空海ってどんな人?-4.遣唐使として唐へ
(1)最澄は国費派遣
大日経を解読する中で壁に突き当たっていた空海が遣唐使派遣の話を聞いたのは802年頃とされています。藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)を団長とする今回の遣唐使の派遣(第16次)はその前年の801年に決まっていたようです。24、5年ぶりの派遣で803年3月の出航となっていました。その中には比叡山の最澄が含まれていました。最澄は還学生(げんがくしょう。国費で派遣される短期留学生。)としてであり、天台山で天台宗を学び、帰りの遣唐使船で帰国することになっていました。このとき最澄は36歳で、既に内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)という宮中で天皇の安寧を祈る高位な僧となっていました。
最澄は近江国比叡山山麓の出身でした。12歳で官許を得て近江国の官寺国分寺に入り出家しました。14歳の時に国分寺の僧枠に欠員が生じたため得度(見習い僧)し、法名を最澄とします。それから5年後の785年4月東大寺の戒壇で具足戒(250の戒律)を受けます(正式な僧)。しかしその3カ月後の7月国分寺を辞め比叡山に草庵を建て12年に渡り山林修行を行います。最澄は仏教を自身の栄達の手段とし衆生の救済を顧みない南都六宗に代わるものとして法華経を拠り所とする天台宗の教義を確立しようとしていました。最澄の主張は、南都六宗のうち華厳宗を除く5宗は釈迦の説法を記録した経典を拠り所としておらず、経典の解釈書である論書を拠り所としている、釈迦の説法を記録した法華経を拠り所とする天台宗だけが釈迦の教えを受け継ぐ唯一の仏教である、ということでした。これに理解を示し保護したのが山城の高尾山寺(現神護寺)を私寺としていた和気清麻呂でした。清麻呂は南都六宗に批判的でした。清麻呂は皇位に就こうとした道鏡の野望を阻止し、一時は道鏡により九州の大隅に左遷されましたが、その後復活し、当時の桓武天皇に重用されていました。当時桓武天皇が遷都した長岡京では忌々しい事態(藤原種次暗殺など)が発生し、平安京遷都が決定されました。それに合わせ桓武天皇は南都六宗に代わる新しい仏教を求めており、和気清麻呂が最澄を推薦したようです。平安京遷都の3年後桓武天皇の寵愛を受けた最澄は内供奉十禅師の1人に就任します。この年最澄は31歳でした(空海24歳。私度僧)。それから5年後の802年最澄は桓武天皇の勅命により高尾山寺で南都六宗の代表的な学問僧を呼び法華会を行っていますので、天台宗および最澄は南都六宗の上位にたったことになります。この後最澄は桓武天皇に入唐求法(にっとうぐほう。唐に行って仏教の経典を手に入れる)を上表したようです。日本仏教界の頂点に立ち、更に仏教経典の研究を充実させなければならいと思ったようです。これに対しては翌月には勅許が下りています。最澄は国の使節扱いであり、通訳が付き多額の官費が支給されました。
(2)空海もメンバーに潜り込む
一方当時の空海は私度僧であり、いわば不法僧でした。空海としては大日経の解読を進めた結果、唐に行って大日経の経典の解釈や修法を学ぶ必要性に迫られていましたが、1年後に迫った遣唐使船の出航までには時間がなくどうしようもありませんでした。
空海は節目節目で幸運に恵まれています。803年4月に難波津を出航した遣唐使船は、九州の近くで悪天候に合い引き返し、翌年7月に再出発することとなったのです。
これを知った空海を応援する人物たちが動きます。その筆頭は空海の才能を高く評価する大安寺の勤操だったと思われます。勤操は大安寺の有力僧であり官僧の管理を行う僧綱所(そうごうしょ)や高級官吏とも繋がりがありました。また伯父の阿刀大足も桓武天皇の第三皇子の侍講だったことから、朝廷に人脈がありました。更に佐伯氏に連なる佐伯今毛人は、桓武天皇の長岡京造営で重要な役割を果たしましたし、775年には遣唐大使に任命され入唐する予定になっていた(病気で中止)こともあり、その関係者として縁が強調されたものと思われます。縁と言えば古くには(716~735年)阿刀氏に連なる法相宗の僧玄昉も唐に留学していたこともありました。これらが功を奏して804年1月空海に留学生(るがくしょう)として入唐することを認める勅許が下りました。留学生は滞在期間20年で、留学費用は自分で準備する必要がありました。私度僧だった空海は急ぎ東大寺の戒壇で得度し(具足戒を授けられた僧。しかし官僧ではない。官僧は欠員がでないとなれない)、遣唐使船の出航まで留学費用の工面に奔走したようです。空海はこのときの留学費用も無事準備しましたし、その後資金が入用な場面では見事に獲得していますので、資金集めは上手かったものと思われます。
