菅官房長官は豊臣秀長ではなく藤堂高虎!
安倍首相の次の首相は菅官房長官で決まりのようです。菅官房長官は首相候補としての人気は当初石破元幹事長、岸田政調会長の後塵を拝していましたが、ここに来て人気が沸騰し、最近はトップになった調査もあるようです。それは、菅官房長官が安倍首相と対極にある人生を歩んでいることが知られてきたことによると考えられます。秋田の苺農家に生まれ、高校卒業後上京し働きながら夜間大学で学び、会社務め後国会議員秘書を約11年、横浜市議会議員を約8年勤め、1996年に国会議員となり、8回の当選を経て首相まで上り詰めようとしています。安倍首相や小泉元首相が親の看板・地盤・鞄を引き継いで国会議員となり、恵まれた政治家人生を歩んだのと対極的です。この人生は、いずれテレビドラマになるかも知れません。政策は安倍政権を引き継ぐと言っていますが、これまでの人生が安倍首相と対極にあるところから、そのうち政策も大きく変わるものと思われます。
菅官房長官にとって今回の首相就任は、青天の霹靂だと思われます。安倍首相という国民に人気のある指導者に気に入られ、安倍政権のNO.3(NO.2は麻生副総理として)に収まり、菅官房長官なしには安倍政権の運営は不可能と言われる存在となりました。菅官房長官は、そんな自分を豊臣秀吉政権を陰で支え続けた秀吉の兄豊臣秀長(以下秀長)に重ね、尊敬する戦国武将は秀長と言っているようです。
しかしこれには誤解があります。菅官房長官は堺屋太一元経済企画庁長官が亡くなった際、同氏が書いた小説「豊臣秀長」を愛読書として挙げていました。菅官房長官の秀長像はこの小説から来ていると思われます。秀長について書かれた小説や資料は他にありません。堺屋氏も「豊臣秀長」を書くに当たって資料が存在しなかったと述べています。そのため堺屋氏は「豊臣秀長」を豊臣秀吉の経歴をなぞり、秀長はその際に補佐役として行動したと規定して描いています。即ち、秀長の実際の行動から秀長像を描き出しているのではなく、秀長は秀吉の補佐役に徹していたと規定して、秀長の行動を創作しているのです。従って、この小説に描かれた秀長像は堺屋氏の創作です。菅官房長官は堺屋氏が作り上げた秀長を尊敬していることになりますが、この秀長は架空の人物です。
資料や記録がなくても秀長は実在し、秀吉政権で重要な存在であったことは間違いありません。秀吉が織田信長の足軽組頭になったあたりで秀吉の最初の家臣となり、以後秀吉の立身出世をサポートしたと思われます。本人は農民出身で体も大きくなかったことから、当初軍事面での貢献は無く、増加する足軽や家臣団の世話や連絡・調整、物資調達や輜重などの後方支援で貢献していたと思われます。しかしその後信長が西に進出し始めると大規模な戦いが多くなったため、軍事面での貢献も求められて来ました。北近江の浅井長政を破った後に秀長の家臣となったのが藤堂高虎でした。藤堂高虎は、7人も主君を替えた変節の武将の代表ように言われていますが、4人までは21歳で秀長に足軽として仕える前です。秀長に仕えた後は秀吉、そして家康に仕えただけです。即ち、高虎は本来忠義の武士として描かれるべき人物なのです。それが変節の武将の代表ように言われたのは、家康が江戸幕府を開いた際高虎に旧豊臣方の武将としては異例に東西の要所伊賀上野を与えられ重用されたことから、他の武将のやっかみ・嫉妬を買ったためと考えられます。家康は高虎が秀長家で果たした役割を良く承知しており、徳川四天王と同等の信頼を置いていたものと思われます。
