清正の風下に置かれ続けた名門細川家の憤懣
熊本藩細川家は、1632年の加藤家お取り潰し後初代細川忠利が豊前小倉藩から着任したことから始まり、廃藩置県の1871年まで約240年続いた名門大名家です。細川家は、室町時代の管領細川家の分家筋に当たり、実質的初代の細川藤孝(幽斎)は、室町幕府13代将軍足利義輝に仕えますが、義輝が三好三人衆に殺害されると、後継将軍擁立をめぐる抗争において足利義昭の擁立に奔走します。戦国大名の支援を得る過程で織田信長と出会い、家臣となります。信長は藤孝の公家や朝廷に通じる人脈を評価し重用します。同時に長子忠興も性格が信長に似ていたこともあり、信長に寵愛されます。しかし、1582年に明智光秀により本能寺の変が起き、信長が暗殺されます。光秀と藤孝は、足利義昭を将軍に擁立するために共に働き、共に信長の家臣になった盟友で、光秀の三女玉は藤孝の長子忠興の正室になっていました。後の細川ガラシャです。光秀は本能寺の変後、藤孝に対し、天下を平定後はその地位を忠興に譲ると言い、味方することを要請しますが、藤孝は剃髪、隠居し、去就を後継忠興に委ねました。忠興は自分を寵愛し、自分もまた尊敬していた信長を打った光秀が許せず、秀吉に味方します。秀吉は、京の公家や朝廷に人脈を有する細川は何としても味方に引き入れたい大名であったため、忠興を歓迎します。
秀吉の天下になってからも忠興は、福島正則や加藤清正などの秀吉子飼いの大名と同様に重用され、朝鮮へも出兵します。秀吉死後家康と石田三成の対立が酷くなると、豊臣秀次事件の際に助けてくれた家康に味方します。忠興は家康の上杉景勝討伐軍に加わりますが、進軍途上で三成が西軍を組織し家康討伐の兵を上げます。そして家康軍に参加した大名の正室および子供を人質とすることとし、先ずは細川忠興の正室細川ガラシャをターゲットとします。ガラシャは忠興が家康軍に参加し出陣する際、「何かあったら忠興室として恥ずかしくない行動をせよ」と命じられていたことから、人質になることを拒否し命を落とします。一方藤孝は居城丹後田辺城で約500人の守備兵で約15,000人の西軍を相手に籠城戦を行います。藤孝は奮戦しますが多勢に無勢で敗北濃厚となりますが、藤孝が勅撰和歌集である古今和歌集の正当な解釈を知る唯一の人物であったため、当時の後陽成天皇が勅使を派遣し、西軍には藤孝を殺さないよう、藤孝には田辺城を開城するよう命じ、藤孝は生き延びます。このように藤孝はその生死に天皇が出てくるほど重要な人物でした。
その後関ヶ原の戦いには忠興が参戦し、家康軍の勝利に貢献しました。その結果、忠興には豊前約40万石が与えられます。豊前は九州の入り口にあり、九州に配置された豊臣子飼いの大名と海向いの西軍大将だった毛利を監視する役割があり、家康の信頼が厚かったことが伺われます。
忠興は小倉城を築城し中津から小倉へ居城を移し、1620年に三男の忠利に譲位します。そして、1632年に肥後国熊本藩の藩主だった加藤家が幕府によりお取り潰しになったことから、忠利が熊本藩主となることとなります。忠利は、加藤清正の位牌を先頭に熊本入りし、熊本城入城に際し「清正公、お預かりいたします」と述べ、熊本藩を立藩した清正に敬意を示したと言います。
