空海ってどんな人?-5.大日経・金剛頂経・理趣経
(1)大日経
ここで密教経典の3本柱である大日経、金剛頂経、理趣経について少し説明したいと思います。
大日経は、正式には「大毘盧遮那成仏神変加持経」(だいびるしゃなじょうぶつじんべんかじきょう)と言います。この経典は、大日如来(魔訶毘盧遮那仏)を根本最高の仏とし、大日如来が密語(真意をわざと隠して説いた言葉や教え)で説法する様子を描いたもので、胎蔵界を描いています。胎蔵界とは、大日如来を理性の面から見て言う言葉で、蓮華や母胎が種子や子を育てるように、大日如来の広大な慈悲が衆生の秘めている仏性を育てて仏とする理法の世界のことで、この世界を絵図にしたのが胎蔵界曼荼羅です。密教では教えの深奥を言葉で表すよりも図示して人々に感じさせる方法をとります。胎蔵界曼荼羅は大日如来を中心にしてその知恵と大悲(慈悲)によって生まれ出た諸仏・諸菩薩など総勢390尊が宇宙に満ちてゆく様子を描いています。その様子は悟りへと至る精神の道筋ということになります。そして大日如来はこの世界(宇宙)のありのままの姿(実相)を仏格化したもので、仏智(仏の欠けたとこの無い知恵)を得るとは、大日如来の智慧を獲得することで、それは即ち大日如来となること=成仏するということになります。
そして成仏する=大日如来になる具体的な方法が大日経に書かれています。それは、修行者(人間)の3つの行為(三業)と大日如来の3つの行為(三密)がシンクロ(相応)して融合することで不思議な力が現れ、その瞬間に仏となり(即身成仏)悟りの境地になれるとします。三業とは人間の身体の動作である身業(動作)、言葉表現である口業(言葉)、心の働きである意業(意志)のことで、これが仏の身密・口密・意密(三密)と1つになれば(三密加持)即身成仏できると説くのです。それは、人間はもともと仏性を持っているとされているからです。要するに人間の原点は戻れば良いだけだと考えるのです。その為に修行者は、身(手)に印契(いんげい)を結び(身密)、口に真言を唱え(口密)、心に大日如来を思い描く(意密)ことを行います。そしてこれらの具体的方法(修法。どのような印を結ぶか、どのような真言を唱えるかなど)は秘法となっており、密教の師から次の師に受け継がれていました。密教というと護摩を焚く場面が思い浮かびますが、それも修法の1つです。護摩とは火祭りを意味するサンスクリットの音訳で、護摩木を焚いて祈る儀式のことです。護摩木は人間の煩悩を表し、火は仏の智慧や真理を表し、煩悩を仏の智慧や真理で焼き払い消滅させます。その際に真言を唱えますが、真言は仏・菩薩の誓いや教えなど真実を語っている意味の深い呪文的な短い言葉のことでサンスクリットのまま唱えます。そのとき手には印契を結びますが、それは指を決められた形に折り曲げて、仏や菩薩の悟りや力を象徴的に表しています。このように密教は抽象的な言葉を具体的な形にして教え示そうとしているように思われます。
(2)金剛頂経
次に金剛頂経です。これは大日経とは違ったアプローチにより大日如来に至る教えです。金剛頂経とは、正式には「金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経(こんごうちょういっさいにょらいしんじつしょうだいじょうげんしょうだいきょうおうきょう)と言います。金剛とは金属の中で最も固い宝石のことで、大日如来の智慧の力のことです。その知恵が全ての煩悩を打ち砕くことから大日経の胎蔵界に対して金剛界と呼ばれます。金剛頂とは全ての経典の中で最高と言う意味です。この経典では大日如来が自ら悟りの内容を明かし、それを得るための方法、即ち仏になるための方法を5段階に分けて示しています。順番に、自分の心の奥底を見つめること、悟りを得たいと思うこと、菩提心を起こすこと、自分の心は仏と同じと思うこと、仏と自分は1つと思うこと、です。これは最終的には大日如来と一体化することを意味しています。金剛頂経に基づいて大日如来に至る道筋を描いた絵図が金剛界曼荼羅です。そこに描かれている諸尊の数は1458尊で胎蔵界曼荼羅の3.7倍以上です。これは金剛頂経が現実の煩悩から出発しているため、煩悩の種類が多くなり、そのためそれらを打ち砕き悟りに導く菩薩や仏の数が多くなったのではないかと考えられます。
