空海ってどんな人?-1.生い立ち

  1. 生い立ち

(1)幼少期

空海は幼名を真魚(まお)と言い、姓は佐伯直(さえきのあたい。直は称号。)となっています。父は名を田公(たぎみ)と言い、讃岐国の土着の土豪で、国司の下で郡を統治する郡司(ぐんじ)でした。母は朝廷に仕え代々学者を出している阿刀家の出で、兄の阿刀宿祢大足(あとうすくねおおたり。従五位下)は桓武天皇の第三皇子伊予親王の侍講を務めるほど優秀な儒学者でした。真魚は当時の習慣に従い母方の実家で育てられ、幼児期に英才教育を施されたと思われます。その後佐伯家で2人の兄が亡くなったため、跡継ぎとして育てられたようです。真魚は言語の発達が早く、5、6歳頃から漢文を学んでいたと言われています。地方官である父や都の学者の家系の出である母は、真魚が中央の官吏になることを望んだようです。というのも中央には佐伯姓の本家ともいうべき佐伯家があり、その佐伯家からは佐伯今毛人(いまえみし)という有能な官吏が出ていたからです。

(2)空海の進路に大きな影響を与えた佐伯今毛人

佐伯今毛人は、天平年間(729~789)に中央の大学を出て朝廷に仕えました。土木建築技術に精通しており、聖武天皇時代には紫香楽宮(しがらきのみや)造営、東大寺造営や東大寺大仏殿の建立を指揮しました。称徳天皇時代には西寺造営も指揮します。さらに桓武天皇時代には60歳を超えていましたが、長岡京造営を指揮しました。このように今毛人は中央官吏の中で土木建築の第一人者であったと思われ、空海が後に讃岐の満濃池を修築した際に、この人脈が大きな力を発揮したように思われます。

もう1つ今毛人で注目すべきは775年に遣唐大使に任命されていることです。結局今毛人が病気になり実現はしませんでしたが、空海が遣唐使を希望したしたことおよび悪い条件の中で空海が遣唐使の1人に選ばれたことは、今毛人の存在が大きな影響を与えているように思えます。

また、今毛人は、786年に大宰帥(だざいふのそち。九州における防衛・外交の責任者)を務めるなど、大宰府や筑紫での勤務歴もあり、空海が唐から帰国後約2年筑紫に滞在したとき、今毛人と交友のあった人たちから支援を受けたことが想像されます。

この当時官吏は中央の政争に巻き込まれ失脚することが多く、今毛人も1度巻き込まれ九州に左遷されています。これは佐伯一族で語り継がれ、空海が政治との距離を考える際に教訓としたようです。

(3)大学入学

788年、15歳の真魚は、中央の官吏になるため大学入学を目指し、平城京に上ります(このとき最澄は22歳で比叡山寺(後の延暦寺)を開いている)。そこでは、官吏である叔父の阿刀大足の家(長岡京)に寄宿し、大足から大学入学試験合格のための教育を受けます。真魚の大学入学は18歳からであり、大足から論語、孝経、史伝、漢籍などを3年間学びます。後に空海は唐の長安で漢語を自由に話し、漢詩や書で評判をとり、密教を持ち帰ることになりますが、それらの能力は、幼少の頃母方の阿刀家で教育を受け、継続的に漢籍を学び、15歳から18歳まで大足に個人授業のように学んだ3年間があったからです。

この結果真魚は18歳で大学(正式名は大学寮)に入学します。大学は本来五位以上の位階を持つ貴族の子弟の教育機関でした。真魚の父のような地方官吏の子弟の教育機関としては国ごとに地方の官吏を養成する国学という学校がありました。いずれも入学年齢は13歳以上、16歳以下となっていました。真魚は当初讃岐国の国学に入学し学んでいましたが、真魚の突出した能力を見て、周囲が国学ではもったいない、何とか大学に入学できないかとなったようです。そこで伊予親王の侍講を務める伯父の阿刀大足や前年に没したが官僚として評価が高かった佐伯今毛人に連なる人々の尽力により、慣例を破り大学に入学しました。入学時真魚は18歳であり、16歳までという年齢制限も破っています。ということは、真魚の支援者は、都で相当の影響力を持っていたことになります。

真魚は大学入学後、中央の官吏となる要員を養成する明経(みょうぎょう)科に入ります。明経科は、主として儒教の経典である四書五経などを学ぶ学科だったようです。学習内容はこれらの漢籍の暗唱と暗記が中心だったようです。大学入学準備のため阿刀大足から3年間漢籍をみっちり学んでいた真魚にとっては、物足りない内容だったようです。そこで真央は音韻科で音博士のもとで漢音の発音を、書博士のもとで書法を学んだようです。これが唐に行った際に役立ったようです。その他仏教や道教、医学に関する中国の書籍も学んだようです。

(4)興味は仏教へ

この頃大学は平城京にありましたが、平城京には佐伯今毛人の建てた氏寺佐伯院があり、真魚は佐伯院に起居し大学に通います。佐伯院から東大寺は1時間程、大安寺は30分程の距離にありました。東大寺は当時官寺の最高格で仏教研究の中心でしたし、大安寺は唐への留学僧や海外から来た僧など800人余りが住み、仏教交流の中心となっていました。明経科に進んだものの物足りなさを感じていた真魚は、仏教の経典に関心を持ち始めたようです。もともと真魚の母方からは法相宗の高僧玄昉(げんぼう)や善珠(ぜんじゅ)などが出ており、仏教界との繋がりもあったようです。ここから真魚は経典漁りを始めます。佐伯院の経典から始まり、大安寺、東大寺、法輪寺などの著名な大寺の経堂にある経典も読みたくなります。そのため佐伯院の関係者や伯父の阿刀大足などの紹介を得て、先ずは佐伯院から近い大安寺に出入りするようになったようです。大安寺は国内や国外の仏教文化交流の中心で中国僧や中国留学から帰った僧も居て異国の文化や言葉が溢れていたようです。ここで話されていた中国語で真魚の中国語能力は磨かれたのかも知れません。ここで聞くこと見ることは、真魚にとり初めてのことが多く、創造性を刺激されたものと思われます。真魚は理解力や習得力が早く、答えがない深遠なテーマを探していたように思います。ここで真魚はカオスに出会い、一生のテーマを見つけることとなります。