薩摩は維新、鹿児島は後進?鹿児島の復活が待たれる

毎年3月中旬になると週刊誌で大学合格校ランキングが発表されます。これは、受験勉強における甲子園大会みたいなもので、毎年楽しく見ています。

私は熊本出身で今福岡市に住んでいますので、九大について見ると、私が学生の頃と比べて大きく変わっていることがあります。それは、鹿児島県の高校が衰退したことです。昔は九大の合格者数では、鹿児島県の高校が上位に多数入っていました。鹿児島市内勢では名門鶴丸高校を初めとして、甲南高校、鹿児島中央高校がベスト10に入り、更には新設の錦江湾高校も相当数の合格者を出していました。加えて、周辺の鹿屋高校、加治木高校、加世田高校、川内高校、伊集院高校なども目立っていました。合格者総数で言えば、九大の地元の福岡県がトップでしたが、鹿児島は3位に大差の2位でした。何故そんなに多かったかというと、他の県が長くて1日6時間授業のところ鹿児島県は7時間授業を実施し、更に朝課外も実施しており、授業時間で九州の他県を圧倒していたからでした。九州の他県では日教組が強く、受験のための授業を罪悪視する風潮が見られ、授業時間の短縮、朝課外の廃止が進んでいました。九大の入試は、授業内容に沿ったものが多いので、授業時間の多寡がそのまま合格者数になって出ていたのです。当時は流石に明治維新を担った県(国)だけのことはあって、子供の教育に力を入れているな、と思ったものでした。九州の各県と同様鹿児島県も農業県で貧乏県なので、ここから脱出するには教育しかないという考えの表れのように思えました。

そしてこの3月の合格者ランキングを見ると、鹿児島県の高校は上位に登場していません。かってはベストテンの上位だった鶴丸高校が17位、甲南高校26位と順位を落とし、その他の高校も昔の実績が嘘みたいになっています。

この原因は、九州の他県が東京や大阪の学区制廃止や私立中高一貫校の躍進に刺激を受け、受験に向けた授業を強化しているのに対し、鹿児島県は逆に昔の九州の他県の状態になっているためと思われます。

戦国時代から江戸時代まで薩摩は、九州最強を誇り、豊臣秀吉や徳川家康も警戒するような存在でした。江戸時代においては、徳川幕府が最も恐れた存在だったと言ってよいと思います。それは、当時の日本で海外の技術や情報の窓口であった長崎に近く、また琉球を通じて中国や中国に進出していたヨーロッパ列強と貿易を行うと共に、ヨーロッパ列強の進んだ技術を取り入れていたからでした。薩摩は当時の日本で学術が最も進んでいた地域だったと思われます。そのため、明治維新を主導できたし、新政府を担う多数の人材を輩出しました。これがその後中央集権化が進むにつれ、新しい技術や情報が東京に集中するようになると、地理的に遠方にある鹿児島県は、あらゆる面で過疎地となって行きました。その結果、東京などでの激しい競争から隔離された平和な地域になったと思われます。競争が無ければ、勉強する必要性も感じません。それが現在の鹿児島県だと思われます。

日本の歴史を知る人にとっては、薩摩は特別な存在であり、今のような衰退に身を任せているような状態は似合わないと思われます。九州においては、北の絶対的存在である福岡県に対し、鹿児島県が南から発展する形が理想的です。そのため鹿児島県の復活が待たれますが、それは教育県鹿児島の復活からだと思われます。