようですが、竹田城は2日の包囲の後、高虎率いる部隊が朝方奇襲をかけたところ、秀吉軍が押し掛けたと思った城内から太田垣勢が打って出たため、待ち構えていた秀長本体が攻勢をかけ、打ち負かしました。この結果、秀吉は秀長に竹田城を中心とした但馬南部4万石を与えます。また高虎には1,000石加増され都合1,300石となり、足軽頭から足軽大将へと出世しました。
翌1578年には三木城主別所長治が毛利方に寝返ったため、秀吉は三木城攻めを行います。もちろんこれにも秀長と高虎は参加しています。この戦いで秀吉軍は、三木の干殺し(ひごろし)と言われる約2年間に渡る兵糧攻めを用いたため、大規模な合戦はありませんでした。
この間の天正6年(1579年)5月、秀長には丹波攻め中の明智光秀支援が命じられます。これは秀吉の毛利攻めに並行する形で天正5年(1577年)10月、光秀も未だ平定できずにいた丹波平定を開始しますが、矢上城と黒井城の攻略に手間取っていました。1578年の秀長軍による但馬南部の平定は、矢上城および黒井城のある丹波の地域と隣接していることから、この両地の連携を断つ目的もあったと思われます。秀長軍の丹波支援は、秀長軍の但馬南部平定を知った信長が命じたものと思われます。秀長軍の支援もあって天正7年(1579年)8月、光秀軍は最後に黒井城を落とし長い間平定できずにいた丹波を平定するのですが、この戦いの中で高虎は光秀から矢上城と黒井城の中間にあり、たくさん築かれた支城の中継点になっていた大山城攻略を命じられ、完遂します。この時点で高虎の働きぶりは光秀にまで聞こえていたようです。これが大きな効果を発揮し、矢上城と黒井城は落城します。その後秀長軍は直ぐに三木城に引き返したようです。
三木城の兵糧が尽きたと思われた天正8年(1580年)1月、秀長軍が三木城の背後にある鷹の尾城を攻めた際、高虎は家老で鷹の尾で侍大将を務める鹿古六郎右衛門と遭遇します。鹿古は大太刀を使えば中国一の強者という評判であり、愛馬も駿馬として有名でした。鹿古は愛馬に跨り薙刀を振り回し、秀長軍は手を付けられない状態でしたが、高虎が槍を手にし、一騎打ちを呼びかけると応じました。一騎打ちは互角の展開でしたが、時間が経つと年が若い高虎が優勢になりました。最後は素手の戦いで高虎が勝ち、鹿古の首を取ります。これを聞いた秀吉は、鹿古の愛馬を高虎に与えます。この愛馬は鹿古黒と名付けられ、その後高虎の愛馬となったとのことです。この後まもなく三木城は陥落します。この三木城攻めへの貢献で高虎には秀吉から2,000石が加増され都合3,300石となり、侍大将へと出世しました。これ以降高虎は秀長軍で1つの部隊を率いたと思われます。
三木城落城後秀吉軍は再び但馬に入り、秀長の竹田城を拠点として但馬守護山名祐豊の領土である但馬北部の平定に乗り出します。山名氏の主力拠点である有子山城および本拠である出石城を難なく落とし、但馬全土を平定します。そして但馬12万石が秀長に与えられ、秀長は初めて国持大名となり、出石城を拠点とします(竹田城には秀長重臣の桑山重晴-後の和歌山城代-が入る)。尚、但馬には生野銀山があり、秀長は銀の採掘にも力を入れ、豊臣方の財政に貢献したようです。
高虎は但馬の養父郡大屋郷に住み、近江から両親を呼び寄せます。また地元の国人の勧めで妻を娶ります。相手は室町時代の四式(侍所長官)家の1つである一色家の支流一色義直の娘でした。一色義直の親戚には後に家康の政治顧問となる金地院崇伝や室町幕府第15代将軍足利義昭の側近だった一色藤長もおり、この人脈は高虎が徳川幕府で政治力を発揮する上で助けとなっています。
(5)鳥取城攻め
但馬を平定した秀吉軍は、そのまま因幡に侵攻します。このときは鳥取西方の鹿野城を落とし、鳥取城を攻めて城主の因幡守護山名豊国を降伏させ、信長に臣従させます(城主はそのまま)。秀吉軍が引き上げた後直ぐに毛利軍が押し寄せ、再度毛利方に付きます。そして城主は豊国から毛利方と付き合いが長い家臣に代わりますが、天正9年(1581年)3月には、毛利で山陰を束ねる吉川元春の一族で石見福光城主だった吉川経家を城主に迎え入れます。このため秀吉は、翌天正9年(1581年)6月から再度鳥取城攻めを行います。毛利から城主を迎えた鳥取城の抵抗は激しいことが予想されたため、秀吉は三木城に続き兵糧攻めを選択します。そのため秀吉は先ず若狭の商人に因幡の米や麦を買い占めさせました。その結果、因幡の米や麦の価格が高騰し、因幡国内から米や麦が少なくなってしまいます。鳥取城内からも売る者がいたということです。同時に農民や城下の住民を城内に追い込み、城内の食料が早く尽きるようにします。また城の周囲12kmに渡り空堀を掘り、塀や柵を設け、城外と連絡できないようにします。夜間には騒音を立て眠れないようにし、昼間には城外で市などの催し物を行い、城内の厭戦い気分を高めます。それでも鳥取城には湊川を使って毛利水軍が兵糧を運び込んでいましたが、これも丹後の細川家家臣松井康之率いる丹後水軍が毛利水軍を破ったことで、できなくなりました。これにより鳥取城内は食料が尽き、阿鼻叫喚の地獄と化します。これを見た吉川経家は、重臣と共に自害することを条件に他の籠城者の助命を求め、開城します。鳥取城攻めでは、秀長は但馬の居城出石城から高虎や宮部継潤らと出兵し、南から攻め寄せた秀吉軍と合流しています。因幡の米や麦の価格を吊り上げ買い占めることは、農民出身の秀長の献策だったと言われています。尚、鳥取城代には秀吉与力(信長の家臣扱い)として秀長の組下にいた宮部継潤が就任し、鳥取城は織田方の山陰攻めの拠点となります。このように秀長軍には、秀吉家臣あるいは与力が組み込まれており、高虎が主力という訳ではなかったようです。尚、この間秀長軍不在の但馬では国人一揆が発生し、高虎が派遣され鎮圧しています。
(6)備中高松城攻め
鳥取城攻めを終えた秀吉軍は、伯耆侵攻を企てますが、吉川元春が準備万端で待ち構えます。そんな中、備前・備中で毛利軍と戦いっていた宇喜多軍の劣勢が伝えられたため、秀吉軍は備前・備中に向かいます(当然吉川軍も後を追います)。
宇喜多軍の大将宇喜多直家はこの年天正9年(1581年)2月に死去しており、宇喜多軍ではこのことを隠して戦っていました。そんな中8月、毛利軍との八浜合戦いに敗れ、毛利軍は総崩れになりました。
秀吉軍が宇喜多軍と合流し毛利攻めを開始したのは、翌年の天正10年(1582年)3月からです。ここから秀吉軍は備前・備中の毛利軍の支城を次々に落とし快進撃を始めます。毛利が支配していた水軍でも調略によって伊予の来島氏を織田方に引き込み、瀬戸内海を支配していた村上水軍を毛利方と織田方に引き裂きます。こんな中、毛利方の猛将清水宗治が守る備中高松城攻めとなります。高松城は低地にあり、3方が深い沼、一方が水堀となっており、攻めるのが難しい立地にありました。そのため秀吉は、2辺を山囲まれた底辺に当たる南西に堤防を築き、近くを流れる足寄川を引き込み、高松城を水攻めにする(水没させる)作戦を採ります。それを聞きつけた毛利軍5万が西側に集結したため、堤防作りに時間をかけられなくなったせいか、高松城は水没せず、却って難攻不落化します。ここで兵員に勝る毛利軍から攻められたら敗北する危険があったため、秀吉は盛んに信長に援軍を要請していたようです。このため信長は、家康を安土に招待した信長主宰の宴会の2日目(3日間の予定)の夜(5月16日)に、家康招待の責任者を務めていた光秀に秀吉支援に向かうよう命じています。ここから6月2日の本能寺の変へと繋がります。従って、秀吉が高松城の水攻めをしていなければ、光秀は予想外に早い秀吉支援を命じられることは無く、本能寺の変は起きなかったと考えられます。(本能寺の変の原因については「明智光秀・徳川家康・春日局を結ぶ点と線」をご覧ください。)
予想外の事態となった秀吉は、毛利方にもう直ぐ信長が大軍を率いて来襲すると言いふらし、和睦の交渉を行っていたようです。そんな中6月3日夜、秀吉は2日に本能寺の変が起き信長が死んだという情報に接します。秀吉は混乱し取り乱したようですが、黒田官兵衛(黒田孝高)が「天下を取るチャンスだ」と進言し、明智光秀打ちに引き返す決断をします。そのため毛利との和睦条件を大幅に緩くして(備中・備後・美作・伯耆・出雲の5カ国の割譲から備中・美作・伯耆の3カ国の割譲へ)和睦し、清水宗治の切腹を見届けて中国大返しを決行します。高松城攻めにおいては、秀長は鼓(つづみ)山に布陣します。高虎は支城の冠山城攻撃を命じられ、毛利方の武将を槍で仕留めます。その後水攻めとなったため、活躍の場面はなかったようです。しかし、堤防を早く築くため金銭や米を支給して農民に土嚢を持参させる作戦は、農民の経済観念をよく知っている秀長のアイデアのように思われます(鳥取城攻めでの米の高価買占め策と似ています)。
(7)山崎の戦い
