加藤家改易は徳川頼宜を抑え込むため

(1)加藤家改易の表向きの理由

1632年6月、加藤清正を始祖とする肥後藩加藤家は、徳川幕府により改易処分となります。加藤家改易問題は、肥後藩第2代藩主加藤忠廣の嫡男光正が知り合いの旗本をからかう目的で、日光東照宮参拝に出かける将軍家光を、同行する老中土井利勝が亡きものにしようと計画しており、当日それに加勢する旨の連判状を作成し、旗本2名に届けたという事件が発端です。連判状には、参加者の押印もなく、次に届ける者の指定もないなどおよそ連判状の体裁をなしていなかったことから、届けられた旗本から届け出を受けた老中松平信綱は、すぐさま出来の悪い悪戯と喝破します。しかし、内容が内容だけに内偵を続けます。届け出から約2年後、南町奉行所で肥後藩の下級武士から訴えがあったという古い調書が発見され、事件は解明に向け動き出します。その調書には、「肥後藩江戸屋敷で藩主加藤忠廣の嫡男光正から、これから江戸城に打ち入るから準備をして来いと言われたので、怖くなり逃げ出して届け出た」旨のことが書かれていました。届け出た下級武士が少し痴呆気味であり、また藩の問題の訴えは奉行所ではなく評定所の管轄であったことから、お蔵入りになっていたようです。しかし、これを見た松平信綱は、偽連判状事件との関連性を感じとり、連判状を届けた者の顔を知る旗本の家人に江戸の肥後藩邸を見張らせます。その結果、肥後藩邸から届けた者が出て来て、光正の仕業と露見します。

ここで幕府は、肥後に帰国していた藩主忠廣を江戸に呼び戻し、詮議しますが、忠廣は全く知らなかったものと判断します。しかし、忠廣は、本件とは関係がないところで「諸事不作法」であったとされ、加藤家は改易処分となります。この「諸事不作法」の内容は明らかにされていませんが、忠廣の次のような行動を指していると思われます。

  1. 大御所秀忠から可愛がられていた忠廣(正室は秀忠の妹の娘琴姫)は、秀忠に招かれることが多く、将軍家光との関係は希薄だった。
  2. その関係で忠廣は、家光よりも弟の忠長と仲が良かった。
  3. 忠廣は、側室を溺愛し、徳川血筋の正室琴姫を遠ざけていた。
  4. 秀忠が死去し、実質的な家光将軍体制になって直ぐ、忠廣は幕府に無断で妻子(側室とその子)を連れて熊本に帰国した。
  5. 忠廣の江戸での評判が悪かった。
  6. 熊本では1619年と1625年の2回、大きな地震に見舞われ、復興のため領民に重い年貢と夫役を課してきた。そのため領民の不満が高まっていた。

(2)「諸事不作法」の内容と考えられる行為と処分が不釣り合い

しかし、改易は死刑と同じであり、徳川幕府では、後継者が不在か、重要な法度違反があった場合にしか行われていません。家光将軍時代にも、外様大名28名が改易され、その領地251万石余が没収されていますが、このうち領主死亡・後継者なしによるもの(無嗣改易)が16名で大部分を占め、お家騒動によるもの4名、領主発狂によるもの3名、法度違反によるもの3名となっています。これを見れば、それほど強引な改易は行われていないことが分かります。加藤家のケースを上記の改易理由に照らし合わせてみると、実はどれにも当てはまらないのです。唯一近いとすれば上記4の法度違反ですが、当時参勤交代の制度は法度化されておらず、慣習で妻子は江戸在住となっていただけです。それもその妻子とは正室とその子とされ、側室とその子は含まれていませんでした。たしかに藩主が国元に帰る場合は、幕府に届け出るのが一般だったようですが、これを怠ったからといって改易処分は重過ぎます。即ち、諸事不作法の内容と考えられる行為の1つ1つは、どれをとっても改易処分に値するものはないのです。

