報道に中立はありえない

女子体操選手にコーチが暴力をふるっていたとして追放になり、それに対して当該暴力を受けた女子選手が女子強化本部長にパワハラを受けたと告発した事件がワイドショーやマスコミを賑わしています。

女子選手の記者会見後、女子強化本部長が当該女子選手との面談を録音したテープがあることを公表、当該暴力をふるったコーチの記者会見、当該コーチの暴力シーンの映像公開、女子強化本部長のテレビでの反論など、テレビのワイドショーにとっては、時間を埋めてくれる有難い事件になっています。

私が注目したのは、女子強化本部長糾弾派と擁護派の対立です。女子強化本部長糾弾派は、元オリンピック出場の男子選手がテレビのワイドショーにコメンテーターとして出場し、いかに女子強化本部長が権力を持ち、圧政を敷いてきたかを話し、だからパワハラがあったに違いと主張しています。彼らは、女子強化本部長の管理下にいたことはなく、パワハラを受けたわけでもなく、目撃したこともその場に居合わせたわけでもないので、主張の根拠は薄弱のような感じがします。

これに対し、女子強化本部長側は、声明を発表し、これらのコメンテーターの言動を根拠のない悪意に満ちたものと非難しています。

一方女子強化本部長側は、某テレビ局のスポーツ取材歴が長い女性記者が一貫して女子強化本部長を擁護する論陣を張っています。これも女子強化本部長と長い間蜜月の関係にあったことが伺え、客観性に欠ける感じがします。

これはあたかも裁判所の訴訟の光景です。裁判では、当事者はひたすら自己の正当性を主張します。それに加え、弁護人は相手が如何に悪い人間であるかを伺わせる事実をあげつらい、裁判官の心象を自己有利に引き付けようとします。この際には自己側に不利になる事実には一切触れません。

この様に裁判では、当事者は相手の非を主張すればよく、自己側に不利な事実には一切触れる必要がありません。この構図がコーチ暴力事件&女子強化本部長パワハラ事件でも展開されています。パワハラ主張派は、女子強化本部長が長い間この地位にあり、周囲の人は意見を言えない状況になっていたとして、視聴者にパワハラがあったという印象を持たせようとしていますし、女子強化本部長擁護の女性記者は、長い間一貫して取材してきた経緯から、女子強化本部長は良い人であり、パワハラなんかありっこない、あったのはコーチの暴力だけだ、と主張しています。

この両者の主張は、ともに客観性を欠きますが、それでよいと思います。女性記者は、女子強化本部長との付き合いが長いだけに、この女子強化本部長に惚れ込んでおり、客観性が欠落しています。自分が見ていない場面で、パワハラ行為はなかったとは言い切れないはずです。なのに、パワハラはなかったと言い切り、選手を「思い込みが強すぎる」と言っています。思い込みが強すぎるのは、この記者も同じだと思います。自分は神様ではないので、取材対象の全てを知っているわけではないという謙虚な姿勢が欠落しています。「テレビを見て、塚原バッシングをうのみにしていた方も、そろそろ目を覚ましませんか」と、呼びかけたという報道ですが、これは記者の態度を超えています。自分は女子強化本部長の味方として自分の主張をすればよいのであり、視聴者まで攻撃してはいけないのです。

この問題は、それぞれの擁護派がそれぞれの立場でひたすら擁護論を述べればよいと思います。そうすれば利害関係のない視聴者は、本当のところを知ることができます。人がやる報道に中立はありえません