秀吉は6月6日(4日の夜という説もある)に備中高松城を発ち、6月12日には摂津富田(現高槻市)に布陣しています。この距離は約230kmあり、武装した兵士が7~9日間で移動したのは驚異的と言われています。秀吉軍には有岡城主池田恒興や高槻城主高山右近、茨木城主中川清秀らが加わり、さらに兵が離散した信長3男信孝および丹羽長秀が参加しました。ここで軍議を開き、明日3軍に分かれて決戦いの地山崎に入ることとなりました。秀長は黒田官兵衛と共に右軍に入ります。13日の山崎の戦いは兵力に勝る秀吉隊(秀吉隊3万7,000、光秀隊1万)が優勢な戦いを進めますが、高虎隊は光秀の重臣伊勢貞興隊と対峙し、高虎は貞興の首を取ったとなっています。この戦いは秀吉軍の完勝に終わり、以後秀吉は織田家の戦後処理を有利に進めます。
(8)清須会議からの動き
山崎の戦いから2週間後の天正10年(1582年)6月27日、尾張の清州城で信長および信忠亡き後の織田家当主と領土の配分を決める会議(清須会議)が開かれます。出席者は織田家重臣の柴田勝家、豊臣秀吉、丹羽長秀、池田恒興の4名でした。信長次男信雄と三男信孝は共に次期織田家当主を主張していたことから、外されたようです。また、本能寺の変まで秀吉と並ぶ地位にあった滝川一益も出席していません。これは当時一益は関東の上野(こうずけ)の支配を委ねられており、信長死去を聞いた北条勢に攻め立てられ、上野を放棄し伊勢に逃げ帰る途中だったためと言われています。このメンバーを見ると、長秀は長らく秀吉が後見人として立てて来ており、恒興は摂津有岡城主で山崎の戦いで秀吉軍に加わっていましたから、明らかに秀吉側でした。従って、清須会議はメンバーの選定から秀吉の勝利だったことになります。織田家当主の決定については、信長が信忠を指名した際にその次は信忠の嫡男(三法師)と決めていたという説があり、正しいように思えます。問題は後見体制で、信雄と信孝が争っていたことから両者後見人となったようです。当時三法師は岐阜城におり、今後は安土城(本能寺の変後天守と本丸は焼失したが他の建物は存在した)に移し堀秀政が傅役を務めることになります。この後の領土の配分では、信雄は尾張を、信孝は美濃を相続することとなります。出席者の領土については、勝家は旧来の越前に加え、秀吉の領土であった近江長浜を得ます。ここは近江から越前への出入り口として勝家がどうしても欲しかったようです。秀吉は、近江長浜を失う代わりに河内・山城を得ます。秀吉の養子となっていた信長4男秀勝には光秀の領土だった丹波が与えられますが、これは実質的に秀吉の領土です。毛利攻めで秀吉が得た播磨・但馬・因幡・備中・美作・伯耆はそのまま秀吉のものです。長秀には若狭の旧領と近江の2郡、恒興には摂津有岡の旧領と新たに摂津の3郡が加増となりました。領土的には秀吉が信雄・信孝の織田家を凌いでおり、これが信雄・信孝の不満となって行きます。尚、清須会議には徳川家康も関与しており、委任状(誓紙)を提出しているようです。そのため後日、織田家名代信雄の要請に応じ小牧・長久手の戦いに出陣することとなります。
清須会議後秀吉が織田家の代表のように振舞い始めたことから、これに反発する信孝と勝家、それに不遇をかこっていた滝川一益が接近します。天正10年(1582)10月には信長の妹お市の方と勝家の婚儀を岐阜城で行います。同じ頃勝家は、堀秀政を通じ秀吉は清須会議の決定に違反していると通告し、諸大名に弾劾状を送ります。この月の10日から15日にかけて秀吉は大徳寺で信長の葬儀を行いますが、三法師・信雄・信孝・勝家は出席できなかったようです(しなかった?)。その後10月28日、秀吉・長秀・恒興は、清須会議での織田家当主は三法師という決定を反故にし、信雄を暫定的な当主として主従関係を結びます。これを家康も支持します(このため家康は後の小牧・長久手の戦いに参戦した)。これで勝家との一戦が不可避な状況となりますが、勝家が前田利家・不破勝光・金森長近を秀吉の下に派遣し、和睦します。この際に秀吉は利家らを調略しており、賤ヶ岳での利家らの離脱に繋がったと言われています。この和解は、勝家の領地越前が雪に閉ざされ出兵できないための時間稼ぎであり、これは秀吉も承知していました。この間秀吉は、長浜城の勝家の養子勝豊を調略し寝返らせ、その後岐阜城の信孝が三法師を安土城に移すと言う約束を守らなかったとして、信雄・長秀・恒興らと共に岐阜城に出兵します。多勢に無勢の信孝は直ぐに降伏し、三法師を引き渡すことで和睦します(信孝はそのまま岐阜城に留まる)。
(9)亀山城・峰城の戦い
上記のような流れの中で、天正11年(1583年)1月、関東(上野)を追われ伊勢長島城に戻っていた滝川一益が勝家と結び、秀吉方に属する伊勢の亀山城、峯城を奪います。これを知った秀吉は7万の軍で奪還に向かいます。その中で秀長軍は、亀山城攻めの左翼部隊を担当します。高虎は先陣を命じられ活躍し、亀山城は難なく落城したようです。峯城は兵糧攻めで落としています。長島城に籠った一益を秀吉軍が包囲しますが、4月になって柴田勝家が北近江に出兵してきたため、秀吉軍は北近江に向かいます。長島城は秀吉家臣蒲生氏郷・信雄が包囲を続けましたが、亀山城と峯城は守備を放棄したため、一益方の支配に戻ったようです。
(10)賤ヶ岳の戦い
天正11年(1583年)4月、柴田勝家が越前から3万の兵を率い北近江に出兵してきます。秀吉は木之元(現長浜市)に着陣します。両軍とも陣地や砦作りに時間をかけ、膠着状態が続きます。このため秀吉は、伊勢の一益にも備えるため長浜城に戻ります。すると信長3男信孝が一益と結び、美濃の岐阜城で再び挙兵します。このため秀吉は美濃に出兵し、大垣城に入ります。これを知った勝家は、甥の佐久間盛政の具申を入れ、秀吉方の大岩山砦攻撃を許します。盛政の猛攻により大岩山砦は陥落し、守っていた茨木城主中川清秀が戦死します。更に盛政は高山右近守る岩崎山砦も攻撃し、右近は秀長がいる木之元本陣に逃れます。ここで勝家は盛政に撤退を命じますが、盛政は聞き入れません。その後桑山重晴守る賤ヶ岳砦を攻撃する動きを見せたため、重晴は守れないと見て撤収を開始します。この撤収中に若狭方面を守備するために琵琶湖を渡っていた丹羽長秀隊が急遽救援に駆け付け、合流して賤ヶ岳に戻り、盛政隊を撃退します。この日大垣城で大岩山砦が陥落したことを知った秀吉は、52kmを5時間(8時間と言う説もある)で木之元に引き返えし(美濃大返し)、早速盛政隊に攻撃を開始します。盛政隊は精強でなかなか崩れません。そんな中、勝家と共に後方の守備に就いていた前田利家隊が突如離脱します。これにより利家隊に対峙していた秀吉軍が盛政隊に攻撃を仕掛け、盛政隊は一挙に劣勢となります。勝家軍では不破勝光・金森長近の部隊も撤収を始め、総崩れの状態となります。以後秀吉軍は勝家を越前北ノ庄城まで追撃し、勝家は自害します。前田利家・不破勝光・金森長近の離脱は3人が前年和睦交渉に来た際に秀吉に調略されていたと言われていますが、甥の佐久間盛政を統制できない勝家に嫌気が差したのかも知れません。
岐阜城で挙兵した信孝は、兄信雄の部隊に包囲され、降伏します。その後信孝は、信雄により切腹を命じられます。伊勢長島城の一益は籠城戦の末降伏し、丹羽長秀預かりとなり越前大野で蟄居します。
この戦いで高虎は、部隊を率いて盛政隊を横合いから鉄砲で攻撃し、混乱させておいて槍で突撃します。この際高虎自身も負傷しますが、勝家軍を追い丸岡城を攻撃し落します。高虎の武功は秀長から秀吉に報告され、秀吉から1,000石、秀長から300石の加増を受けます。これで高虎の俸禄は4,600石となります。賤ヶ岳の戦いでは、加藤清正ら秀吉子飼いの若武者7人が活躍し(「賤ヶ岳の七本槍」)、各人に5,000石が与えられたとされています。この中には槍が得意でないものも含まれており、褒賞は合戦での武功によるものではなく、秀吉が子飼いの若武者を1人前にするために与えたようです。このような依怙贔屓もあり高虎は、七本槍の若武者とは仲が良かったようには見えません(特に加藤嘉明との不仲は有名)。尚、この後勝家の領地越前は丹羽長秀に、信孝の領地美濃は池田恒興に与えられ、秀吉は恒興の摂津(大坂)を接収しています(この年の暮大坂城完成)。
(11小牧・長久手の戦い
賤ヶ岳の戦い後、信雄は織田家当主として三法師を後見して安土城に居住しますが、秀吉から清州城に退去するよう言われ、信雄と秀吉の関係が悪化します。秀吉は信雄家の津川義冬・岡田重孝・浅井長時の3家老を懐柔し傘下に取り込もうとしますが、これが信雄に知られ、信雄は3家老を処刑します。これを聞いた秀吉は激怒し、信雄成敗を決意します。信雄には織田家と同盟関係を結んでいた家康が応援に入り、小牧・長久手で秀吉軍と激突します。家康は、紀州の雑賀衆や根来衆、四国の長宗我部元親、北陸の佐々成正、関東の北条氏政らと結んで秀吉包囲網を形成し、秀吉勢の手薄な地域を攪乱しました。そのため秀吉は、大坂との行き来を余儀なくさせられています。
