徳川家康、鯛の天ぷら殺人事件
元和2年(1616年)4月17日、徳川家康は75歳の生涯を閉じます。徳川家康がタカ狩りに行っていた駿河田中の番城で嘔吐を催し倒れたのは元和2年1月22日の午前2時頃です。その前日21日の晩、久しぶりに長崎から御機嫌伺いに訪ねてきた京の御用商人茶屋四郎次郎が揚げたオリーブ油を使った鯛の天ぷらに当たったためと言われています。食事の場には家康の世話をする側室茶阿の局や将軍秀忠の剣術指南役柳生宗矩、駿府の大番頭松平勝隆らが居て、同じものを食べて何の症状もなかったことから、家康だけが当たった原因は、前年の5月7日に終わった大坂の役、その後駿府に帰り、それから江戸に出て約2か月に及ぶ鷹狩りを行ったことなどにより、疲労が蓄積していたためと言われています。確かにこの間の行動は、74歳の家康にとっては激務でした。特に元和元年9月29日に駿府を発って江戸へ行き、同年12月15日に駿府に戻った行動では、鷹狩りと称して足利、戸田、川越、忍、岩槻、越谷、東金、船橋、葛西などを回りました。これは、仙台藩主伊達政宗が幕府に叛心があるという噂があり、政宗を牽制するためだったと言われています。その前家康は、政宗の娘五郎八(いろは)姫を正室にしていた家康の四男である越後高田藩主松平忠輝を勘当しています。これは、政宗が娘婿忠輝を擁いて天下を取る野望を持っているという噂があり、忠輝が第二の秀頼になることを防ぐための処置だった言われています。政宗は、イスパニアやポルトガルの宣教師に領内でキリスト教の布教を許し、支倉常長を団長とする使節団をヨーロッパに派遣するなどキリスト教旧教派との結び付きを強めていました。大阪の役の際には、大坂城内に多くの旧教派のキリスト教徒が籠城し、正宗と親しい宣教師のポルロやトルレスも入り、城内では政宗が派遣した使節団の要請に答えイスパニアの軍艦が大坂湾に来るとの噂がありました。また五郎八姫は、熱心なキリスト教信者で、忠輝にも入信を勧めていたと言います。このように、政宗はキリスト教(旧教)信者とイスパニア・ポルトガルを味方に引き入れ、忠輝将軍の実現を目指していると思われていたのです。
一方忠輝は、家康に大坂城が欲しいと言うなどかなり剛毅な性格でした。そして、付家老の大久保長安や舅伊達政宗の影響を受け、海外貿易の拡大や海外雄飛を志向していたと言います。そのために、大坂城にあって貿易・外交を統括したいと考えていたとされています。忠輝の勘当の理由は、大坂の役および終了後の次の3つの行為とされています。1つは、大坂夏の陣で越後から大坂に向かう際近江で将軍秀忠の小姓組長岡血鑓九郎の弟と家臣の2名が忠輝隊を追い抜いたとして無礼打ちにしたこと、2つ目は、大坂夏の陣で、大和口の大将でありながら戦いに遅参し、戦いに貢献しなかったこと、3つ目が大坂夏の陣の終了後家康が禁裏に参内するに際し忠輝を伴うこととし待っていたところ、忠輝は桂川に川遊びに出かけ同道しなかったこと、です。しかし、これは表向きの理由で、忠輝が勘当されたのは、政宗が忠輝を利用することを恐れた家康が、政宗を排除する代わりに忠輝を排除し、将来の紛争の元を断とうとしたものと考えられます。それを知った政宗は、突然江戸から仙台に帰り、戦の準備をしているとの噂が立ちました。家康の鷹狩りは、政宗が攻めてきたときに迎え撃つ現地調査と政宗に対する示威行動だったと言われています。これは75歳の家康に相当の無理を強いたと思われます。その年の12月16日駿府に帰り着くのですが、翌年の春には、現将軍秀忠の次の将軍からは長子相続とするものと定めたことにより次期将軍となる秀忠の長子家光を連れて上洛し、京で元服させ、天皇にお披露目することを計画していました。そのため、翌年元和2年1月21日には、体力づくりのため、駿河田中に鷹狩りに出かけます。そして当日の晩まで極めて元気だったと言います。
これがその日の夜中過ぎに嘔吐、下痢、高熱を発し倒れたのです。その晩初めて茶屋四郎次郎が長崎から持参したオリーブ油で揚げた鯛の天ぷらを食したことから、これに当たったと言われていますが、真偽は分かりません。その後江戸から呼んだ片山宗哲らの医師は、胃にしこりがあると言い、ガンがあったようなことも伺わせます。もしガンなら、その後痩せ細り激痛に襲われるはずですが、そういう記述はありません。