ならば、加藤家が徳川御三家の1つ紀州藩主徳川頼宜の正室の実家であること、藩主忠廣の正室が前将軍秀忠の妹の娘(琴姫)であること、琴姫と忠廣の間に生まれた嫡男光正は松平姓まで許されていたことを考えると、忠廣は謹慎処分くらいに留めるというのが普通です。

(3)加藤家改易の狙いは頼宜抑え込み

それが改易処分に踏み込んだのには、処分にある政治的意図が働いたものと思われます。

それは、家光将軍の側近連中による頼宜抑え込みです。家光将軍には、年が近い3人の叔父が御三家として控えていました。前将軍秀忠の年の離れた弟たちです。秀忠も頼宜を駿府藩から紀州藩に転封にするなど弟たちが家光将軍を脅かさないよう手を打ってきました。秀忠生存中はこれで問題なかったのですが、秀忠亡き後を考えると、家光将軍の側近連中にとってこの3兄弟の存在は心配の種でした。このうち特に心配なのは頼宜でした。頼宜が家康から寵愛されていたことはよく知られていましたし、人物的にも剛毅な性格で、かつ本人も「将軍に何かあれば自分が」という野心を隠さなかったと言います。山岡荘八「徳川家光」では、3兄弟を次のように表現しています。義直(尾張藩主):「灰にくるんだ炭火/表面は静かながら、一掻きすれば中は真っ赤な火の塊」、頼宜:「灰の中も火ならば、表面も燃え立つ火」、頼房(水戸藩主):「いったん火が付いてはどう消しようもない頑固無類の堅炭の火」。家光将軍体制安定を使命とする側近連中にとって、3兄弟の影響力を削ぐことが重要な課題だったと思われます。特に頼宜の場合、紀州藩転封後、秀忠および家光将軍により改易され発生した諸藩の牢人を多数召し抱え、和歌山城を改修するなど武備を強化していました。特に捕鯨船1000漕余を有し、それらはいつでも巨大な海軍になることから、脅威でした。これは、大坂の役に出陣した経験のある頼宜には、牢人問題の重大さが分かっていたからでした。大坂の役は、関ヶ原の戦いで多くの西軍大名が改易され、大量の牢人が発生したために大規模化したものでした。秀忠将軍および家光将軍になっても多くの改易が行われ、その結果牢人は30万人から40万人に達していました。事実この懸念は、1637年に島原の乱という形で現れています。島原の乱は、キリスト教徒および農民の一揆と言われていますが、鎮圧に約4か月(大坂の役は冬約1カ月、夏約2週間)も要していることから、反乱軍の主体は幕府に不満を持つ牢人であったと思われます。一般には関ヶ原の戦いで西軍に参加し改易された小西の残党が主体と言われていますが、乱の5年前に改易された加藤家の肥後藩の牢人が主体であった可能性が高いと思われます。

しかしこれらの頼宜の動きは、家光将軍の側近連中にとっては、家光将軍体制への当て付けと映りました。頼宜が良からぬ動きをすれば、頼宜の正室は清正次女八十姫であることから、肥後藩は頼宜の味方をすると考えておく必要があります。さらに八十姫の母(清浄院)は家康の生母於大に連なる譜代大名で福山藩主に出世した水野勝成の妹であり、清正死後八十姫は水野勝成の養女として頼宜に嫁ぎ、水野一族の水野重央が頼宜の付家老を務めていることから、頼宜-加藤家-水野家が固い絆で繋がっていることも危惧されます。加藤家を改易すれば、この絆を断ち切ることができ、頼宜を(水野勝成も)抑え込むことが出来ます。これにより、御三家の影響力を削ぐことができるのです

当初松平信綱が「出来の悪い悪戯」と喝破した出来事が発端となって、個別に見れば重大な法度違反はない肥後藩藩主忠廣(加藤家)を改易という重い処分にしたのには、このような政治的背景があったと考えると納得が行きます。

尚、徳川頼宜については、後日詳しい内容を載せます。合わせて読めば理解して頂けると思います。

(こちらも参考にhttp://www.yata-calas.sakura.ne.jp/