天正12年(1584年)3月、信雄方の犬山城が秀吉に与した岐阜城主池田恒興から攻められ、占領されます。恒興の母は信長の乳母だったため、恒興と信長は乳兄弟であり、恒興は信雄方に味方すると考えられていました。だからこの裏切りは信雄・家康連合にはショックだったようです。これを聞いた家康は、2日後には尾張の小牧山城に駆け付けます。恒興の娘婿である森長可が小牧山を突こうとしたところを逆に家康軍に攻撃され、大きな損害を出します。この敗北が後の長久手の戦いに繋がります。3月18日、家康軍は小牧山城を占拠し、周囲に砦や土塁を築き秀吉軍に備えます。秀吉は3月21日、3万の兵を率いて大坂城を出発し、3月27日犬山に着陣します。この後は膠着状態となります。そして4月5日、恒興が秀吉に、家康留守の三河を突けば、家康は小牧山から帰還するはずなので、自分と森長可にやらせて欲しいと献策し、秀吉はこれを許します。大将は秀吉の甥の秀次(兵8,000)とし、恒興隊6,000、長可隊3,000、堀秀政隊3,000の4隊編成で、4月6日の夜出発しました。7日の夜最後尾の秀次隊が宿営しているところが徳川の情報網に掛かり、小牧山に知らされます。家康は8日先遣隊4,500を派遣し、その夜には家康・信雄の本体9,300が小牧山を出発します。そして9日早朝先遣隊は、休憩していた秀次隊を襲撃します。その結果秀次隊は壊滅状態となり、秀次は目付の木下祐久などの木下一族に守られて逃げ遂げます(共の者の馬でとも徒歩でとも言われています)。この報に接した堀秀政勢は引き返し、秀次の残存兵を糾合し、徳川先遣隊を待ち伏せて破ります。この頃森長可隊および池田恒興隊は尾張の岩崎城を攻撃中でしたが、徳川勢出現の報を聞いて引き返し始めます。ここで家康本体は、この2隊と秀政隊の間に入り分断します。ここで秀政隊が進撃すれば長可隊・恒興隊と家康本体を挟撃できたのですが、秀政隊は家康の馬印を見て家康本人が来ていると知り、不利と判断し引き返します。その結果家康本体と長可隊・恒興隊の戦いとなり、長可や恒興が死亡するなど長可隊と恒興隊は惨敗を喫します。家康軍出現の報を聞いた秀吉は2万の兵を率いて救援に向かいますが、家康軍は速やかに小牧山に帰還しています。
この戦いにおいて逃げ帰った秀次は、秀吉から「一門の恥であるから手打ちにする」とまで激怒されます。秀次は初めての大将であり、これに付けた木下祐久は代官の経験が長く合戦には不向きでした。こんな秀次隊を、先を急ぐ4隊の最後尾に置いたのも間違いだったと思われます。このように長久手の戦いの敗北は、秀吉にも判断ミスが多かったと思われます。一方秀長は、高虎と共に北伊勢の峯城、松ヶ島城を攻撃し開城させています。その後の紀州攻め・四国攻めでは、秀次は秀長の下に入り、秀長に守られながら実績を作って行きます。これは秀長が秀吉にそのようにするよう進言したと考えられます。秀長は豊臣家の鎹のような役割を果たしています。
この小牧・長久手の戦いと並行して家康が呼びかけた秀吉包囲網の一環で、秀吉は間隙を突かれています。最も危なかったのは、根来・雑賀・粉河衆が岸和田や堺、大坂を攻めたときでした。岸和田城は落とされそうになり、堺は占領され、大坂城下は一時混乱状態になったと言われています。そのため秀吉は3回も大坂に帰還しています。四国でも長宗我部元親が秀吉方の讃岐十河城を落とし、讃岐を平定しています。家康は元親に渡海して播磨か摂津を攻撃するよう要請していたようで、秀吉の心配事の1つになっていたようです。その他家康に呼応した佐々成正が能登の末森城の奪おうとしますが、秀吉方の前田利家が阻止し、木曽谷の妻籠城に家康勢が押し寄せますが、秀吉方の木曽義昌勢が防ぎました。
11月に入り秀吉は信雄に伊賀と伊勢半国を割譲して降伏するよう提案し、信雄は受諾します。家康は織田家当主信雄との同盟関係から参戦しており、秀吉と信雄との間に和睦が成立した以上、参戦する理由がなくなり撤兵しました。秀吉は家康にも和睦を結ぶよう呼びかけ、家康は和睦を結び次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子にするため大坂城に送ります。これ以降秀吉は、小牧・長久手の戦いの間隙を突いた紀州勢および四国の長宗我部元親攻めに向かうことになります。
(12)紀州攻め
小牧・長久手の戦いが終結した翌年の天正13年(1585年)3月、これまで紀州勢(根来・雑賀・粉河衆など)の和泉や大坂の攪乱に業を煮やしていた秀吉は、10万の兵で紀州攻めを開始します。紀州勢は信長時代の石山本願寺合戦でも本願寺に加勢した傭兵軍団で、多数の鉄砲を装備し、射撃の訓練を積んでいました。秀吉自らが大将を務め、副将は秀長と秀次が勤めます。先陣は秀次で、海側と山側の二手に分かれて侵攻します。当時和泉も紀州勢の勢力圏に入っており、紀州勢は和泉の千石堀城・積善寺・沢城などに9,000の兵を配置していました。秀吉軍は先ず東端の千石堀城を攻めますが、守る紀州勢は得意の鉄砲で迎え撃ちます。そのため先陣の秀次軍は多数の死傷者を出します。こんな中、搦手から火矢を放ったところ、この矢が場内の硝煙蔵に引火爆発し、城は炎上します。秀吉は城内にいた非戦闘員を含む5,000人の皆殺しを命じたということです。積善寺および沢城でも、紀州勢は鉄砲で迎え撃ち、秀吉軍の死傷者は多数に上ります。ここでは助命を約束して開城させています(沢城では秀長が交渉)。この後秀吉軍は紀州勢の中心根来寺(寺領約70万石)に向かいますが、根来寺の僧兵(約6,000人)は和泉の城に終結しており、根来寺ははなはだ非力になっていました。そのため殆ど無抵抗で制圧されます。その夜根来寺は出火し、450近くの堂塔や僧房の殆どが消失します。また翌日には根来寺に次ぐ寺院勢力だった粉河寺も炎上しています。
これと並行して秀吉軍は、紀州勢のもう一つの中心勢力である雑賀(さいが)衆にも攻撃を仕掛けます。雑賀衆は雑賀荘と言われる5つの地区の自治集団のことであり、秀吉軍はここを包囲し、住居を焼き払います。その結果、雑賀地区は壊滅状態となり、雑賀衆は解体されます。この際雑賀衆の棟梁鈴木孫一を高虎が謀殺したという話もあります。
その後秀吉軍は紀南に転じます。紀南は有田郡、日高郡、牟婁(むろ)郡で勢力が異なっていました。有田郡と日高郡は割と簡単に平定しますが、高虎らが受け持った牟婁郡では奥熊野に逃げた日高郡国人湯河直春が地元の山本氏と結び、激しく抵抗します。その結果退却に追い込まれ、長期戦となりました。結局和議を結び、湯河氏らの所領を安堵して平定します。
紀州攻めで最も時間を要したのは、宮郷(現和歌山市)の太田城攻略だったようです。ここには太田左近を党首とする宮郷衆5,000人が籠城します。ここは環濠集落だったため、秀吉軍は水攻めを選択します(備中高松城、忍城と合わせ三大水攻めと言われる)。その際堤防が切れ、秀吉軍は多数の溺死者を出します。最後は小西行長の水軍を堤防の中に入れ、安宅船や大砲で攻撃して城に侵攻します。城内からも鉄砲を撃ち放し抵抗しますが、ついには主力の首を差し出すことを条件に開城します。32日間の攻防でした。
紀州にはもう1つ忘れてはいけない場所があります。それは高野山です。高野山は根来衆や雑賀衆のように秀吉を攪乱することはしていませんが、領地が拡大していた、僧兵を持っていた、犯罪人(謀反人)を匿っていたなど秀吉の統治に障害になる可能性がありました。そのためこの際に糾しておこうとしたようです。秀吉はこれらを改めないと全山焼き討ちにすると脅します。この結果、高野山側は秀吉の要求をすべて受け入れます。その後高野山の武装は解除され、高野山には2万1,000石の寺領が与えられます。
このようにして秀吉軍は紀州をほぼ制圧します。この後秀吉は農民から武器を取り上げる刀狩を実施し、再反乱の目を摘みます。そして紀州と和泉の2カ国を秀長に与え、但馬から転封します。秀長は高虎ら5人の家臣を配置し、紀州国の統治を図ります。秀長は天正13年(1585年)、紀州の統治のため若山に城(後の和歌山城)を築くことし、高虎を普請奉行に命じます。これが後に城作りの名人と言われる高虎の最初の城作りでした。和歌山城は約1年で完成し、秀吉家臣の桑山重晴が但馬の竹田城から秀長家老として入城(3万石)しています。
当時紀州は秀吉軍に平定されたとは言え、抵抗する勢力が少なくなく、かつ秀吉が刀狩や検地を行ったことから、不利益を被る土豪たちの一揆が絶えませんでした。特に紀南の熊野地方での抵抗が激しいものとなっていました。当時高虎は秀長から山奉行を命じられていましたが、その仕事の中心は熊野の木材の集荷であり、これに支障を来していました。そこで高虎は、天正17年(1589年)頃、牟婁郡北山郷(現熊野市)の丘陵に赤木城を築き、ここを拠点として一揆勢の取り締まりを行います。高虎は、一揆勢160人を捕らえ、田平子峠で処刑したと言われています。一方人心掌握術にも長けていたようで、朝鮮出兵では熊野水軍を率いています。尚、赤木城は、小さいながらも堅固な石垣や枡形虎口、犬走りなどを備え、後に高虎式城郭作りの基本が詰まっていると言われています。
意外なようですが高虎は、検地や山奉行、普請奉行をやっていたことから、帳簿も付けられ数字にも明るかったと言われています。万能なテクノクラート像が見えてきます。これが後日徳川家康が高虎を重用した原因だと思われます。
(13)四国攻め
