空海ってどんな人?-6.帰国へ
空海は、恵果から伝法灌頂を受けた翌年の806年2月、日本からの遣唐使船が昨年12月末に明州に到着したと聞かされます。この半年くらい前に最澄らが乗った遣唐使船が日本に帰ったばかりでしたので、にわかには信じられないことでした。しかしこれは事実でした。帰国した藤原葛野麻呂から順宗皇帝が即位したということを聞かされた日本の朝廷がその祝賀のために高階遠成(たかしなのとうなり)を判官とする遣唐使船1漕を派遣したというのです。この情報を確認した空海は、この帰りの遣唐使船で帰国する決心をします。空海は期間20年の留学生として唐に来ており、これを勝手に切り上げて帰国することは闕期(けっき)という罪となりました。しかし、恵果から伝法灌頂を受け、恵果が入滅し密教の第8代の師位を受け継いだ空海には、もう唐で学ぶものは残っていませんでした。そこで遣唐使船の帰国まで半年くらいかかるとみて、空海はその間長安の街を歩き回り密教や他の宗教関係の資料、書や漢詩などの資料を買い漁ります。20年間の留学費用をこれに充てたようです。高階遠成らは2月の半ばに長安に到着しますが、即位を祝う予定だった順宗皇帝が突如亡くなったため、慶事ではなく弔事に参列することとなりました。空海は留学生であり日本から唐の皇帝に託された学生の身分でした。そこで帰国するためには、日本の大使(この場合は高階遠成)から唐の皇帝に申請し、許可を受ける必要がありました。空海は自ら申請書を書き上げ高階遠成に提出し、皇帝の帰国許可を得ます。ここでも空海の文章と筆の力が生きたようです。また空海の筆と漢詩の実力や恵果から伝法灌頂を受けたことなどが皇帝側(官吏)に伝わっていたことが許可の助けになったと思われます。この許可には、空海と一緒に留学していた橘勢逸も含まれていました。勢逸の場合は漢語が分からず、学び続けることが困難と言う理由だったようです。この後空海は、お世話になった人たちに漢詩を贈るなどお礼と帰国の挨拶をしています。空海が残した漢詩が今も中国に残っているようです。また、その後遣唐使船に乗る間滞在した越州では、地元の節度使に書籍の寄付などを要請する書簡を書いて、資料の収集を行っています。空海一行は明州を8月下旬に出航、九州の博多津に806年10月初旬に到着し、大宰府に入ります。しかしこれから2年以上空海は大宰府に留め置かれることになります。