結局、家康は、1月22日に発病し4月17日に亡くなるまで、約3か月の間一進一退の状態を繰り返しています。この間、主治医である片山宗哲が勧める薬を服用するとともに、自分で調合した持薬の万病丹やぎえん丹も服用しました。これでは強すぎるので持薬は控えるよう宗哲がたびたび進言しますが、家康は聞き入れませんでした。こういうことが度々あって、宗哲を疎んじた家康は、宗哲を信濃高島に流します。
ここで注目すべきは、家康は薬草に詳しく、自ら薬草を調合し、持薬を服用していたことです。家康は1600年の関ヶ原の戦いで軽い脳梗塞になっており、毎日持薬を服用していたと言います。鯛の天ぷらを食した者の中で嘔吐や下痢、高熱の症状を発したのは家康一人で、その他の者はなんの症状も出ていません。ということは、オリーブ油の中に家康の持薬の成分と相互作用し、身体に悪い効果(効きすぎなど)を及ぼす物質が入っていたことが考えられます。例えば、血圧降下剤のCa拮抗剤とグレープジュースのような関係です。そうなるとこれは、茶屋四郎次郎による計画的な家康殺人事件だったのでは、という推測が出て来ます。茶屋四郎次郎が家康を殺害するために、家康が服用している持薬の成分と相互作用すると身体に悪い効果を及ぼす物質をオリーブ油に入れていたとすれば、家康が自室に帰り持薬を服用した後、発病します。こうなると当然このオリーブ油に何か入れられていたのではないかと茶屋四郎次郎が疑われるはずです。ところが家康発病後、茶屋四郎次郎がどうなったかについて書かれた史料はありません。山岡荘八「徳川家康」には、茶屋四郎次郎は、家康発病後駿府にある茶屋の支店で謹慎しており、家康が亡くなる2日前の4月15日になって、秀忠が家康の指示として京都へ帰るよう伝えた、とあります。こんな生易しいことではなかったと想像されます。囚われの上、オリーブ油の成分とともに徹底的に吟味されたでしょうし、茶屋四郎次郎は家康親衛隊の家臣から殺害される可能性もあり、秀忠や家康側近本多正純などが保護したと考えられます。その後茶屋四郎次郎は38歳で死去しており、家康を死に追いやった張本人として追い詰められたのではないでしょうか。
それでは、茶屋四郎次郎の家康殺害の動機は何でしょうか?
それは、2つ考えれます。1つは、家康が大坂の役で秀頼や淀殿を助けると言いながら助けなかったことです。茶屋四郎次郎は大坂城にも出入りしていたため、秀頼や淀殿の助命を望んでいたと思われます。2つ目は、茶屋四郎次郎は海外貿易振興を唱える家康四男忠輝が将軍になること、或いは大坂城の主になり貿易を担当することを望んでおり、忠輝復活のためには、家康には早く死んでもらう必要があったことです。このときの茶屋四郎次郎は三代目(二代目長男が早死にし、次男の当人が継ぐ)で、長崎で長崎奉行長谷川左兵衛の補佐として糸割符貿易の管理を代行するなど、家康に代わり海外貿易を実質分掌していたのですが、忠輝やその付家老大久保長安、忠輝の舅伊達政宗は、イスパニアやポルトガルと組み、大々的に海外貿易に乗り出すことを企図していました。そのため、この計画に賛同する大名や商人が署名した連判状を作成していました(謀叛のための連判状との噂もあります。)。茶屋四郎次郎は署名していなかったようですが、長崎で海外貿易に携わる茶屋四郎次郎には、忠輝らの計画は魅力的だったと思われます。しかし家康は、その計画の立案者大久保長安に対しては死後不正があったとして蓄財を没収した上、男子は切腹させ、正室の兄弟などの近しい大名も改易処分などにしています。これらにより政宗も幕府に睨まれていました。そこで、茶屋四郎次郎は、最後の手段として、巧妙なトリックで家康の薬殺を図ったのです。これが「徳川家康、鯛の天ぷら殺人事件」の粗筋です。山岡荘八「徳川家康」26巻を読み終わり、こんな妄想が生まれました。誰かこんなミステリー小説書かないでしょうか?山岡荘八が徳川家康についてこれだけみっちり書くと、残されたテーマはこれくらいになります。
*家康服用の持薬とオリーブ油が相互作用し、家康の体に悪い効果を及ぼすことは、茶屋四郎次郎も知らなかったことも当然考えられます。
*もう一人怪しい人がいます。それは忠輝の生母茶阿の局です。茶阿の局は、家康の身の回りの世話をしており、駿府田中での鷹狩りについて来ていました。正月21日の晩の天ぷらを食した後、家康は自室に引き上げ、茶阿の局が渡す持薬を飲んだと思われます。茶阿の局は、自分の子(忠輝)だけが何故こんな酷い扱い(勘当)を受けるのか思い悩んでいたと思われます。そこで家康がいなくなれば将軍秀忠が忠輝の処分を軽くしてくれると考え、持薬の服用量を多くし、家康暗殺を謀ったことが考えられます。