紀州を平定した秀吉は、天正13年(1585年)5月、小牧・長久手の戦いの際に四国を統一し、渡海して播磨や摂津を突く動きを見せた長宗我部元親攻めを決意します。このため、黒田官兵衛は淡路で、一柳直末は明石で待機するよう命じます。また秀長には動員できる和泉・紀州の船舶数を調査し、5月28日までに紀ノ湊(現和歌山市)に集結するよう命じます。6月16日、秀吉は病のため岸和田に在陣し、秀長を大将に、秀次を副将に指名し、淡路から阿波、備前から讃岐、安芸から伊予へ(毛利軍)と3方向からの進軍を命じます。
阿波は秀長・秀次連合軍6万が担当し、長宗我部軍の主力と戦います。長宗我部軍は全軍2~4万を伊予や讃岐にも割かれたため、劣勢は明らかでした。秀長軍は木津城(現鳴門市)、牛岐(うしき)城(現阿南市)を落とし、一宮(現徳島市)・岩倉(現美馬市)・脇(現美馬市)の3城を残すのみとします。岩倉城・脇城は秀次にまかせ、秀長は最重要拠点一宮城の攻略を担当します。秀長勢には高虎もおり、兵糧や水を絶ったことから、7月中旬には陥落します。前後して岩倉城・脇城も陥落しています。この間、秀吉が自ら出陣すると言い、7月3日には先遣隊が淡路に到着しています。秀吉本体については、秀長が出陣には及ばないと制止したようです。一宮城を守った谷忠澄は、元親が居た阿波西端の白地城に戻り元親に降伏を勧めますが、元親は一度も決戦をせずに降伏するのは恥辱であると拒否します。その後重臣の度重なる説得に折れ、秀長の降伏条件を受諾します。降伏条件は、土佐一国安堵、今後は戦いの度に3,000の兵を供出すること、人質を出すこと、家康と同盟しないこと、でした。これにより讃岐や伊予で抵抗していた長宗我部勢も降伏し、四国は平定されます。四国攻めは、秀長が秀吉軍の大将として指揮した初めての大きな戦いですが、見事に大将の役割を果たしました。従ってこの頃秀長は、秀吉に劣らない戦上手の武将になっていたと考えられます。
四国平定後秀長には大和一国が加増され、居城を大和郡山城に移します(前城主の筒井定次は伊賀上野城主へ転封)。この結果秀長は、大和・和泉・紀州3カ国約120万石を支配することとなりました。また高虎にも5,400石が加増され,ついに1万石と大名並みの石高となりました。この後高虎は秀長から大和郡山城の改修を命じられ普請奉行を務めます。この改修で大和郡山城は多くの曲輪を持つ防御機能の強い城に作り替えられたようです。もちろん高虎様式城郭の特徴である犬走りもあります。秀長と高虎は、城の改築と同時に城下町も新しくし、城下町だけで商売を許して商人を城下町に集め、賑わいを作り出しています。ここで高虎は城下町作りのノウハウを学んだと思われ、その後今治や伊賀上野、津での見事な城下町作りに繋がっています。
紀州を平定した秀吉は、家康を臣従させるべく手を尽くします。妹の旭姫を離縁させて家康の正室としましたし、これでも上洛しない家康に対し母親の大政所を人質として岡崎に送ります。この結果天正14年(1586年)10月、家康も上洛を決意します。秀吉からその際家康が宿泊する屋敷を京に作るよう命じられた秀長は、高虎に作事奉行を命じます。この中で高虎は、外構えと門構えに防衛上の不安があると感じ、独断で設計変更を命じます。家康上洛前に屋敷を検(あらた)めに来た徳川重臣酒井忠次や本多忠勝らは、その外構えや門構えを見て防御の厚さに感心し、高虎を信頼するようになったと言います。秀吉亡き後高虎が家康に近づく(家康が高虎を招聘する)きっかけとなる出来事だったと言われています。
尚、秀吉に臣従するための儀式を行うために大坂に来た家康は、秀長邸に宿泊します。そしてその晩秀長邸で歓迎の宴会が開かれますが、密かに秀吉がやってきて家康をねぎらい、明日の儀式が上手く行くよう根回しをしたと言われています。以後秀長は家康との関係においても鎹のような役割を果たしており、大和郡山城の修築が完成した際には、家康がお祝いに駆け付けるなど交流が深かったようです
(14)九州攻め
四国攻め頃、九州では薩摩が北上し、肥前の有馬氏や竜造寺氏を下し、豊後の大友宗麟領に侵攻していました。これに困り果てた宗麟は秀吉に助けを求めます。秀吉は関白(天正13年7月に関白の宣下)として、天正13年(1585年)10月、島津氏に対して停戦を命じます。大友氏と島津氏はこの停戦命令を受入れますが、島津家では激論がありました。翌年天正14年(1586年)1月、秀吉は島津氏に対し占領した大友領の大部分を返すことになる国分案を提示しますが、島津氏は拒否し、大友攻撃を再開します。そこで宗麟は大坂城に秀吉を訪ね、島津討伐を要請します。
これを受け秀吉は出兵を決めますが、先ずは帰服した毛利などの中国勢や長宗我部などの四国勢に当たらせることとします。天正14年(1586年)6月、島津勢は残された大友領の統一のため、肥後を北上し筑前の高橋紹運守る岩屋城、その長男の立花宗茂守る立花山城および次男の高橋統増守る宝満山城に狙いを定めます。岩屋城と宝満山城は激戦の後陥落しますが、立花山城が陥落しません。そこで島津勢は立花山城の攻略を諦め撤退します。この後宗茂は宝満山城と岩屋城を奪還し、秀吉から「西国一の猛将」と言われるようになります。
8月に入り秀吉は毛利勢に九州進撃を命じます。毛利の部隊は8月26日に九州の門司に至り、島津軍と対峙します。これにより島津軍の進撃が止まります。9月には四国の長宗我部・十河勢力が豊後に入り、大友勢と合流します。その結果、島津勢に取られていた豊前や筑前の城を次々をと奪還します。このため島津義久は、豊後の大友を直接突き、雌雄を決する方針に転換します。これを見て秀吉方の軍監黒田官兵衛は、今後秀吉の大軍が来たときに備え、豊前・筑前の島津方城主に降伏を訴える文書をばら撒いています。
10月島津義弘率いる3万の大軍が肥後の阿蘇から豊後に侵攻します。ここでは岡城を除き攻略します。同じ頃島津軍は、島津家久率いる兵1万で日向から豊後へ攻め入ります。ここでは栂牟礼(とがむれ)城の佐伯惟定が侵攻を阻止します。この頃毛利勢により豊前の島津勢の城は秀吉勢に降伏しており、残るは豊後での攻防に絞られました。
そこで秀吉は12月、翌天正15年(1587年3月をもって秀吉自ら九州に出陣すると触れ、約37カ国に対し20万の兵を大坂に集めるよう命令します。このため小西隆佐(小西行長の父)ら4名に軍勢30万の1年分の兵糧米と軍馬2万疋分の飼料を調達するよう命じます。兵糧奉行に石田三成、大谷吉継、長束正家を任じ、その出納と輸送に当たらせます。
12月豊後では家久軍が宗麟の本拠府内城に迫ります。府内城には四国勢の長宗我部元親・信親親子や十河存保存(まさやす/讃岐十河城主)、軍監の仙石秀久らの四国勢6,000が詰めていました。四国勢は毛利勢から持久戦により島津軍を止めておくよう指示されていましたが、西からは島津義弘が迫っていたため、家久と挟撃される可能性がありました。そこで先ずは目先の敵である家久を戸次(へつぎ)川で食い止める決断をします。12月12日、戸次川を境にして両軍が対峙しますが、四国勢は戸次川を渡河して家久軍を攻める作戦を立てます。四国勢は家久軍が見当たらない場所を選んで渡河しますが、家久軍は少数の部隊を茂みに隠しおき渡河してくる四国勢を急襲し、すぐさま本隊が駆け付けます(釣野伏せ)。虚を突かれた四国勢は敗走し、長宗我部信親(元親嫡男)、十河存保が死去し、兵2,000を失ったと言われています。ここで家久は府内城を落とし、宗麟がこもる丹生島(にうじま)館を攻めますが、ここはキリシタン大名宗麟がポルトガルから輸入した仏郎機(フランキ)砲(大型大砲)を装備しており、家久軍を撃退します。その後家久隊は大友勢の激しい抵抗を受け、府内城で越年することとなります。阿蘇から豊後に入った義弘は、岡城の志賀親次に激しく抵抗され、山野城(現竹田市久住)で越年します。また島津家当主義久は日向国塩見城(現日向市)で越年します。
翌天正15年(1587年)1月、秀吉は自ら大将として九州に出陣することを告げます。そして1月25日には宇喜多秀家軍が出立し、秀長は2月10日、秀吉は3月1日に出立しています。その数20万を超えていました。秀長は3月上旬に、秀吉は3月25日に九州に入り、秀長が豊後・日向方面を南下し、秀吉が肥後方面を南下する2正面作戦をとります。先に九州入りした秀長は、豊後の府内城にいた島津義弘に和睦を呼び掛ける使者(高野山の僧木食応其/もくじきおうご)を送りますが、義弘は拒否します。しかしその後島津軍(義弘隊と家久隊)は豊後から撤退し日向の都於郡(とのこおり)城(現西都市)を拠点とします。秀長軍は島津軍がいなくなった豊後を抜け日向入ります。日向では山田有信が守る高城(たかじょう)城(現木成町))を包囲します。そして都於郡城から義弘・家久隊が救援に来ることを見越し、近くの根白坂(ねじろざか)に砦を築いて待ちます。案の定4月17日、義弘・家久隊が2万の大軍で押し寄せ砦を包囲し、宮部継潤が兵1万で守る根白坂砦は窮地に陥ります。救援に藤堂高虎・黒田官兵衛・小早川隆景が駆けつけ、九州攻め最大の激戦となります。この戦いで島津軍は大敗し、義弘は飯野城(現えびの市)、家久は佐土原城(現佐土原町)まで後退します。秀長は前年末から足利義明や木食応其を島津義久の元に派遣し、和睦の交渉をしており、根白坂の戦いの敗北により義久は秀長に和睦を申し入れます。そして義久は剃髪して薩摩の川内に滞在していた秀吉の元を訪れ、降伏し仏門に入る意思を示します。これを見て秀吉は「一命を捨てて走り入ってきた」として赦免します。そして薩摩・大隅と日向の諸県郡が島津に安堵されました。
