日産といすゞ、自動車業界の名門企業の明暗
日産自動車(日産)といすゞ自動車(いすゞ)と言えば、日本の自動車業界の名門企業です。いまでは日産が乗用車、いすゞがトラックと完全に住み分けていますが、一時は共に乗用車とトラックを生産・販売し競合関係にありました。その後日産は乗用車で成功し、トヨタと並ぶメーカーとなりなりましたが、いすゞは乗用車が売れずトラック部門の利益を食い潰して行きました。その結果いすゞは、2度の経営危機に見舞われます。1回目は1985年のプラザ合意による円高危機です。この際には1年間で1ドル240円程度が120円程度の円高にとなったせいなので、経営の問題ではありません。いすゞの売上高の約4割を輸出が占めていたため、円高によりこの分がしぼんで行ったのです。その際には従業員の賃下げ、出向、季節労働者の削減などで凌ぎました。当時のいすゞは、トラック部門は相当の利益を出しており、トラックメーカーとしてならやって行ける状況にありました。しかし、トラック市場は縮小傾向であり、拡大を続ける乗用車市場で売り上げを伸ばさないと縮小均衡になると考えられていたため、トラックで得た利益を乗用車の開発や販売網作りに投じていました。乗用車部門に投じられた金額は2,000~3,000億円になるのではないでしょか。このプラザ合意のときの倒産危機においても乗用車部門を廃止する決断はされませんでした。その後円高が落ち着き一時的に業績は回復しましたが、利益は不動産の売却や在庫調整などで捻出しており、営業利益は厳しい状況にありました。そんな中1990年代に入りバブルが崩壊し不況となったため業績が悪化し、本当の倒産危機が到来します。当時株価が31円まで落ちたということですから、如何に深刻な危機だったかが分かると思います。その際にはみずほ銀行などの銀行団が債務の株式化を行い、資本提携先のGMや販売提携先の伊藤忠商事などが増資に応じ財務状況を改善すると共に、1993年には正式に乗用車からの撤退を決定し、それに伴いいすゞ本体および関連企業全体で約1万人に及ぶ人員整理を行いました。1980年代から1993年までの間いすゞの従業員は賃下げ、人員整理などが続き、いすゞは当時の雑誌の調査で親が子供を入れたくない会社の上位にランクされていました。しかし、1993年からトラック専業メーカーになって以降業績は徐々に回復し、今では2019年3月期決算(売上高2兆1,491憶円、経常利益1,890億円)が示す通り、優良企業の仲間入りをしています。
一方日産は、戦後のモータリゼーションの波に乗り乗用車販売台数でトヨタと並ぶ2強となりましたが、経営陣の対立や労働組合幹部の経営介入などが報道され、企業体質は決して良い会社とは言えませんでした。そしてバブル崩壊後の不況により業績が悪化し1998年に有利子負債が約2兆円に達したことから経営危機が表面化します。そこで翌年の1999年にフランスのルノーが約6,400億円(36.8%)出資することになります。そしてルノー副社長だったカルロス・ゴーン氏がCEOに就任し、大規模なリストラを開始します。このリストラにより職を失った日産および関連企業の従業員は2、3万人になるのではないでしょうか。この後日産は業績を急回復し、2003年には約2兆円あった有利子負債を完済するに至っています。そして2017年3月期には経常利益約8,647億円という過去最高益を出します
このように日産といすゞは1990年以降共に経営危機に陥りながら再生を果たし、優良企業の仲間入りを果たしていました。それがここに来て、はっきりと明暗が分かれています。日産では2018年11月、再建の最大の功労者であった当時のゴーン会長が東京地検特捜部に逮捕されたことから、経営の混乱が始まりました。しかも驚くことにこの逮捕は日産の日本人経営陣がゴーン氏に不正があると検察に通報し、検察と司法取引をして実現したものだったのです。まるでかって日産のお家芸だった経営陣の内紛が復活したようです。倒産の危機に瀕した日産を立て直したのはゴーン氏の手腕によることは明らかであり、ゴーン氏がいなくなれば日産がどうなるかは誰だって予想できました。