ここで分かることは、金剛頂経の中では金剛頂経こそすべての経典の中で最高のものと言っており、大日経と相いれない関係にあるということです。また金剛頂経は煩悩にまみれた現実の世界を出発点にして、大日如来と一体となる方法を示しています。一方大日経は、そもそも人間は仏性を持って生まれていると考えますから、出発点は生まれたての人間です。即ち、出発点が真逆なのです。そして同じ大日如来に辿り着いています。帰納と演繹の関係に似ています。
金剛頂経は不空により唐の玄宗皇帝に認められ、宮廷宗教の一画を占めます。それでも中国で生まれ護国思想を説く道教が圧倒的地位にありました。そんな中で不空は個人的才覚で玄宗皇帝に取り入ったのです。不空は本来金剛頂経にはない護国の験力を説いて玄宗皇帝に取り入ります。そして玄宗皇帝時代に起きた反乱(安禄山の反乱)の際には、反乱軍を破るために壇上に登り金剛頂経の修法を行います。その後皇帝側が勝利したことから、不空は玄宗皇帝から寵愛されます。しかしこれは不空個人を寵愛したものであり、金剛頂経を寵愛したものではありませんでした。玄宗皇帝が帰依するのはあくまで道教でした。この為不空が亡くなると、その後継者である恵果には不空のような政治的才覚は無く、金剛頂経は宮廷宗教の一画の地位を失くして行きます。空海が恵果に会った頃は、金剛頂経の唐での衰退が明らかになっていた時期でした。
恵果は、本来別々の思想として生まれた大日経と金剛頂経の2つを統合し1つにしたと言われていますが、不空からは金剛頂経の師位を引き継いだようですが、大日経については 大日経の正統な承継者である善無畏の弟子の元超から教えを受けたと言うだけで正当な承継者ではないようです。従って、恵果が統合したしたのは、2つの正当な密教ではないと考えられます。そもそも別々に生まれ育った2つの教えを1つに統合することができるのか疑問が残りますし、2つの曼荼羅の存在などに統合の難しさが現れていると思われます。
密教では両部不二と言う言葉があり、胎蔵界と金剛頂界は別々に存在するが2つではない、1つだと説明され、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅を左右に並べて一対として飾られます。
(3)理趣経
密教の3つ目の経典は理趣経です。正式名は「般若波羅蜜多理趣百五十頌」(はんにゃはらみったりしゅひゃくごじゅうじゅ)です。意訳すると「真理に至る修行の道理を歌った詩」となるでしょうか。理趣経は、宇宙に存在する一切のものはもともと清浄であり、煩悩に悩まされている人間の心も本来は清浄であり、その営みも清浄である、ということを説いています。とりわけ男女の愛欲行為を清浄なものとして肯定し、17の教え(十七清浄句)として説いています。これでは男女の愛欲行為の様々な所作を示して清浄であり、悟りの境地であると唱っています。普通に読めば愛欲礼賛とも読めることから、一般には知られていません。公式な理趣経の説明としては、人間は小欲という個人の欲望を超えて大欲という大きな望みを持ち、真理を求めて生きることが大切であり、あらゆる人々の利益を願うのが人の務めであるということを説いている、とされているようです。しかし、実際の内容は愛欲礼賛になっています。密教が人間はもともと清浄であると考える限り、生殖のための行為は清浄の極みと位置付けざるをえません。これは密教の出発点であり、根本原理とも言えます。しかし、これが行き過ぎると邪淫教となることから(実際にこの教えを強調する一派が存在した)、密教と言えば大日経と金剛頂経とされ、理趣経は隠されてきました。また今後とも表立って取り上げられることはないと思われます。面白いのは、真言宗寺院や空海が一時別当を務めた東大寺では、朝の勤行で理趣経が読誦されていると言うことです。理趣経は短い詩句で構成されているので、読む際にリズムが良いからのようです。
鎌倉時代に親鸞は妻帯に踏み出しますが、これも理趣経の影響ではないかと考えられます。というのは、親鸞が学んだ比叡山の天台宗は、法華経を基本として密教もその一部としていました。そのため、親鸞は理趣経も学んだと考えられます。仏教を幅広く衆生に受け入れられるものとするためには、僧自身も妻帯可能とするのが当然の流れであり、それは理趣経の教えと合致しました。