九州攻めにおいて秀長は、秀吉と並ぶ一方の大将を務めており、島津を降伏させる戦いを指揮しています。また同時に早くから義久に和睦を働きかけ、義久は秀長宛てに和睦を申し入れています。これを見ると、秀長は豊臣政権の実務執行者であることが分かります。
九州平定後、秀吉は朝廷に奏上し秀長の官位をそれまでの従三位参議から従二位中納言とします。これにより秀長は大和中納言と言われるようになります。高虎には1万石を加増し、併せて従五位下佐渡守の官位を与えます。高虎は秀長の家臣であり、秀吉から見たら陪臣であることを考えると、異例の扱いでした。これに伴い秀長は、高虎に領地として紀伊粉河を宛がいます。高虎は粉河に入ると住民の心の拠り所として紀州攻めの際に焼失した粉河寺を再建し、守りの要として粉河城を再建します。そして家臣を粉河に住まわせ、但馬の大家郷に住んでいた妻や両親を呼び寄せます。藤堂高虎と名乗るのはこの頃からのようです(それまでは藤堂与右衛門)。
この年天正15年(1587年)秀吉は嫡男がいなかった秀長に姉ともの3男秀保を後継者にするよう言います。しかし秀長は、天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が死んだ後、織田家家老の丹羽長秀を味方に引き込むため、長秀の3男仙丸を後継者として養子にしていました。天正14年(1586年)に丹羽長秀が亡くなったため、秀吉は血のつながった甥の秀保に秀長家を継がせようと心変わりしたようです。これには秀長も仙丸の扱いで困ります。このとき高虎が自分には子がいないから仙丸を養子に貰い受けると申し出たと言われています(秀吉が命じたという説もあります)。この件で秀長は高虎にとても感謝したようで、高虎はその後秀長家筆頭家老となっています。高虎養子となった仙丸は藤堂高吉と名前を変え、藤堂家後継者として育てられますが、高虎が46歳のときに実子が生まれたため、後継者を辞退しています(その後伊賀名張に分家)。
(15)小田原攻め
天正16年(1588年)に入ると秀長は病気がちとなります。この年秀吉は浅井長政と信長の妹お市の方の長女で、お市の方が柴田勝家に再嫁後北ノ庄で自刃した後引き取っていた茶々を側室とします。その後秀吉の子(鶴丸)を身ごもったため産所とするため、天正17年(1589年)、秀吉は秀長に淀城の築城を命じます。もちろん高虎が指揮を執りました。
天正18年(1590年)3月、秀吉は小田原の北条氏攻めに出発しますが、本来なら秀吉軍に加わるはずの秀長は、病気のため参加できませんでした。そのため高虎が秀長名代として兵5,000を率いて参加します。この小田原攻めでは、秀吉軍には気になることがありました。それは秀吉軍に参加することになっている家康が娘の督姫を北条家当主の北条氏直に嫁がせていることでした。家康は、北条と断交する意思を秀吉に伝え、証人として三男長丸(後の秀忠)を大坂城に送ります。秀吉は長丸を送り返し、徳川領内の安全な通行の便宜を求めます。秀長家の筆頭家老として家康方と最も親しい高虎には、家康軍との連絡と家康軍の監視の役割が与えられていたかも知れません。そのせいか小田原攻めでの高虎の記録は、織田信雄、蒲生氏郷、福島正則らが主力を務める韮山城攻めに加わったことしかありません。そして韮山城は、家康が交渉役となり開城させています。
小田原攻めは北条氏政・氏直親子の降伏で同年7月には終結します。その後秀吉は一部の軍を率い、小田原攻めの最中に臣従を誓った伊達政宗ら東北地方の武将の領土仕置きのため東北に向かいます。これで秀吉に歯向かう勢力はなくなり、秀吉の天下統一がなります。この後家康は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の旧領から、北条氏の領土であった関東に移ることになります。
この小田原攻めには秀長は参加できず、高虎にも目立った活躍はなかったことから、なんの褒賞もありませんでした。秀長の病状はその後悪化を続け、翌天正19年(1590年)1月死去します。享年51歳でした。
3・見えてくる秀長像
(1)豊臣政権の鎹(かすがい)だった
秀長の死から1カ月後の2月、秀吉はあれだけ重用していた利休に切腹を命じます。理由は良く分かっていませんが、秀長の生存中は「公儀のことは秀長に、内々のことは利休に」(秀長が大友宗麟に言った言葉)と言われ、内々のことを殆ど処理していた利休ですから、秀長がいなくなり公儀のことが秀吉に集中すれば、その突出ぶりが目立つのは当然です。それらの事案を三成らからいちいち報告され、秀吉は利休がもう一人の権力者になっていると考えたものと思われます。翌年の天正20年(1592年)4月には朝鮮出兵を命じ、破滅への道を走り始めます。そして朝鮮での戦いが行き詰まっていた文禄4年(1595年)7月には、関白の地位を譲っていた秀次に切腹を命じています。理由は謀反を企んでいたからと言われていますが、ちょっと信じられません。秀次の謀反に加勢する大名が見当たりません。朝鮮での戦いが行き詰まり、悪い情報ばかり耳に入るため、秀吉は猜疑心の塊になっていたのかも知れません。秀次切腹の3カ月前の4月には、秀長家を継いでいた秀次の弟秀保が不審な死を遂げています。記録上は療養先の十津川で病死したことになっていますが、秀次切腹の3カ月前であり、秀保が秀次に味方することを危惧して秀吉が殺害したとも考えられます。秀吉は秀保の葬儀を密葬で済ませており、悲しんだ様子がありません。前後しますが天正20年(1592年)9月には、秀次の弟(秀保の兄)秀勝も朝鮮の巨済島で病死したことになっており、秀吉兄弟姉妹の血を引く男子(秀次・秀勝・秀保は秀吉の姉ともの子)は絶滅しています。これは文禄2年(1593年)8月の秀頼誕生の前後に起きており、秀頼の立場を脅かしそうな3人を秀吉が抹殺した疑いがあります(秀勝については、淀殿の妹お江を妻としており、淀殿の求めに応じて、子種がなかった秀吉に代わり淀殿に子種を提供した、即ち秀頼の実父であった可能性があります)。豊臣一族の間では秀長が間に入り、良好な関係が維持されていたと思われます。例えば、秀次は長久手の戦いで大将ながら味方を見捨てて逃げ帰ると言う失態を犯し、秀吉に「手打ちにする」とまで叱責されますが、以後の紀州攻めや四国攻めでは秀長の下で挽回を図っています。秀次が切腹になった件でも秀長が居ればそもそも謀反の疑いなど生まれなかったと思われます
豊臣恩顧の大名の間でも、朝鮮の役において清正らの武将と三成ら軍監との対立が激しくなっています。朝鮮の役では、秀吉軍は最初の数カ月間は快進撃を続けますが、明との国境付近に至ると明が侵攻し、秀吉軍は敗走を始めます。その後朝鮮の義勇軍も加わり停戦に追い込まれ、朝鮮南部まで撤退します。この間は負け戦ですから、三成ら軍艦として派遣された奉行やその配下の目付たちは、敗因を現地の武将のミスとして秀吉に報告します。その結果多くの武将が秀吉から叱責を受け、中には改易になったり、減封・転封になる武将(大名)も少なくありませんでした。このような報告を上げた目付の頭目が三成であり、現場の武将たちの多くが三成に恨みを持ちます。これが関ヶ原の戦いの遠因になっており、朝鮮で三成に恨みを持つ武将は東軍に属しています。もし秀長が生きていれば、秀長は朝鮮に在陣し、秀長から戦いの状況を秀吉に伝え、武将が一方的に処分されることはなかったと思われます。それまで大名からの報告や相談は、秀吉子飼いの大名も含め先ず秀長に報告・相談し、大部分は秀長が処理し、重要なことだけ秀吉に挙げられていたと考えられます。それが悪い内容であった場合、秀長は秀吉の怒りを買うことがないように工夫して伝え、その結果大名と秀吉の関係は上手く行っていたと考えられます。それが秀長亡き後は、その役割を三成らが担うようになり、後で自分の責任にならないよう悪い情報ほど上げるようになったと考えられます。それが朝鮮の役で表れており、朝鮮在陣の武将の殆どが秀吉から叱責されています。
これらのことから秀長は、秀吉と利休、豊臣一族および大名との間で鎹の役割を果たしていたことが分かります。秀長の死によって、秀吉と彼らの間の鎹が外れ、バラバラになっています。もし秀長が生きていたら、例え秀吉が死去したとしても(多分もっと長生きしたでしょうが)、秀長が秀頼を後見し、豊臣政権は安定的に継続した可能性が高いと思われます。
(2)秀吉の機敏さ、2人の軍師の知略を学んだ戦上手
秀長が人格者だったと言う評価は良く見られますが、優秀な武将だったという評価は余り見られません。しかし調べて行くと武将としても優秀だったことが分かります。秀長が指揮した戦いは負け知らずです。最初の頃の戦いには、秀吉から優れた武将を付けられていたようですが、それでもよそ者軍団をまとめて勝ち続けるのは至難の業です。人の扱いが上手かったのは間違いありません。それに早くから秀吉のそばで軍議に参加し、秀吉や2人の軍師(黒田官兵衛と竹中半兵衛)から知略を学んだものと思われます。そのため秀吉の機敏さと2人の軍師の知略を併せ持つようになったと思われます。戦いながら和睦の撒き餌を多用するところに2人の軍師の影響が見えます。秀長は武将としても名将です。