ゴーン氏逮捕後案の定日産の業績はつるべ落としで悪化し、2020年3月期の第一四半期決算では営業利益はわずか16億円となりました。さすがにこれではまずいと角突き合わせていたルノーと日産は協調姿勢に転換し新しい経営陣を組織しましたが、これが日産崩壊の第2幕となりました。ルノーが御しやすい日産役員をCEOとしたため、実力的にはCEO候補の筆頭だった関潤専務がNO.3の副COOに配されたのです。一方で関氏は日産の再建の肝となる業務(パフォーマンスリカバリ)を担当させられましたから、関氏にとっては割の合わない役回りです。そのためか、12月1日の新体制発足から3週間ばかりたった12月25日、関氏の日産退社が報道されます。これについて関氏は雑誌で「人生で一度は社長として辣腕を振るってみたかったから」(関氏は今年2月日本電産社長に就任予定)と言っていますが、その前にどう考えても日産の再建の目星が立たなかったことがあると思われます。日産再建の肝となる業務を担当する関氏なら再建の可否が判断できたはずであり、関氏は再建不能と判断したと考えられます。或いは大規模な合理化が必要となることから、その矢面に立つことを嫌ったと思われます。関氏の日産退社報道の後、日産では経費削減の指示が出たとの報道がありましたので、日産の業況はかなり深刻なことが伺えます。
一方12月18日には、いすゞが旧日産系列で現ボルボ・グループに属するUDトラックス(旧日産ディーゼル。日デ)を買収するとの報道がありました。ボルボ・グループとの提携の一環として報道されましたが、これは国内トラックメーカーにとってはエポックメイキングな出来事です。それは長らく国内のトラックメーカーは日野、三菱、いすゞ、日デの4社でシェアを分け合う時代が続いたからです。それがいすゞによるUDトラックスの買収により、国内のトラックメーカー4社時代が終わりを告げ、3社に集約されることになったのです。UDトラックスは大型トラック専業で直近の売上高は約2,600億円と言われており、この買収でいすゞは小型トラックと共に大型トラックでも国内首位に立つということです。UDトラックスを売却する結果、ボルボは2百数十億円の業績改善効果があると発表したようですので、いすゞはお荷物を抱え込んだのではないかという声もあるようですが、それはないと思います。トラックは動かさないと利益を生まないため、所有者である事業者は定期的にメンテナンスを行い部品交換も行うため、販売店は修理や部品の販売で経営が成り立ちます。従って、UDトラックスも国内で見れば採算は取れていると考えられます。一方UDトラックスは東南アジア市場開拓のためタイに工場を持っているということであり、これが損益の足を引っ張っていると考えられます。国内は部品の共通化や営業所・サービス工場の統合による合理化効果が見込めますので、損益は改善することはあっても悪化することはありません。タイの工場については、いすゞには小型トラックの工場はあっても大型トラックの工場は無く、またUDは東南アジア専用車を開発・販売して先攻していたことから、いすゞにとってはメリットが大きいと思われます。このようにこの買収は十分検討されたものであり、いすゞの今後の発展に繋がるものです。
12月24日、いすゞは2022年に本社を東京大森から横浜みなとみらい地区に移転すると発表しました。大森はいすゞ創業の地であり、トヨタで言えば豊田市みたいな場所です。そこから横浜に移すことは、主力工場が藤沢市にあるとは言え大変な決断だったと思われます。次の発展を見据えての決定と思われます。
みなとみらい地区には2009年8月に日産が東京銀座から本社を移転しています。いすゞはこれを後追いする形ですが、現在の日産といすゞの状況は、明のいすゞに対して暗の日産と明暗がくっきり分かれています。この明暗は、共に大きなリストラを味わった両社であるにも関わらず、「リストラの痛みを忘れた日産、忘れないいすゞ」がもたらしたものと言えると思います。