空海ってどんな人?-10・高野山開創(完)

(1)高野山を下賜される

こういう中で空海も真言教団の設立に向けて動き出します。先ずは弟子の養成のための根本道場の建立を決意します。場所を高野の山地(高野山は金剛峯寺の山号であり、高野山と言う山は存在しませんが、以下便宜的に高野山と表記します)と決め、朝廷に土地の下賜を上表(請願)します。高野山は、空海が若い時に修行していた葛城山や吉野山、大峰山などに近く、何度か上ったことがあったようです。標高800mの頂上付近が南北4km、東西6kmの平地になっており、ここに真言宗の伽藍を配置する構想を持ったようです。高野山のような山の中にした理由については、インドや中国では修行のための寺院が山上にあることが多いことが上げられていますが、比叡山に開創した最澄への対抗意識があったように思われます。密教を天台宗の一部と主張する最澄に勝たなければ真言宗は生き残れないと考え、比叡山VS高野山の構図を考えたように思います。その中で高野山にしたのは、山上の地形のほかに、古来高野山周辺は辰砂(水銀を含む鉱物)や鉛丹(酸化鉛)を含む赤い土の産地であり、寺の柱などに塗る朱の入手が容易であったこと、またこれを生業とする地方豪族が栄えていたため、これらの豪族から経済的支援を受けられるということがあったようです。

816年6月19日に上表文を提出したところ、8日後の6月28日に嵯峨天皇の使者が織物と錦の縁取りの五尺の屏風4帖を持参し、屏風に古今の詩人の秀句を書いて差し出すようにと伝えます。それから10日後の7月8日、高野山を空海に与える旨の太政官符が発令されます。屏風は8月15日に差し出したようです。空海と嵯峨天皇の関係はなかなかしゃれた関係です。その後空海は病床に伏した嵯峨天皇のために病気治癒のための修法を行っています。

(2)空海、高野山開創に着する

翌817年から高野山開創に着手します。実際にそのために働いたのは、一番弟子の実慧(じちえ)や泰範、真然(しんねん、高野山第二世となる)らでした。空海は高尾山寺に留まり著作に励みながら、天皇や皇族、貴族ら上層階級を相手に種々の修法を行っていたようです。空海が高野山に移ったのは818年11月となっています。ここから伽藍の建立に入るのですが、先ずは建立資金集めから入ります。嵯峨天皇の寵愛を受けているのだから、天皇から出してもらえばよいではないかと思いますが、当時の朝廷は引き続く自然災害により財政が窮乏し、皇子や皇女を臣籍に降下させて凌ぐ有様でした。貴族も同様です。そのため空海は自ら勧請に出たり、知人や地方豪族に支援を求める手紙を書きます。手紙の中には釘の寄進を求めるものや工事関係者の米や油を送ってくれるよう求めるものをあるようです。目標を達成するためには、何でもするというのが空海の特徴です。

(3)空海、中務省に入る

空海が高野山に入って開創の陣頭指揮を執り始めた翌年の819年7月、空海に中務省に入るようにとの勅命が下ります。中務省は、詔勅の文案や上奏など天皇側近の事務を行う部署でした。空海の文書力を評価する嵯峨天皇が空海に事務方の指導を期待してのことと思われます。空海は詔勅の代筆のほか南都六宗の高僧の上奏文の代筆も行い、南都六宗と良好な関係を築いたようです。そんな空海は、820年10月20日、伝燈大法師位(でんとうだいほっしい)という三位に相当する僧位を授かります。空海47歳のときで、最澄は44歳のときにこれより一段低い伝燈法師位(四位に相当)を授けられていましたので、空海は僧位では最澄を上回ったことになりました。最澄はその2年後、入滅の4カ月前に伝燈大法師位を授けられています。