(3)豊臣政権の金庫番だった
もう一つ秀長の特徴として挙げられるのは、豊臣政権の金庫番だったということです。秀長が死去したとき、大和郡山城には金子56,000枚、銀子は2間四方の部屋に満杯になるほど蓄えられていたと言われています。これは、秀長が大名から秀吉への報告・相談を一手に取次いでおり、そのお礼や商人からの献上だったと考えられます。秀長は九州攻めの際、九州に出兵した各地の大名に、秀吉が大坂から運ばせた豊富な兵糧を高値で売ろうとし、秀吉から制止されたという話もあります。秀吉は、鳥取城攻めの際に米麦を高値で買い占めるための資金や高松城水攻めの際堤防用の土嚢を農民に持参させるための資金の調達を秀長に命じ、その度に秀長は資金集めに悩まされたと思われます。そのため万が一のために備えて蓄財に励んでいたと考えられます。播磨攻めの最中の但馬南部への侵攻は、戦費に使える生野銀山の獲得が目的で、秀長の献策だったとも言われています。天正16年(1588)紀州の雑賀で材木代官を務めていた吉川平介が秀長から売買を命じられた熊野の木材2万本の代金を着服する事件があり、これを聞いた秀吉は激怒し、吉川を処刑、秀長からは翌年の年初の挨拶を受けなかったと言います。秀長家の収入は秀吉の懐と直結していたことが伺えます。
4・秀吉に仕えていた頃の高虎
秀長死後秀長家は養子となっていた秀保が継ぎます。秀保は当時12歳であり、筆頭家老高虎が秀長家を取り仕切っていたと思われます。天正20年(1592年)秀吉は朝鮮出兵を命じますが、秀保は名護屋在陣で、高虎が熊野水軍を率いて参加します。水軍の任務は兵員および兵糧の釜山までの運搬と、釜山周辺海域の制海権の確保だったようです。最初釜山に入ったときは、大量の船の威力で朝鮮水軍を蹴散らしますが、李瞬水率いる朝鮮水軍が偵察船を出し、日本船が少ないところを見計らって攻撃を仕掛け始めると、次々と敗退します。高虎も元禄元年(1592年)5月7日、巨済島の玉浦海戦で敗れています。敗因は朝鮮水軍は大砲を装備する軍事船が主力で、離れて大砲や鉄砲を撃ちかける戦い方なのに対し、日本側は輸送船が主力で、相手の船に接近して乗り移り制圧する戦い方だったためと言われています。その後日本軍は陸地に砲台を築き、接近する朝鮮水軍を陸から撃退する作戦に変更します。この結果、朝鮮水軍は停泊する日本船を攻撃しようと近づくと陸地から砲撃され、優位性を生かせなくなります。文禄の役は、明の国境に至った日本軍が明・朝鮮軍に反攻され、文禄2年(1593年)7月、日本軍は朝鮮南部に撤退することで停戦が成立します。この後日本軍は、朝鮮南部に多くの倭城を築きますが、高虎も順天倭城の築城に加わっています。順天倭城は三方が海に面した要害にありました。後に明・朝鮮軍が5万以上の兵で攻めても落とせなかった難攻不落の城です。近くには船溜まりもあり水軍の拠点にもなっていました。高虎が後日築く今治城など海に面した城は順天倭城での経験が基になっていると考えられます。
こんな中文禄4年(1595年)秀長家当主の秀保が急死します。病気療養中に死んだこととになっていますが、秀吉による謀殺の疑いがあるのは前述のとおりです。秀保の死を知った高虎は帰国後、秀長家の存続を図るため、当初秀長後継として養子に入り、秀保が後継になったため高虎の養子となっていた仙丸(丹羽長秀3男。当時は藤堂高吉)を元に戻し、後継者とするよう秀吉に献策しましたが、聞き入れられませんでした。これで秀長家は廃止となり、失望した高虎は高野山に上り仏門に入ります。これを聞いた家康は、本多忠勝や本多正信らを高野山に派遣し招聘します。一方高虎の優秀さを知る秀吉も、家康に取られたら一大事とばかり、高虎が親しくしていた讃岐高松藩主生駒親正を派遣し、秀吉の家臣となるよう説得します。高虎はこれを聞き入れ、粉河に帰ります。その後秀吉から伊予板島7万石の藩主を命じられます。板島の前藩主は戸田勝隆でしたが、朝鮮の役からの帰途病死していました。勝隆は強引に検地を進め、板島では農民の一揆が多発していました。高虎はこういう状態を紀州で経験しており、上手く解決したようです。そこで板島城の改修にかかりますが、慶長の役が始まります。
文禄2年(1593)7月の停戦決定後明との間で和議交渉が続けられ、まとまったとして文禄5年(1596年)9月、明の使節が大坂城を訪れ、秀吉に和議の条件を伝えます。それを聞いた秀吉は約束が違うと激怒し、和議は破談、停戦が破れます。そして慶長2年(1597年)出兵します。ここでも高虎は水軍を指揮します。ここでは熊野水軍ではなく村上水軍を配下に置いたようです。慶長2年(1597年)7月、朝鮮水軍が巨済島と漆川島の間にある湾に停泊していたところを、海上から高虎率いる水軍が攻撃、これを陸上部隊が援護し、朝鮮水軍に壊滅的被害を与えます(漆川梁海戦)。その後高虎率いる水軍は、同年8月陸の左軍と共に全羅道に向かい、南原城を攻撃し陥落させます。さらに全羅道西南部まで達し、陸上部隊を支援します。このとき鳴梁渡という海峡に李瞬水軍がいることを知った高虎は、関船数十隻を率いて捕獲に向かいます。これに対して大型船が多い李瞬水軍が反撃を加え、激戦となります。この戦いで高虎率いる水軍は、高虎が負傷したほか村上水軍の来島通総(みちふさ)が死亡するなど相当の被害を出します。しかし李瞬水軍は日本水軍の本体が近くにいることを知っており、退却します。その結果、日本水軍が鳴梁海峡の制海権を確保します(鳴梁海戦)。この後暫く海上の戦いは行われませんでした。慶長3年(1598年)6月、高虎は帰国し伏見を訪れ、秀吉に戦況を報告しています。秀吉は高虎の働きを称え、伊予喜多郡の大津城1万石を加増します。この後高虎は再び朝鮮に戻りますが、慶長3年(1598年)8月秀吉が死去し、日本軍は撤退を命じられます。その際順天倭城から小西軍らが撤退する際、海上で包囲する朝鮮の水軍と支援に駆け付けた日本の水軍との間で露梁海戦(李瞬水戦死)が行われますが、これには高虎は参加していません。この頃高虎は釜山で日本軍の帰国の船を準備していたと思われます。朝鮮撤収は豊臣政権大老として家康が命じており、高虎は家康から撤収の総指揮官に命じられていたという記述もあります。そうだとすれば、家康の高虎に対する評価の高さが伺えます。朝鮮の役での高虎は、日本国内での陸戦の猛者から海戦の猛者に変わっており、何をやらせても一流です。
5・家康に仕えていた頃の高虎
秀吉死後高虎は次の天下人は家康と見立てます。しかしここから石田三成と徳川家康の暗闘が始まり、これに三成に恨みを持つ加藤清正ら秀吉子飼いの大名の争いが加わります。高虎は一貫して家康を守るために働き、家康の信頼を高めて行きます。先ず、慶長4年(1599年)1月、秀頼が伏見城から大坂城に移る際に大坂城に同行した家康を三成方が暗殺する企てがありましたが、これを察知した高虎が家康に伝え難を逃れます。次に同年閏3月、前田利家との対立解消のため、家康が利家の屋敷を訪れた際に、三成の家老島左近が家康を襲撃するとの情報を入手した高虎は、女駕籠に家康を乗せ脱出させたと言われています。翌年慶長5年(1600年)閏3月3日、利家が死去します。翌4日、それまで利家の存在が歯止めになっていた加藤清正ら朝鮮の役で三成に恨みを持つ七将は、三成暗殺に決起します。これを察知した三成は、伏見城内の自宅に避難します。この問題は大老家康扱いとなり、三成は奉行職を解き佐和山城蟄居処分、七将はお咎めなしと処分します。家康書状では七将に高虎が含まれおり(加藤清正、福島正則、細川忠興、浅野幸長、黒田長政、蜂須賀家政、藤堂高虎)、高虎が6人の秀吉子飼いの武将と家康を結び付け、家康と協議しながら事を進めたものと思われます。もし清正ら七将が三成を殺害していたら、奉行を殺害したとして七将は切腹または改易処分になっていたと思われ、上手に処理されています。
前後しますが、慶長4年(1599年)に家康が利家の屋敷を訪れ、家康と利家の対立が解消した後、武将らは自領に帰るよう言われます。高虎は家康に異母弟正高を人質に差し出し帰国します。この結果他の武将も人質を差し出さざるを得なくなります。このようなことから後年高虎は「世渡り上手」と言われるようになったようです。高虎は伊予板島に帰り、朝鮮出兵のため改修途上になっていた板島城の改修に取り掛かります。城は海抜80mの岡にあり、不等辺五角形をして、2面は海に面し、3面には濠を巡らし港湾に面していました。これは海上の敵を発見したら、速やかに水軍を出動できるようにするための作りでした。朝鮮で高虎が中心となって築城した順天倭城のノウハウを生かしたものと考えられます。ただし天守閣は望楼式であり、高虎式築城の特徴の1つである層塔式にはなっていません。
