5-1・家康に仕えていた頃の高虎-その1
(1)朝鮮から帰国後関ヶ原まで
秀吉死後高虎は次の天下人は家康と見立てます。しかしここから石田三成と徳川家康の暗闘が始まり、これに三成に恨みを持つ加藤清正ら秀吉子飼いの大名の争いが加わります。高虎は一貫して家康を守るために働き、家康の信頼を高めて行きます。先ず、慶長4年(1599年)1月高虎は、秀頼が伏見城から大坂城に移る際に大坂城に同行する家康を三成方が暗殺する計画があるとの情報を入手し、家康に伝え暗殺を回避します。次に同年閏3月、前田利家との対立解消のため、家康が利家の屋敷を訪れた際に、三成の家老島左近が家康を襲撃するとの情報を入手した高虎は、女駕籠に家康を乗せ脱出させたと言われています。翌年慶長5年(1600年)閏3月3日、利家が死去します。翌4日、それまで利家の存在が歯止めになっていた加藤清正ら朝鮮の役で三成に恨みを持つ七将は、三成暗殺に決起します。これを察知した三成は、伏見城内の自宅に避難します。この問題は大老家康扱いとなり、三成は奉行職を解き佐和山城蟄居処分、七将はお咎めなしと処分します。家康書状では七将に高虎が含まれおり(加藤清正、福島正則、細川忠興、浅野幸長、黒田長政、蜂須賀家政、藤堂高虎)、高虎が6人の秀吉子飼いの武将と家康を結び付け、家康と協議しながら事を進めたものと思われます。もし清正ら七将が三成を殺害していたら、奉行を殺害したとして七将は切腹または改易処分になっていたと思われ、上手に処理されています。
前後しますが、慶長4年(1599年)に家康が利家の屋敷を訪れ、家康と利家の対立が解消した後、武将らは自領に帰るよう言われます。高虎は家康に異母弟正高を人質に差し出し帰国します。この結果他の武将も人質を差し出さざるを得なくなります。このようなことから後世高虎は「世渡り上手」と言われるようになったようです。高虎は伊予板島に帰り、朝鮮出兵のため改修途上になっていた板島城の改修に取り掛かります。城は海抜80mの岡にあり、不等辺五角形をして、2面は海に面し、3面には濠を巡らし港湾に面していました。これは海上の敵を発見したら、速やかに水軍を出動できるようにするための作りでした。朝鮮で高虎が中心となって築城した順天倭城のノウハウを生かしたものと考えられます。ただし天守閣は望楼式であり、高虎式築城の特徴の1つである層塔式にはなっていません。
(2)関ヶ原の戦い
その後大阪では、大老家康が天下取りに動きます。先ずは加賀の前田利長を服従させ、次に会津の上杉景勝に服従を求めます。しかし景勝が拒否したため、慶長5年(1600年)5月、景勝討伐のため大坂城を出立します。多くの秀吉子飼いの大名が参加し、高虎も加わります。一方で景勝と通じていた石田三成は家康が居なくなった畿内で家康討伐を宣言し、毛利輝元、長宗我部盛親、宇喜多秀家など西日本の大身大名が呼応します。これは家康も予想外の結集だったようで、家康は自軍に参加した秀吉子飼いの大名の動向が心配となります。そこで7月関東の下野で同行していた豊臣子飼いの大名に去就を決めるよう促します。ここでは福島正則や黒田長政を先頭に、東海道の秀吉子飼いの大名たちが家康と行動を共にすることを誓います。もちろん高虎は最初から家康と行動を共にする決心でした。その後秀吉子飼いの大名軍は引き返しますが、家康は行動を共にせず、江戸城に留まります。家康としては、秀吉子飼いの大名たちを完全には信用できなかったようです。そこで高虎が秀吉子飼いの大名軍の様子を逐次家康に報告していたようです。それでも確信が持てない家康は、秀吉子飼いの大名軍に敵を攻撃して見せるように迫ります。その結果秀吉子飼いの大名軍は岐阜城、大垣城を攻撃し、勝利します。これを聞いた家康は9月1日江戸を立ち、決戦の地関ヶ原に向かいます。