(4)空海、満濃池を修築する

821年5月27日、空海は故郷讃岐国の農業用の溜池満濃池(周囲21km、貯水量1,540万t、灌漑面積3,239ha)修築の別当に任命されます。これは満濃池の度重なる決壊に悩まされていた周辺の住民が讃岐国出身の空海の名声を聞きつけて、地元の国司を通じて朝廷に請願して実現したようです。空海は1人の沙弥(20歳未満の若い僧)と4人の童子を従者にして讃岐に赴任します。工事期間は6月初めから8月末までの三カ月間でした。この工事では、アーチ式の溜池壁(溜池の水を貯める壁が溜池側にカーブしている)や余水吐き(溜池の容量を超える水を溜池壁側面などから排出する)など現代でも用いられている技術が使われています。これについては、空海は僧の学芸である五明のうち工芸明という工学知識を身に付けており、唐でこの方式を見たことがあったから知っていたと説明されています。しかし、空海は仏教典の暗記や解読に忙しく、土木工学を学ぶ時間があったとは思えません。また土木工学の場合、工事経験が重要ですが、空海にはありません。従って、満濃池工事に当たっては、土木工学に秀でた協力者がいたと考えれます。それは同じ佐伯氏で繋がる佐伯今毛人の元部下たちではないかと思われます。佐伯今毛人は正三位の官位まで行った官吏で、東大寺や西寺の造営、東大寺大仏の造立、長岡京の造営責任者を務めた土木建築の権威でした。空海が中務省に入ったことから同じ官吏組織にいる今毛人(いまえみし)の元部下と繋がりが出来て、彼らが改修工事を指導監理したのではないかと思われます。都を造営するくらいの技術を持っていますから、満濃池で用いた優れたアイデアが出て来てもおかしくありません。これらのアイデアを空海のものとするのは、やり過ぎのように思われます。

(5)空海、東大寺に灌頂道場を設ける

空海が満濃池の修築工事を終えた翌年822年2月、空海に新たな使命が下されます。それは、東大寺に灌頂道場を建立し、鎮護国家、息災および増益の修法を行うようにとの命令でした。前年の秋に長雨が続き不作だったこと、またその年の冬に雷が多く、今年は流行り病や洪水が予想されることから、密教の修法の力でこれらを防ぎ、良いことがあるようにしようという狙いでした。空海にとっては願ってもないことでした。東大寺は南都を代表する官立の大寺院であり、全国の国分寺の総本山でした。そこに灌頂道場を設置することは、密教が国家から認められることを意味しました。これにより密教は全国に知られるようになり、空海が目指していた全国の神宮寺を密教化するという目的に役立つことは間違いありませんでした。修法とは、本尊(大日如来)を安置し、護摩を焚き、口で真言を唱え、手で印を結び、心に本尊を念じて行う密教の加持祈祷のことです。そんな中その年の6月、最澄が入滅します。これで空海は仏教界で並び立つ者がない存在となります。しかし、最澄入滅の日から7日後に最澄が朝廷に要望していた比叡山に大乗戒壇を設けることが認められますから、将来仏教界の評価で最澄が空海を逆転する布石が打たれたことになります。

(6)空海に東寺が与えられる

そして翌年823年1月には、官寺である東寺を空海に与えるという勅命が下ります。

東寺は朱雀大路の南端にある羅城門の東側に置かれた官寺でした。桓武天皇が平安京に遷都したのは南都六宗の政治への関与を弱めるためでしたから、平安京に置かれた寺はこの東寺と反対側にある西寺のみでした。このうち西寺には、官寺やそこの僧侶を管理する僧綱所(そうごうしょ)が置かれました。また西寺は外国の賓客を宿泊させてもてなす鴻臚館の役割も果たしていました。しかし東寺は薬師如来像を本尊とする金堂があるのみで、整備が遅れていました。嵯峨天皇は、空海の力でこの東寺の整備を一挙に進めようと考えたようです。この当時空海は、高野山に開創しようとしていましたから、このままでは密教は高野山に移り、京(高尾山寺)から密教が無くなってしまうと考えたのかも知れません。官寺ですから財政が厳しいとは言え、国からの支援があります。従って、高野山より遥かに早く整備が進められます。それに道場としての地の利は最高です。空海は東大寺にも真言院という密教の修法所を設置しましたが、東大寺は華厳経を教義としており、空海も密教に次ぐ教えと評価していましたし、全国の官寺を統括する所という性格から、密教寺院化することは難しかったようです。嵯峨天皇はこういうことを踏まえて東寺を空海に与えたようです。嵯峨天皇はその3カ月後に譲位(淳和天皇)していますから、嵯峨天皇から空海への最後のプレゼントだったようです。嵯峨天皇が空海を心から尊敬していたことが伺えます。