その後大阪では、大老家康が天下取りに動きます。先ずは加賀の前田利長を服従させ、次に会津の上杉景勝に服従を求めます。しかし景勝が拒否したため、慶長5年(1600年)5月、景勝討伐のため大坂城を出立します。多くの秀吉子飼いの大名が参加し、高虎も加わります。一方で景勝と通じていた石田三成は家康が居なくなった畿内で家康討伐を宣言し、毛利輝元、長宗我部盛親、宇喜多秀家など西日本の大身大名が呼応します。これは家康も予想外の結集だったようで、家康は自軍に参加した秀吉子飼いの大名の動向が心配となります。そこで7月関東の下野で同行していた豊臣子飼いの大名に去就を決めるよう促します。ここでは福島正則や黒田長政を先頭に、東海道の秀吉子飼いの大名たちが家康と行動を共にすることを誓います。もちろん高虎は最初から家康と行動を共にする決心でした。その後秀吉子飼いの大名軍は引き返しますが、家康は行動を共にせず、江戸城に留まります。家康としては、秀吉子飼いの大名たちを完全には信用できなかったようです。そこで高虎が秀吉子飼いの大名軍の様子を逐次家康に報告していたようです。それでも確信が持てない家康は、秀吉子飼いの大名軍に敵を攻撃して見せるように迫ります。その結果秀吉子飼いの大名軍は岐阜城、大垣城を攻撃し、勝利します。これを聞いた家康は9月1日江戸を立ち、決戦の地関ヶ原に向かいます。関ヶ原の戦いでは、予め小早川秀秋や吉川広家らの武将が家康に寝返る約束をしていたことは有名ですが、現地で高虎は西軍に属していた同郷(近江)の脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠(すけただ)、赤座直保を懐柔し、寝返る約束を取り付けていました。この4人は三成の最も忠実な武将であった大谷吉継の近くに布陣しており、三成軍にとっては小早川軍の裏切り以上にダメージが大きかったようです。高虎隊は大谷隊に対峙しており、4人の裏切り後は一緒になって大谷隊を攻撃します。こうして9月15日の関ヶ原の戦いはあっけなく家康軍勝利に終わります。この後高虎は、大谷吉継の首の在処を秘匿し、捕縛された三成を丁重に扱うなど器の大きさを見せています。
関ヶ原の戦いの貢献により高虎は、伊予で12万石が加増され、合計20万3,000石となり、伊予半石を領有することとなりました。この後2万石で召し抱えたのが渡辺勘兵衛です。勘兵衛は高虎が近江浅井家で殺傷沙汰を起こし出奔して仕えた阿閉貞征に共に仕えていました。勘兵衛はその後幾人か領主を変え、直前は大和郡山城主増田長盛の家老を務めていましたが、関ヶ原の戦いの際長盛が日和見を決め込んだため、終戦後長盛が改易処分となり、高虎が大和郡山城接収に行った際に再会していました。勘兵衛は武術や兵法に優れており、留守がちな高虎の代わりが務まりました。
その後は元和偃武の時代となり、高虎が戦いで活躍することはなくなります。こんな中家康は高虎の築城経験に目を付け、次々と築城や城の改修を命じます。家康は関ヶ原後西日本に秀吉子飼いの大名を集めており、彼らが反乱を起こすことを警戒していたようです。先ず慶長6年(1601年)京の入り口に当たる近江膳所(ぜぜ)に築城を命じます。膳所城は琵琶湖に面して作られ、琵琶湖の水を引き込み濠を巡らせ、その濠に船を係留できるようにして、舟運や水軍の基地としても使えるようになっています。高虎が朝鮮の役で水軍を率いた経験や、順天倭城、宇和島城築城の経験が生かされています。その後高虎は、伏見城、江戸城、丹波篠山城、丹波亀山城、今治城、伊賀上野城、安濃津城の修築・新築を行います。数でも日本一の築城経験者であることは間違いありません。また高虎は城の建築思想も一変させています。それまでは寄棟型(屋根が四面ある)の屋根の中央部に階層を継ぎ足す望楼型という天守閣様式が主流でした。これには中央に心柱が必要なこと、破風を多用し使い勝手が悪い空間が多くなること、下の階層の出来上がりを待たないと次の階層の仕事ができないことなどの不都合がありました。そこで高虎は、各階層を同じ設計思想の箱を積み上げて行く(跳び箱の各段を積み上げるような)層塔型という天守閣様式を編み出します。これは各階層を違った大工が担当し、並行して準備することが可能であり、これにより期間も短くコストも安く中の使える空間も広くなり、かつ耐震性も高まることから、以後の築城の主流となりました。その他犬走りや高石垣、多門櫓、白壁などが高虎式築城の特徴と言われています。慶長11年(1606年)には江戸城修復を命じられます。高虎は江戸城修復への貢献で2万石加増され、都合22万石となります。この前年に高虎は、伊予にいた実子大介(5歳)とその生母(側室)を人質として江戸屋敷に住まわせます。これも高虎がやりだしたことであり、後世「ゴマすり」「あざとい」武将と言う評価に繋がっているようです。
高虎は築城と同時に城下町の設計も行っています。これは秀長時代に大和郡山城の修築の際、城下町を再編した経験が生きているものと思われます。高虎の領土である今治城や安濃津城では、見事な城下町が作られています。特に安濃津城の城下町の整備では、海岸近くを通っていた伊勢街道を城下町の真ん中を通るように付け替え、町が流通の中心地となるようにしています。高虎は都市の設計者としても優秀だったようです。
もう1つ見逃せないのが文化に対する造詣です。高虎は戦いと築城の名人という軍人の印象が強いですが、文化への造詣も深かったのです。それは高虎が長く使えた豊臣秀長が大和中納言と呼ばれるようになって以降大和郡山で利休などと盛んに茶会を催しており、高虎も参加していました。茶人には能や和歌などの文化に造詣が深い人が多く、高虎も影響を受けて行ったようです。その中の代表的人物が小堀正一、後の小堀遠州です。遠州の父は秀長家臣であり、遠州も秀長に仕えていました。その関係で遠州は少年時代には利休に師事し、青年時代には古田織部の弟子となり、一流の茶人となりました。また遠州は作庭・陶芸・立花・和歌更には城郭・寺社の建築でも才能を発揮しました。こんな遠州に高虎は親族の娘を養女として嫁がせ、一族に取り込んでいます。文化的交流は、高虎が出世するに連れて人脈作りや情報集に欠かせなくなっていたようです。
こうして家康の評価を高めて行った高虎が徳川幕府内で不動の地位を築いたのが慶長13年(1608年)8月です。この月高虎は家康から駿府に呼び出されます。高虎が駿府城に登城すると家康と共に将軍秀忠がおり、秀忠から伊賀上野15万石と阿濃津など5万石および伊予今治2万石の計22万石として、伊賀上野転封を命じられたのです。それまでが伊予半国20万3,000石ですから、加増としては2万石ですが、伊賀上野は1国であり国主になりますし、かつ伊賀上野は、近江彦根と並ぶ機内へ入る交通の要所です。この頃大坂城には豊臣秀頼がおり、西日本に豊臣恩顧の大名が多かったことから、東西の緊張関係が残っていました。そのため近江彦根と伊賀上野の守りは極めて重要でした。近江彦根には普代大名で家康の信頼が厚い井伊家を配していましたが、伊賀上野には豊臣恩顧の大名である筒井定次をそのまま残していました。それは伊賀が天正9年(1581年)の天正伊賀の乱で信長勢に大量虐殺された歴史を持ち、当時信長と同盟を結んでいた徳川にも反発があったためと考えられます。高虎は元豊臣方であり、伊賀者の反発はそれ程強くないし、高虎なら伊賀者を統治できると判断されたようです。事実高虎は、伊賀出身の家臣保田采女(うねめ)を窓口とし、伊賀者のうち有力者は士分に取り立て、それ以外も名字帯刀を許された無足人として庄屋や名主の上の位に付け、領内を見回る仕事を与えています。今回重要拠点である伊賀上野に高虎が配されたことは、高虎の地位が譜代大名並みになったことを表します。そして今治の領土はそのまま残したことは、瀬戸内海の監視の役割も高虎に担わせたことを意味します。高虎は豊臣家に対する最前線を任されたことになります。
この出世により高虎は、外様大名や譜代大名から嫉妬されることになります。特に譜代大名からは常にあらぬ噂を立てられ失脚に追い込まれかねない状態にあったと思われます。そのため高虎は、これまで以上に用心を重ねるようになります。高虎はいち早く江戸と駿府に屋敷を構えています。それも城の大手門に近い特等地になります。また京や伏見・大阪にも屋敷を持ち、なるべく長く家康や秀忠の近くに居るように努めています。これにより家康や秀忠と直接接し、譜代大名からあらぬ話が家康や秀忠に入らないようにしていたと思われます。また家康や幕府が言い出す前に(制度化される前に)人質を差し出し、あらぬ疑いが立たぬように先手を打っています。外様大名から譜代大名並みの地位に上り詰めた高虎は、その地位を守るために並々ならぬ努力をしています。