関ヶ原の戦いでは、予め西軍の小早川秀秋や吉川広家らの武将が家康に寝返る約束をしていたことは有名ですが、現地で高虎は西軍に属していた同郷(近江)の脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠(すけただ)、赤座直保を懐柔し、寝返る約束を取り付けていました。この4人は三成の最も忠実な武将であった大谷吉継の近くに布陣しており、三成軍にとっては小早川軍の裏切り以上にダメージが大きかったようです。高虎隊は大谷隊に対峙しており、4人の裏切り後は一緒になって大谷隊を攻撃します。こうして9月15日の関ヶ原の戦いはあっけなく東軍勝利に終わります。この後高虎は、大谷吉継の首の在処を秘匿し、捕縛された三成を丁重に扱うなど器の大きさを見せています。
関ヶ原の戦いの貢献により高虎は、伊予で12万石が加増され、合計20万3,000石となり、伊予半石を領有することとなりました。この後2万石で召し抱えたのが渡辺勘兵衛です。勘兵衛は高虎が近江浅井家で殺傷沙汰を起こし出奔して仕えた阿閉貞征に共に仕えていました。勘兵衛はその後幾人か領主を変え、直前は大和郡山城主増田長盛の家老を務めていましたが、関ヶ原の戦いの際長盛が日和見を決め込んだため、戦後長盛が改易処分となり、高虎が大和郡山城接収に行った際に再会していました。勘兵衛は武術や兵法に優れており、留守がちな高虎の代わりが務まりました。
(3)築城
その後は元和偃武の時代となり、高虎が戦いで活躍することはなくなります。こんな中家康は高虎の築城経験に目を付け、次々と築城や城の改修を命じます。家康は関ヶ原後西日本に秀吉子飼いの大名を集めており、彼らが反乱を起こすことを警戒していたようです。先ず慶長6年(1601年)京の入り口に当たる近江膳所(ぜぜ)に築城を命じます。膳所城は琵琶湖に面して作られ、琵琶湖の水を引き込み濠を巡らせ、その濠に船を係留できるようにして、舟運や水軍の基地としても使えるようになっています。高虎が朝鮮の役で水軍を率いた経験や、順天倭城、宇和島城築城の経験が生かされています。その後高虎は、伏見城、江戸城、丹波篠山城、丹波亀山城、今治城、伊賀上野城、安濃津城の修築・新築を行います。数でも日本一の築城経験者であることは間違いありません。また高虎は城の建築思想も一変させています。それまでは寄棟型(屋根が四面ある)の屋根の中央部に階層を継ぎ足す望楼型という天守閣様式が主流でした。これには中央に心柱が必要なこと、破風を多用し使い勝手が悪い空間が多くなること、下の階層の出来上がりを待たないと次の階層の仕事ができないことなどの不都合がありました。そこで高虎は、各階層を同じ設計思想の箱を積み上げて行く(跳び箱の各段を積み上げるような)層塔型という天守閣様式を編み出します。これは各階層を違った大工が担当し、並行して準備することが可能であり、これにより期間も短くコストも安く中の使える空間も広くなり、かつ耐震性も高まることから、以後の築城の主流となりました。その他犬走りや高石垣、多門櫓、白壁などが高虎式築城の特徴と言われています。慶長11年(1606年)には江戸城修築を命じられます。高虎は江戸城修築への貢献で2万石加増され、都合22万石となります。この前年に高虎は、伊予にいた実子大介(5歳)とその生母(側室)を人質として江戸屋敷に住まわせます。これも高虎がやりだしたことであり、後世「ゴマすり」「あざとい」と言う評価に繋がっているようです。
(4)城下町作りと文化面
高虎は築城と同時に城下町作りも行っています。これは秀長時代に大和郡山城の修築の際、城下町を再編した経験が生きているものと思われます。高虎の領土である今治城や伊賀上野城・安濃津城では、見事な城下町が作られています。特に安濃津城の城下町の整備では、海岸近くを通っていた伊勢街道を城下町の真ん中を通るように付け替え、町が流通の中心地となるようにしています。高虎は都市の設計者としても優秀だったようです。