(3)空海は苦難の末に長安へ
そして空海らが乗った遣唐使船は、804年5月12日に難波津を出航しました。九州肥前国の田の浦津を7月6日に出発しているようなので、この日を以て遣唐使船の公式な出発日としているようです。この船団は4隻で空海は第1船に遣唐大使藤原葛野麻呂、後の三筆の1人となる橘逸勢(たちばなのはやなり)と一緒に乗り込みます。最澄は第2船に乗り込みます。その後船は東シナ海で暴風雨に合い、第3船と第4船は行方不明となります。第1船は34日漂流して8月10日現在の福建省寧徳市近辺に流れ着いたようです。第2船は50日余り漂流して9月1日現在の浙江省寧波市に流れ着きました。第1船が着いた町の役人では上陸の判断ができず、海路を250km離れた福州の大きな町に行くよう指示されます。中国に流れ着いてから2カ月が経っており、一同とても一国の使節とは思えない様相となっていました。そのため福州の町の役人に海賊と疑われ、上陸許可が出ません。そこで遣唐大使の藤原葛野麻呂が福州の観察使宛に嘆願書を出しますが、遣唐使を証明する国書なり印符なりを見せるよう要求されます。しかし、国書は持参しないのが遣唐使の慣例になっており、印符は第2船に乗っている判官菅原清公が持っていました。そこで困り果てた藤原葛野麻呂は、橘逸勢から漢詩や漢文が得意で能筆と聞いていた空海に嘆願書の代筆を依頼します。というのは、中国では能筆や文書を書く能力が尊ばれ、文書の内容や筆致によって相手がどの程度の人物か判断する習慣があったからです。空海は格調高く、見事な筆致の嘆願書を書き上げます。それを見た観察使は態度を一変し、上陸の許可を与えると共に長安に指示を求めます。すると長安からは国賓として扱い、速やかに長安に送るようにとの勅命が発せられます。
しかしここでまた難問が生じます。長安に行けるのは一行120名余のうち20数名というのです。そうなると上級官吏や官費留学生が優先されます。そしてその選択権はこの町の観察使にありました。案の定観察使から示された長安に行くことを許可する者のリストには空海の名前はありませんでした。そこで空海はまた観察使宛に長安に行かなければならない理由などを書いた嘆願書を書き上げます。これも見事な内容と筆致だったため、観察使は空海のことをただ者ではないと判断し、長安行きを許可します。空海一行は11月3日に福州を出発し、12月23日に長安に到着しました。
(4)最澄は順調に目的を果たす
一方最澄の方は、乗船していた遣唐使判官の菅原清公が印符を持っていたことからすんなりと長安行きが認められます。この一行は11月15日には長安に入ったようです。しかし最澄は長安には向かわず天台山に向かいます。天台山は流れ着いた浙江省の東部の山で、天台宗の中心地でした。そこで最澄は天台宗第7世道邃(どうすい)から天台法華経の教えを受けると共に日本には入っていなかった経典を書写し持ち帰る準備を進めたようです。また道邃から大乗菩薩戒を受けたことが後に比叡山寺に大乗戒壇を設けるきっかけとなります。天台山では禅林寺で南宋禅も相承(そうじょう。教えを受け継ぐこと)し、帰国後天台宗の1部門としました。最澄は空海らが長安に到着した頃には、天台山を降り海に近い龍興寺に移り、その後遣唐使船が出向する明州に向かったようです。しかし明州では遣唐使船の出港準備に時間がかかるとのことから、越州の官立寺院龍興寺に出向き、その寺の順曉(じゅんぎょう)という僧から1カ月程密教の教えを受けます。順曉は不空の弟子とされていますので、最澄が教えを受けた密教は金剛頂経を中心とした不完全なものだったようです。しかし、この後最澄が日本に帰国し、直ぐに桓武天皇に密教を報告し桓武天皇の支持を受けたことから、最澄は日本において密教の指導者の地位を占めます。なぜこんなに早く桓武天皇の支持を得たかというと、唐の玄宗皇帝が不空の密教の呪術性を気に入り、宮廷で修法を行わせて効果を上げているという情報が桓武天皇の耳に届いていたからでした。遅れること2年後空海は大日経と金剛頂経を共に学び帰国しますが、そのときには最澄の伝えた密教が日本で正当な密教の地位を確立しており、空海の密教が認められるには、4年以上の歳月を要しています。密教によって最澄と空海は接近し、そして離反します。
長安では、藤原葛野麻呂らの同伴者は翌年805年2月10日に長安を出発し帰国の途についています。藤原葛野麻呂や最澄を載せた帰りの遣唐使船は、明州の港を805年5月18日に出港し、805年6月5日には対馬に到着しています。
(5)長安での空海