尚、徳川幕府において外様から譜代大名並みに出世した人物がもう1人います。それは大久保長安です。長安は旧武田家に仕えた武士で、武田時代は主に金山の管理をしていたようです。武田滅亡後三河に行き、徳川譜代大名の大久保忠隣の家臣となります。旧武田領甲斐の再興で頭角を現し、金山の管理ができる点を忠隣から家康に紹介したようです。その後家康は長安を佐渡や伊豆、生野など殆どの金山・銀山の奉行に任命します。長安が奉行に就任後金山・銀山の採掘量は右肩上がりに増加し、幕府の財政に貢献します。そのため長安は所務奉行(後の勘定奉行)および年寄(後の老中)にまで出世します。更に長安は家康6男松平忠輝の付け家老に任命され、伊達政宗の娘を忠輝の正室とすることに成功します。これは徳川家と伊達の関係を強めることとなり、家康の評価を更に高めたと思われます。また長安は街道整備を任されて、一里塚の制度も考案しています。このように長安は稀に見るテクノクラートであり、高虎と似ているところがあります。長安が付け家老を務めた忠輝は越後高田75万石の領主となりますが、悪い素行が目立ち始めます。それが大坂の役の際に露見します。忠輝軍が大坂に向かう途中の近江で秀忠家臣が追い抜いたことに腹を立てその家臣を切り殺した、大坂城攻めの際に遅参した、家康と朝廷に戦勝報告に行く予定をすっぽかしたなどが重なり、家康から勘当処分を受けます。これ以外に伊達政宗が忠輝を担ぎ将軍交代を狙っているとの噂もあったようです。この時期金山・銀山の産出量も減ってきていました。この頃家康9男尾張藩主徳川義直の居城として名古屋城が築城されていました。長安も作事奉行として参加しています。名古屋城では天守閣の金の鯱が有名ですが、あれに使われた金は長安が個人的に蓄えていたものを献上したと考えられます。長安は殆どの金山・銀山の管理を任されていましたが、幕府と長安の取り分は産出量の割合で決めていたようです(例えば幕府6:長安4。長安は4で採掘にかかる全経費を賄う)。そのため産出量が右肩上がりの時代には長安個人の取り分は膨大な金額となり、長安はこれの一部を金で蓄えていたと思われます。そのため名古屋城天守閣の鯱に使う金を献上することができました(1612年)。これにより家康を喜ばせ、危機を脱したと思われます。長安死後長安の不正蓄財が暴かれ、長安の子息らが処刑(1613年)されますが、自分と並ぶ外様で大出世を遂げた長安の末路を見て、高虎は更に気を引き締めたと思われます。
こんな中家康も70歳に近づき寿命も長くないと意識して来ており、豊臣家の臣従が最大の課題となってきます。そこで慶長14年(1609年)に家康9男頼宜と加藤清正2女八十姫の婚約を整えたことから、豊臣方の信頼もある清正の奮闘により、慶長16年(1611年)3月家康と豊臣秀頼の会見が京都二条城で実現します。この際高虎も家康に同行し、淀川を伏見に上陸した秀頼を迎えます。同年6月、二条城会見の実現に奮闘した清正が熊本に帰国する船中で発病し、死去します。これにより豊臣方に臣従を説得できる人物がいなくなり、家康は豊臣攻めに踏み出します。清正は嫡男忠広後継の承認を幕府から受けておらず、規則上は無嗣改易となります。そこで家康は肥後藩に高虎を派遣し、実情調査と体制整備を図ります。そして家老を複数置いた集団指導体制などを条件に、高虎が後見人となり忠広後継が承認されます。
その後家康は朝廷との関係を強固なものとするため、秀忠5女和子を即位予定だった政仁親王(後水尾天皇)に嫁がせることを企みます。この実現に動いたのが高虎でした。高虎の妻の親戚に近衛家があり、高虎は近衛家とも親しくしており、近衛家を通じて交渉したようです。当初後水尾天皇の父後陽成上皇が武家の娘が入内したことがない前例を盾に拒否したようですが、高虎の交渉が功を奏し、慶長19年(1614年)4月、入内の宣旨となります。その後高虎は、天海・崇殿・本多正信・板倉勝重が中心となった「禁中並公家諸法度」の制定(1615年)にも参加します。これは天皇や公家を幕府の統制下に置くものであり、制度上和子入内を補完するものでした。
この直後秀頼が再建していた方広寺の大仏が完成しますが、金地院崇殿が梵鐘に徳川家を呪う文字が刻まれていると指摘したことが切っ掛けとなって、大坂の役へと発展します。徳川方の言い分は、梵鐘に書かれた銘文「国家安康 君臣豊楽」は、家康の名前を分断し、豊臣家の繁栄を願うものでけしからんというものです。豊臣方はそのような意図はないと弁明しますが、徳川方は豊臣攻めの名分を探していただけであり、弁明が通るわけがありませんでした。家康が出した和睦の条件は「淀殿が人質として江戸に来る、秀頼が大坂城と出て他国に移る、秀頼が江戸に来て弁明する」のいずれかを行うことでしたが、これは豊臣家が徳川幕府に臣従することを意味します。徳川幕府と豊臣家の力の差を知る豊臣家の老臣たち(片桐且元、織田有楽斎など)は臣従已む無しの立場でしたが、秀頼に近侍する大野治房、木村重成、渡辺内蔵助などの若手家臣団が徹底抗戦を主張します。これで大阪の役が始まります。
大坂夏の陣で藤堂隊は先陣を命じられ摂津住吉に着陣します。霧が深いある朝、藤堂隊の近くを正体不明の小部隊(約300人)が通り過ぎます。これに気付いた藤堂軍の兵士が攻撃しようとしたところ、先鋒を言い渡されていた家老の渡辺勘兵衛が止めます。敵か味方か分からない中での攻撃は軽挙妄動だと言うわけです。後になってこのときの部隊は豊臣方に加勢する土豪勢だったことが分かりました。これを知った高虎は、勘兵衛の緊張感不足によるミスと判断し、勘兵衛を先鋒から外します。ここを見ても関ヶ原の戦い以降戦場に出てない藤堂軍は戦いの感が鈍っていることが分かります。その後木村重成・長宗我部盛親軍と激戦を繰り広げますが、勘兵衛に代わって先鋒を務めた藤堂良勝、藤堂良重、藤堂仁右衛門、藤堂氏勝などの重臣が死亡し、藤堂隊の戦死者は300人以上に達しました。この戦いの中で先鋒を外された渡辺勘兵衛隊は、崩れた長宗我部隊を追撃し300人以上を殺害しますが、撤収の指示に反して追撃でした。高虎としては、追撃による手柄は一緒にいた徳川譜代隊にあげようと考えていたようです。この勘兵衛の行動に対して300人以上の戦死者が出たこともあって、藤堂隊の中では勘兵衛を非難する声が高まります。その結果高虎は、勘兵衛を奉公構(他藩に雇わないよう要請する)付きの追放処分とします。その後勘兵衛の実力を評価する者が間に入り奉公構の解除の話合がなされたようですが、高虎(その後継高次も)は同意せず、結局勘兵衛はどこにも仕官できませんでした。高虎は家臣の出戻りを歓迎しており、勘兵衛への処置は異例の厳しさです。大坂夏の陣での多数の家臣の戦死は、高虎にとって生涯唯一の敗北と言ってよいものであり、優秀ではあっても藤堂家の軍法を身に着けていない勘兵衛を藤堂家の要職に就けた後悔が大きかったものと思われます。寛永5年(1628年)、高虎は大坂の役で戦死した人たちを弔うため、京都南禅寺に山門を寄進しています。大坂の役後高虎には5万石が加増され、都合27万石となります。
元和2年(1616年)4月家康臨終に際して高虎は、駿府城に詰め最後を看取ったと言われています。病床で家康が「高虎とは宗派が違う(家康は天台宗、高虎は日蓮宗)からあの世では会えないな」というと高虎は隣室に控えていた天海に頼み、天台宗に改宗したと言われています。高虎は家康が命じていた日光山の堂宇の縄張りも行っています。翌元和3年(1617年)、秀忠は高虎の長年の忠誠に対する礼として5万石を加増します。これで32万石となり、藤堂家はこのまま江戸時代中続くこととなりました。
家康死後徳川幕府の一元的支配者となった将軍秀忠の最初の大仕事は、慶長19年(1614年)4月に入内の宣旨が下りていた和子の正式な入内でした。後陽成上皇の崩御もあり延び延びになっていましたが、元和4年(1618年)には女御御殿の造営が開始されました。こんな中、後水尾天皇が寵愛する女官(四辻与津子)に皇子を生ませていたことが分かります。これを聞いた秀忠(と言うより正室江)が激怒し、元和5年(1619年)、上洛の上、元和元年(1615年)に制定した禁中並公家諸法度に基づき4人の天皇側近と与津子の兄2人を配流や出仕停止の処分とし、和子の入内を取り消すと言い出します。これに驚いた後水尾天皇の側近は高虎を通じてとりなしを依頼しますが、後水尾天皇自身はこの処分に立腹し、退位を口にして抵抗します。これに対して高虎は、親戚筋である近衛家などを通じて天皇の懐柔を図ると共に「この調停が上手く行かなければ腹を切る」と脅し、硬軟織り交ぜて交渉します。この結果交渉がまとまり、元和6年(1620年)6月、和子の入内が実現します。このあと後水尾天皇は大赦で6人の処分を取り消していますので、高虎がまとめた交渉で合意されていたと思われます。禁中並公家諸法度と和子入内により、天皇と公家は完全に将軍監督下に置かれることとなりましたので、この両方ともに貢献した高虎がその後秀忠や家光に信頼されたのは当然のことでした。
高虎は寛永7年(1630年)に家康と同じ75歳の人生を閉じます。晩年高虎の体を見た家臣は、体中に無数にある傷(槍傷、鉄砲傷、刀傷)を見て涙が止まらなかったと言います。それ以上に驚いたのは、右の薬指と小指は途中で切れており、どの指にも爪がなく、左手の中指は一寸ほど短くなり、左足の指の爪はすべて無かったことでした。高虎は足軽から始めて戦場働きで大名まで上り詰めており、その苦闘の歴史が体に刻まれていました。これを知ると後世(明治以降)の評論家が高虎を7人も主を変えた変節の人とか、ゴマすり名人、日和見主義者などと揶揄することは間違っていると思われます。むしろ地雷原を無事に歩き通し、江戸時代を代表する大藩を作った努力を見習うべきだと思われます。
完