加藤清正、故郷に錦を飾った名古屋城普請

現在山岡荘八「徳川家康」全26巻を読み進んでおり、22巻まで読み終わりました。私は、昨年1年間、加藤清正(以下清正)について調べて、今年の2月にその結果を「昭君之間のミステリー」という題でネットに掲載しました。こういうこともあって、「徳川家康」の中で清正についてどのように書かれているか興味を持って読んできました。「徳川家康」の中では、清正はあまり出てきません。徳川家康物語ですから、登場人物は徳川四天王など徳川家譜代大名が圧倒的に多くなります。豊臣恩顧の大名で最もページを割かれているのは、石田三成です。加藤清正は、これまで七将襲撃事件の際少し登場するくらいで殆ど登場しませんでした。そして22巻になってやっと90ページほどに渡り清正を登場させています。

その内容は、名古屋城普請の際清正が行った石遣りというイベントと天守閣に金の鯱を上げる話と二条城会見の話です。二条城会見で清正が果たした役割の大きさは知っていましたが、名古屋城普請での清正の働きぶりは新しい発見でした。

家康(幕府)は、九男義直が藩主となった尾張藩の名古屋城の築城を、主として西側の大名に命じ、1610年2月から普請が始まりました。その中で中心となったのが肥前名護屋城や朝鮮の西生浦城、蔚山城、そして熊本城など築城経験豊富な清正でした。この本の中では、1610年のある日、駿府の家康の元を清正が訪れ、家康と話す場面が書かれています。清正は、「大阪でキリシタンの宣教師ポルロと会ったが、ポルロは「現今世界で一番進歩した国は日本だ」と言っていた。ならばこれは祝わずにいてよいことでないので、清正は、名古屋城の石垣用の石遣りを前代未聞の派手にやりたい、ついては了承願いたい。」と言います。「京から遊女を数百人呼び寄せ、これに当今流行りの女歌舞伎の者どもを加え、揃いの衣装をまとわせ、清正自ら音頭を取って石を引かせる」と言うのです。家康は天下に知れた倹約家ですから、先ずは了承をとっておくのが得策と考えたようです。これに対して家康は「総じて無駄な費えは家康の好むところではないが、肥後殿が、まさか無意味な浪費をして、わざわざ領民を苦しめるような愚かなことは致すまい。」と言い、賛成します。それを聞いて清正は更に家康に、「大御所さまにも目をつぶって清水の舞台から飛んでいただかねば」と言い、「ご祝儀として金銀を山ほど出して欲しい」と言い出します。清正は「大御所が世界一の国の棟上げをなされた祝いじゃ。その心祝いに後世のために築きおく名古屋城となれば、それにふさわしい立派な熨斗(のし)」が必要と言い、天守閣の屋根に金の鯱を上げることを提案します。これに対して、名古屋城築城における清正の熱心な仕事ぶりを普請奉行や義直の傅役の平岩親吉から聞いていた家康は、「ほかならぬ肥後殿の無心・・いや祝儀の懇望じゃ。今までの誼しみからも否みはなるまい。よろしい。清水の舞台から思い切って飛び申そう。」と言い、承諾します。

金の鯱の件は、清正の担当は名古屋城の天守閣の天守台の普請で、天守閣の作事(建築)は担当していませんので、真偽は怪しい話ではあります。しかし、金の鯱はド派手な尾張人の自己主張とも言え、尾張人でなければ浮かばない発想です。清正は尾張出身だったことや熊本城、江戸屋敷と豪壮好みだったこと、同じ尾張出身の織田信長の安土城や豊臣秀吉の大阪城や伏見城、聚楽第など派手な城を見てきていること、この話を家康に言い出せる人が他に誰かいるかと考えれば、清正の提案と言うのはありうる話です。

この話の続きとして、家康は「さて、おぬしだけ、いい気にはさせておかぬぞ。わしにも一つ無心がある。」と言い出し、家康の十男頼宜の妻に清正次女八十姫を所望します。

今では、頼宜と八十姫の婚約は前年(1609年10月)とされていますので、この本の執筆当時はそういうことになっていたのでしょう。清正次女の名前については、長い間かな姫と言われていて、八十姫と確定されたのは2007年に出版された「加藤清正妻子の研究」(水野勝之・福田正秀共著)によってなのですが、山岡荘八は1950~1960年代に正しく把握していたことになり、驚きです。

清正が名古屋城築城に熱心に取り組んだのは事実のようです。清正は、担当していた天守台の普請ばかりでなく、旧那古野城周辺の丘陵の予土で、名古屋城周辺の谷間や低地を埋め、城下町用の土地造成まで行ったと言います。また清正率いる肥後衆は行儀がよく統率がとれていたことから、名古屋の住民の評判も良かったと言います。これらにより、清正は名古屋の人々に愛されました。現在でも名古屋では、名古屋城は清正が作ったと思っている人もいるようですし、派手な石遣りの話は、今でも語り継がれる有名な話です。また、名古屋城内には石遣りの音頭を取る清正像があると言います。

ではなぜ清正は、名古屋城普請にこれほど熱心だったのでしょうか?1つには、前年次女八十姫と家康十男頼宜の婚約が決まっていたことで、将軍家親戚として張り切ったということがあると思います。そして2つ目は、清正にとって名古屋城普請は、故郷に錦を飾る思いがあったのではないでしょうか?清正は尾張国愛知郡中村(今の名古屋市中村区)の生まれと言われており、名古屋は忘れることができない故郷だったのです。自分の城ではないにしろ、故郷に娘婿の兄の城を将軍家親戚として築城することは、秀吉死去を知った明・朝鮮の日本侵攻に備えて決死の覚悟で築城した熊本城とは全く違った状況であり、ひたすら晴れがましい感慨であったように思われます。

 

加藤清正に関する調査報告はこちらからhttp://www.yata-calas.sakura.ne.jp/