それでも細川家が熊本藩主の地位を確立するためには、清正の影響を消し去らねばならず、細川家は清正の菩提寺本妙寺に対する保護を弱めるなど清正色の払拭を図ったようです。それとともに時代の経過により、領民の中の清正の記憶も薄れ、細川家が熊本藩主の地位を確立したと思われる頃、清正が突然蘇ったのです。その原因は、1714年、第8代将軍に紀州藩主徳川吉宗が就任したことです。吉宗の祖父は初代紀州藩主徳川頼宜で、頼宜の正室が清正二女八十姫だったのです。しかし、吉宗の父は頼宜の側室の子であり、吉宗と八十姫とは血のつながりはありませんし、吉宗は八十姫と会ったことさえありません。むしろ加藤家がお取り潰しになったことから、八十姫や清正が話題になることもなかったと思われます。ところが吉宗は、将軍就任後熊本藩に清正の資料の閲読や遺品の閲覧を要請したのです。ではなぜ吉宗は突然外曾祖父にあたる清正に興味を持ったのでしょうか?それは、当時幕府老中として阿部正喬(まさたか)という清正長女あま姫の血筋に通じる譜代大名(忍藩主)がいたからです。吉宗は正喬と話し、自分と正喬が清正で繋がっていることを知り、外曾祖父清正に関心を持ったと思われます。ここから、御家お取り潰しになりすっかり歴史から消されていた清正が蘇ります。吉宗血筋はその後第14代将軍まで続きますので、その間清正は将軍家姻戚として名誉ある地位を保持することになります。そして、吉宗の孫にあたる松平定信が老中に就任し、武士に儒教教育を推進するにあたり、忠義の武士のモデルに清正を祭り上げます。その結果、清正は忠義の武士として確固たる地位を獲得するに至ったのです。
一方これにより、熊本藩主の地位を確立しようとしていた細川家は、清正オーナーから熊本藩を預かっている存在になってしまったと思われます。むろん幕府内では細川家に対する信頼は厚く、準譜代扱いだったのですが、熊本藩では清正が作った熊本城の存在もあって、民衆の心の藩主は清正で、細川家はその代理的な雰囲気があったのではないか、と思われます。その証拠に熊本には、清正の遺物はたくさんあっても、細川家の遺物は意外に少ないのです。
名門細川家は、この状態に内心不満を持っていたと思われます。特に幕末の藩主たちです。私がそう考えるに至ったのは、次の2つのことに依ります。
1つは、細川家に残る資料を収蔵する財団法人として細川家が中心となって設立し運営する永青文庫がありますが、これの名前の由来は、代々細川家が帰依し庇護していたという京都建仁寺塔頭永源院の永と細川家初代藤孝の居城青龍寺城の青から来ていることです。ここから細川家の心は、約240年藩主を務めた熊本よりも元々の出身地である京都にあったのでは、と考えらます。これは、熊本にいい思いがないことの裏返しと思われます。
2つ目が、最後の熊本藩主であった細川護久が大政奉還後の1870年に新政府に対し、熊本城の破却を要請していることです。細川護久はかなり急進的な改革派だったようですが、熊本の藩主を長く務める細川家で育った人なら熊本城の存在が熊本のアイデンティティに与える影響の大きさは分かるはずです。それを新しい時代の妨げになるから新政府の決定として破却して欲しい、という心理の背景には、熊本城があったおかげで細川家は清正の風下に置かれ続けたという憤懣があったのでは、と考えるのは穿ち過ぎでしょうか?
このように細川家は、自他ともに認める名門大名でありながら、将軍家姻戚として蘇った清正の風下に立たされ続けたという不満が鬱積していたように思います。それが熊本藩はあくまで幕府から経営を委託されているに過ぎず、細川家はそのために京都から一時的に下向しているに過ぎないという論理に置き換わり、最後まで熊本に土着化することはなかったように思われます。
実は、第2代熊本藩主細川光尚は、1649年に亡くなる際、息子綱利が7歳と幼かったことから、迷惑をかけかねないと幕府に熊本藩の経営権の返還を申し出ています。細川家は文化的な素養が高く、領土と領民は預かりものという思想が脈々と流れていたのかも知れません。