もう1つ見逃せないのが文化に対する造詣です。高虎は戦いと築城の名人という軍人の印象が強いですが、文化への造詣も深かったのです。それは高虎が長く使えた豊臣秀長が大和中納言と呼ばれるようになって以降大和郡山で利休などと盛んに茶会を催しており、高虎も参加していたためと思われます。茶人には能や和歌などの文化に造詣が深い人が多く、高虎も影響を受けて行ったようです。その中の代表的人物が小堀正一、後の小堀遠州です。遠州の父は秀長家臣であり、遠州も秀長に仕えていました。その関係で遠州は少年時代には利休に師事し、青年時代には古田織部の弟子となり、一流の茶人となりました。また遠州は作庭・陶芸・立花・和歌、更には城郭・寺社の建築でも才能を発揮しました。こんな遠州に高虎は親族の娘を養女として嫁がせ、一族に取り込んでいます。文化的交流は、高虎が出世するに連れて人脈作りや情報収集に欠かせなくなっていたようです。
(5)伊賀上野拝領
こうして家康の評価を高めて行った高虎が徳川幕府内で不動の地位を築いたのが慶長13年(1608年)8月です。この月高虎は家康から駿府に呼び出されます。高虎が駿府城に登城すると家康と共に将軍秀忠がおり、秀忠から伊賀上野15万石と阿濃津など5万石および伊予今治2万石の計22万石として伊賀上野転封を命じられたのです。それまでが伊予半国20万3,000石ですから、加増としては約2万石ですが、伊賀上野は1国であり国主になりますし、かつ近江彦根と並ぶ機内へ入る交通の要所です。この頃大坂城には豊臣秀頼がおり、西日本に豊臣恩顧の大名が多かったことから、東西の緊張関係が残っていました。そのため徳川幕府にとっては近江彦根と伊賀上野の守りは極めて重要でした。近江彦根には普代大名で家康の信頼が厚い井伊家を配していましたが、伊賀上野には豊臣恩顧の大名である筒井定次をそのまま残していました。それは伊賀が天正9年(1581年)の天正伊賀の乱で信長勢に大量虐殺された歴史を持ち、当時信長と同盟を結んでいた徳川にも反発があったためと考えられます。高虎は元豊臣方であり、伊賀者の反発はそれ程強くないし、高虎なら伊賀者を統治できると判断されたようです。事実高虎は、伊賀出身の家臣保田采女(うねめ)を窓口とし、伊賀者のうち有力者は士分に取り立て、それ以外も名字帯刀を許された無足人として庄屋や名主の上の位に付け、領内を見回る仕事を与えています。今回重要拠点である伊賀上野に高虎が配されたことは、高虎の地位が譜代大名並みになったことを表します。そして今治の領土はそのまま残したことは、瀬戸内海の監視の役割も高虎に担わせたことを意味します。高虎は西日本の大名に対する守りのキーマンに指定されたことになります。
この出世により高虎は、外様大名や譜代大名から嫉妬されることになります。特に譜代大名からは常に揚げ足を採られ失脚に追い込まれかねない状態にあったと思われます。そのため高虎は、これまで以上に用心を重ねるようになります。高虎はいち早く江戸と駿府に屋敷を構えています。それも城の大手門に近い特等地になります。また京や伏見・大阪にも屋敷を持ち、なるべく長く家康や秀忠の近くに居るように努めています。これにより家康や秀忠と直接接し、譜代大名からあらぬ話が家康や秀忠に入らないようにしていたと思われます。また家康や幕府が言い出す前に(制度化される前に)人質を差し出し、あらぬ疑いが立たぬように先手を打っており、そのリスクマネジメントは見事と言うほかありません。外様大名から譜代大名並みの地位に上り詰めた高虎は、その地位を守るために並々ならぬ努力をしています。