空海は東寺で真言密教の理想の形を実現しようとします。その試みの1つが金堂に設けた立体曼荼羅です。これは曼荼羅の世界を五仏・五菩薩・五大明王・六天の二十一尊の仏像で表現しようとしたものです。また東寺では他の宗派の僧が入り込むことを禁止し、学ぶべき経典を決め他の宗派の経典は学べなくします。南都六宗の出入り自由、学び自由の慣行に挑戦するものでした。最澄も弟子の泰範が空海の元に走ったとき、他宗との交流を禁止する規則を作りましたが、天台宗は法華経・密教・戒律・禅の教えを取り込んでいたため学べる範囲は広かったようです。これらのことは空海が朝廷に請願し認められて実施したものですから、空海と淳和天皇の関係も良好だったようです(嵯峨上皇がいたせいかも知れません)。

これらの朝廷の愛顧に答え空海は、皇后院で息災の、東寺で転禍脩福と国家鎮護の、清涼殿で懺悔滅罪の修法を行うなど朝廷専属の修法担当のような働きぶりです。それに伴い空海は824年2月には少僧都(しょうしょうず。僧網所の上から3番目の役職)に任命され、僧尼や諸大寺の管理の役割も担います。そして824年6月には東寺長者に任命され、名実ともに東寺は空海が自由に運営できる寺となります。この翌年の825年には空海が長く住んだ高尾山寺が準官寺となり、寺名を神護寺に変更していますから、これは空海の意向によるものと思われます。826年11月には東寺の五重塔の造営に取り掛かります。完成が883年ですから、57年に及ぶ大プロジェクトです。827年には大僧都に昇格しています。828年には綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)という日本初の私学校を東寺の東側に設立します。当時の学校は貴族など位の高い者向けであり、庶民が行ける学校が必要と考えたようです。綜芸種智院は、誰もが儒教・道教・仏教を学べ、授業料無料、全教師と全生徒に食料が給付されると言う理想の学校でした。

(7)空海、高野山で入滅する

829年、空海は奈良の大安寺の別当に任命されます。また和気氏からは神護寺を託されます。この頃が空海の絶頂期だったと思われます。そして830年には、南都六宗に対して密教の教義の要旨を書いて渡す(朝廷経由)ようにとの勅命が下ります。そこで書かれたのが「秘密曼荼羅十住心論」10巻とその要約「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)3巻です。これらは難解で、ここから入ると挫折すると思います。831年には高野山金剛峰寺の金堂が完成します。またこの年比叡山延暦寺の円澄(最澄に代わり大日経の面授を受けた最澄の弟子)ら十数人の僧が、真言の教えを受けにやって来ます。空海はこころよく受入れます。これで真言宗と天台宗の対立は解消され、両宗が平安時代を代表する宗派となります。832年、高野山開山15年目のこの年、高野山で初めての「万燈万華会」が営まれます(今も続いています)。その後835年には、これまで南都六宗の高僧が行っていた恒例の御斎会(ごさいえ)と並行して真言密教による修法も行われることとなります。その後真言宗にも年度分者3名が認められます。これで東寺は東大寺に匹敵する大官寺となりました。

その後高野山に戻った空海は死期を悟り、断食生活に入ったようです。そして835年3月31日入滅します。享年62歳でした。