藤原葛野麻呂一行を見送った空海は、長安の賑やかな一般街にある西明寺に止宿します。西明寺は奈良の大安寺にそっくりでした。そのはずです。大安寺は西明寺を真似て建てられた寺だったのです。西明寺ではサンスクリットで書かれた仏教経典の漢訳を行っていました。また密教情報の収集・調査の役割も果たし、日本から来た留学僧の殆どが止宿していました。空海の目的は密教、とりわけ大日経の教えを学ぶ(確認する)ことと具体的修法を学ぶことだったのですが、大日経にはサンスクリットで書かれた部分が多かったため、先ずはサンスクリットを学ぶことから始めたようです。空海は艶泉寺のインド僧般若三蔵からサンスクリットを学びます。2月末から5月末までの約3か月間をサンスクリットの習得に充てたようです。それと当時に密教に関する情報を収集します。それによると密教は大日経に基づく密教と金剛頂経に基づく密教という2つの思想があることが分かりました。大日経は東インド生まれの善無畏(ぜんむい)という僧が、金剛頂経は中インド生まれの金剛智(こんごうち)という僧が漢語に翻訳して唐に伝えたということです。いずれも日本にあった呪術性の強い古密教とは違い、しっかりと体系化されていました。金剛智の弟子である不空は自ら金剛頂経や理趣経などの密教経典を漢訳し、金剛智から金剛頂経に基づく密教を受け継ぎます。不空は唐における密教の隆盛を招いた人で、玄宗皇帝に寵愛され、金剛頂経は唐王朝の宮廷宗教の一画を占めます。不空の一番弟子である恵果は不空から金剛頂経に基づく密教を受け継ぎ、大日経に基づく密教を善無畏の弟子である元超から学びます。ここで恵果は2つの密教を知る唯一の人となったのです。そして恵果はこの2つの密教を統合して瑜伽(ゆが)密教という新しい密教を作り上げます。しかし唐では不空亡き後儒教や道教、天台宗などが勢いを持ち、瑜伽密教は勢いがありませんでした。恵果は学究肌で皇帝に取り入る能力は無かったようです。
空海は、大日経に基づく密教については大日経の写しを読んでいましたが、金剛頂経や理趣経については聞いたことさえありませんでした。
(6)空海、恵果から灌頂を受ける
こんな中で5月末頃空海は青龍寺に恵果を訪ねます。会うなり恵果は「我、先より汝来ることを知りて相俟つこと久し。今日相ま見ゆること大いに好し、大いに好し」と喜び、「私の寿命は長くありませんが、密教を託する人がいません。直ぐに弟子になる儀式を行いましょう」と弟子入りを許します。空海が長安に入ってからその文才や能筆なことなどが文化人の間で評判になっており、恵果にも伝わっていたものと思われます。またサンスクリットを学んだ般若三蔵からもその学習能力の高さが伝えられていたと思われます。また恵果は瑜伽密教を伝授した1番弟子を失くしており、次の後継者に足る人物を探していたものと思われます。そこに丁度空海が現れたのでしょう。空海と会った恵果の喜びようは大変なものだったようです。
空海が恵果から教えを受けたのは6月と7月の2カ月間だったようです。先ず6月上旬に胎蔵界の灌頂(教えを受ける前などに行う儀式)を受け、その後1カ月間大日経に説かれている修法や儀軌(儀式規則)、観法(真理を直観的に認識する修行)などを伝授されました。次は7月上旬に金剛界の灌頂を受け、その後1カ月間金剛頂経に説かれている修法や儀軌、観法などの伝授を受けました。そして空海は8月上旬に伝法灌頂を受けます。これは阿闍梨位(教える立場になる位)を受ける者に対して秘密の修法を授ける儀式です。これにより空海は恵果の弟子の中で最高位となり、恵果の後継者となります。これから約4か月後の12月15日に恵果は入滅したため、空海は密教の第8代の師位に就いたことになっています。しかし、これは正確でないと思われます。確かに金剛頂経は不空から恵果に引き継がれており、空海は正当な承継者と言えますが、大日経については、恵果は大日経の正当な承継者からその地位を引き継いだわけではなく、その弟子の1人から教えを受けただけです。その上で恵果は、金剛頂経と大日経を統合した瑜伽密教を作り上げています。それも経典は整備されておらず、考え方を口述で空海に伝えただけです。そのため空海は日本に帰ってからこの経典の整備に時間をかけています。瑜伽密教は恵果が提唱し、空海が確立した新しい密教と言えると思われます。
恵果は弟子が1000人もいながら、異国から来た空海に何故あっさりと密教の指導者の地位を譲り渡したのでしょうか。この点については、唐でも長老たちを中心に反対があったようです。恵果が不空から師位を引き継いだ後、密教は道教などに押され衰退する一方であり、今後中国で再び盛んになる可能性は少なかったように思われます。恵果はこの状況を寂しく思い、自分が考えた新しい密教(瑜伽密教)が異国の日本で隆盛することを期待したのではないでしょうか。