熊本への提言 4.熊本城内に加藤清正資料館を
2017年の1年間加藤清正(以下清正)について調べ、その成果はウェブ(「昭君之間のミステリー」(http://yata-calas.sakura.ne.jp)にアップしました。そこで分かったことは、清正については、史料が少なく、研究書も殆どないことでした。まとまった史料としては、「清正記」と「続撰清正記」くらいだと思います。「清正記」と「続撰清正記)は17世紀中頃以降に書かれたものであり、史料というより軍記物に分類されています。清正は、彼が生きた戦国時代後期・徳川幕府初期を見ても、主役ではなく脇役でした。そのため、有力な歴史研究者のテーマになることはなく、豊臣秀吉や徳川家康の研究者がついでに触れているに過ぎなくなっています。それも、自分で史料に当たって書いたものではなく、俗論の引用が大部分です。
1632年に加藤家が改易になってから忘れ去られていた清正は、清正の次女八十姫が嫁いだ初代紀州藩主徳川頼宜の孫に当たる徳川吉宗が第8代将軍に就任した1716年以降、将軍家外曾祖父として蘇ります。そして、吉宗の孫老中松平定信により儒教精神を具現する忠義の武士に祭り上げられたため、江戸時代の軍記物で英雄として取り上げられ、人気者となりました。更には、明治維新以降の侵略戦争において、国民が天皇に忠義を尽くすよう導くために、清正が利用され、小学校の修身教科書にまで登場します。この結果、清正の過去の歴史は、英雄にふさわしい内容に書き換えられて行きました。従って、現在世の中で語られている清正像は、この書き換えられた清正像です。これに対して、清正の実像を知る貴重な手がかりを与えてくれたのは、2007年に刊行された水野勝之・福田正秀氏共著の「加藤清正「妻子」の研究」、2012年に刊行された続編の「続加藤清正「妻子」の研究」および2007年に刊行された北島万治氏著の「加藤清正朝鮮侵略の実像」です。これによって、初めて清正の実像に近づくことができるようになったと思われます。「加藤清正「妻子」の研究」「続加藤清正「妻子」の研究」は、清正の4人の妻と5人の子供の存在を史料に基づいて検証したものですが、これによって清正と家康、徳川幕府との関係が浮き彫りになってきます。清正は豊臣秀吉死後の翌年には、徳川家康の養女(家康の母の弟の娘)を正室にしていること、長女あま姫は徳川四天王の1人で当時舘林藩主だった榊原康政の嫡男康勝に、次女八十姫は家康の十男頼宜(のちの初代紀州藩主)に嫁がせていますから、現在世の中で言われているように、死ぬまで豊臣秀吉への忠誠を忘れなった忠義の武将ではなかったことが分かります。また、熊本城本丸御殿の昭君之間は、「豊臣秀頼が徳川幕府により大坂城を追われた際に、ここに匿い、西国の豊臣恩顧の大名を糾合して戦うために造られた」と言う話も、清正の忠義の武士像に合うように書き換えられたものです。昭君之間は、1610年に完成したと言われていますが、1609年に清正の次女八十姫と家康の十男頼宜の婚約が決まり、1610年秋、結納使三浦為春が熊本城を訪れており、結納に備えて造られたと考えるのが妥当です。従って、「昭君之間の昭君とは、将軍のことであり、豊臣秀頼のこと」という説も間違いで、清正は、娘婿徳川頼宜を将来の将軍に見立てていたものと思われます。
「加藤清正朝鮮の役の実像」では、命を懸けた戦いの中で見せる清正の律儀な人柄、その中で石田三成と小西行長を許せなかった訳、巨大で強固な熊本城を築城した訳が見えてきます。清正の朝鮮での戦いは、虎退治で想像されるほど華々しいものではありませんでした。蔚山城籠城戦で代表されるように、いつ戦死してもおかしくないほどの苦戦続きでした。朝鮮の役においては、日本軍は負け戦の連続ですが、その中でも島津義弘や立花宗茂は、少ない兵で大軍の明・朝鮮軍を撃破し、明・朝鮮軍を驚かせています。清正は、蔚山城での2回の籠城戦のように、守勢一方で、勝ち戦はなかったと言っても過言ではないと思います。