藤堂高虎が秀長家で果たした役割は、秀吉が秀長に命じた戦いを秀長に代わって遂行したことでした。例えば、毛利攻めの際秀長は秀吉の名代をして参加していますが、秀吉は先ず北の但馬の攻略を秀長に命じています。秀長軍はあの天空の城として有名な竹田城や岩洲城を攻略し、短期間で南但馬を平定します。その後には明智光秀が長年攻略できずにいた丹波の矢上城・黒井城攻めを支援し、丹波平定を助けています。但馬平定後は三木城攻めに転じ、三木城陥落後秀長は但馬領主となっています。その後備中高松城攻めに参加、本能寺の変により中国大返しに同行し、明智光秀軍との山崎の戦いにも参加します。その後織田信勝軍との伊勢亀山の戦い、家康軍との小牧・長久手の戦い、柴田勝家軍との賤ヶ岳の戦い、雑賀・熊野攻め、四国攻め、島津攻め、小田原攻めと秀吉の主だった戦いには必ず参戦しています。これらの参戦はあくまで秀吉が秀長に命じたものですが、秀長軍は高虎が指揮していたと思われます。と言うのは、これらの戦いの記録に高虎の名前は登場しますが、秀長の名前は殆ど登場しないのです。そのため高虎に関する記述から秀長の存在を推測するしかないのです。秀長は秀吉から受けた戦いの命令を高虎に丸投げしていたと考えられます。高虎はその命令を受け戦いを遂行し秀吉が望んだ結果を出し続けますが、それは秀長の成果とされたのです。高虎は秀長から丸投げされることを自分が信頼されている証拠と感じ、喜びとしていたようです。秀吉に自分の成果とアピールし、秀吉から認められあわよくば直臣に取り立てられようと言う気はなかったと思われます。この高虎の存在があって秀長は、軍事面でも秀吉の右腕的存在となり、大和・河内・紀伊110万石の領主となります(高虎は紀伊粉河2万石)。その結果、秀長は豊臣政権では名実ともにNO2の存在となります。秀長は、軍事面は高虎に任せていたため、気性穏やかで人望があったと思われます。そのため、秀吉傘下の大名や商人らが秀吉へ報告や要望を行う際には秀長を通す(取次)ことになっていたと思われます。それが秀吉と大名らとの関係を良好に保つこととなり、秀長は秀吉および秀吉傘下の大名らにとって潤滑油のような存在であったと思われます。秀長が51歳で死去すると秀吉は人が変わったようになり、あれだけ重用していた利休に切腹を命じています。また秀長は豊臣家の中でも鎹の役割を果たしていたと思われ、秀長死後秀吉は甥の関白秀次に謀叛の疑いをかけ切腹を命じていますし、他の2名の甥(秀保、秀勝)も不審な死を遂げています。秀長が存命であればこういうことは無かったし、朝鮮出兵も違った結果になったかも知れません。
このように秀長は軍事面と精神面の両面で秀吉を支えていたことは間違いありませんが、軍事面は実質的には高虎が担っていたと思われます。秀吉も軍事面での高虎の優秀さは十分承知しており、そのため秀長死後高虎が推挙した養子(丹羽長秀の息子)による秀長家の存続を認めなかったとも考えられます(実質高虎が支配することになる)。それに失望した高虎(40歳)は出家し高野山に入りますが、高虎の手腕を評価する家康が招聘に動きます。これを知った秀吉も高虎を家康に取られたら一大事と直臣になるよう働きかけます。その結果高虎は秀吉に仕えることになりますが、与えられた領地は四国の西の端宇和島7万石でした。これは優秀なために警戒され、九州の豊前中津に領地(12万石)を与えられた黒田官兵衛の処遇と似ています。
秀吉死後高虎を評価する家康は、真っ先に高虎を配下に組み入れますが、高虎も家康に秀長を感じていたように思われます。こうして徳川幕府となり高虎は徳川四天王並みの待遇で迎えられます。実力ある者が良い上司にめぐり逢い、忠誠を尽くせば報われるという好例と言えます。
菅官房長官も秘書として小此木彦三郎衆議院議員に仕えたとき、秀長と高虎のような関係にあったのではないでしょうか。小此木議員が秀長であり、菅氏は高虎のような存在であったと思われます。菅官房長官は、安倍政権で自分が果たしてきた役割を秀長のそれと思っているようですが、それは間違いです。菅官房長官には高虎の役割を果たすものが不在な為、自分が高虎の役割を果たしているのです。従って菅官房長官が憧れるのは秀長のような存在であっても、菅官房長官自身は藤堂高虎であると考えられます。
追伸;「豊臣秀長と藤堂高虎」を書きました。読んで下さい。http://www.yata-calas.bona.jp