清正は、26歳で肥後半国の国主になるまで、部隊を率いて前線で戦う役回りではなく、秀吉直轄地の管理や秀吉と前線部隊との連絡役などが主な任務でした。そのため、戦の経験が不足していたのです。従って、朝鮮の役での戦いを持って、清正を猛将と表現するのは間違いです。むしろ、経営や城作り、兵站を得意とする実務家型の武将だったと思われます。朝鮮の役は、秀吉死去で終わりとなり、清正らの日本軍は、明・朝鮮軍の総攻撃を受け、命辛辛に日本に逃げ帰るのですが、その後攻守逆転して明・朝鮮軍が日本に進行してくることが予想されました。そこで清正は、蔚山城籠城戦のノウハウを生かして、長期の籠城に耐えられる熊本城を築城したのです。いまでも熊本城は、薩摩の侵攻に備えて築城されたと説明されることが多いですが、築城当時、薩摩は秀吉に平定されて間もなく、巨大な熊本城を築かなければならないほどの脅威ではありませんでした。熊本城が薩摩への備えと言う説は、1877年の西南の役で熊本城が薩摩軍の侵攻を食い止めたことから、築城当初に遡って作り替えられたものです。
このように清正については、後世政治的に利用され、歴史や人物像も利用価値を損なわないよう書き換えられています。清正は、書き換えないありのままの方が私たちに身近で人生の参考になる存在となります。
熊本は、加藤家改易後約240年間細川家が藩主を務めていますが、藩主名で言えば、細川家で浮かぶものは少なく、清正の名前が浮かびます。細川家は、室町時代から続く名門で、熊本藩は4番目に支配を委ねられた藩です。細川家は、初代細川藤孝が古今和歌集の正式な口述伝授の資格を持つ唯一の人物であったことから、代々学術、芸術に優れており、歴史上の出来事を記録に留め、芸術・美術品などを収集し、保存してきました。それが今でも永青文庫で保存され、貴重な歴史遺産となっています。しかし、加藤清正に関しては、彼が生きた人生の大部分が戦いの日々であり、清正は細川家のような名門の生まれではなく、学術や芸術にも通じていなかったことから、記録が遺品が殆ど残されていません。
熊本には、清正が築いた熊本城があり、清正の本拠地です。しかし、清正を感じさせる場所は、他にいくつかあります。1つは京都本圀寺であり、清正が帰依していた日蓮宗の大寺院です。朝鮮出兵の際には、ここで勝利の祈願を行い、出兵したと言います。本圀寺入り口には、清正が寄進した開運門という朱塗りの門があり、寺内には清正神社の鳥居の先に清正の生前墓真正廟があります。その左手前には、清正の継室(家康養女)の清浄院とその娘八十姫の石造りの位牌が並んで入っている石廟があります。非常にコンパクトな配置であり、家族を感じさせます。また、東京の池上本門寺も清正を感じさせてくれる所です。私が東京に住んでいた際、友人と出かけて、清正関連の遺物が多くありびっくりしました。先ず、正面の大きな石段が清正寄進にかかるものです。そして、寺内には八十姫が寄進した梵鐘が残っています。墓地には八十姫が建てた清正を供養するための立派な宝篋印塔や自らの宝篋印塔、更に清正の側室正応院(加藤家第2代藩主忠広生母)が自ら生前に建てた宝篋印塔もあります。名古屋には、名古屋城に清正像があり、名古屋城は清正が築城したと思っている人もいるようです。また、名古屋には、秀吉清正記念館があり、清正を秀吉と並べで顕彰しています。ここには行ったことがないので、どれくらい清正に関する資料があるのか分かりませんが、熊本にない清正の名を冠した資料館が名古屋にあるのは釈然としません。
そこで提案です。熊本に、それも震災復興なった熊本城内に、清正に関する資料を集めた「加藤清正記念館(資料館・資料室)」を設けたらどうでしょうか。やはり清正の本拠地は熊本であり、その中でも熊本城です。ゆくゆくは、各地の資料館や個人が持つ清正関連の資料や遺物をここに集めて保存し、観光客の閲覧に供すればよいと思います。