5-2・家康に仕えていた頃の高虎-その2

(6)大久保長安

尚、徳川幕府において外様から譜代大名並みに出世した人物がもう1人います。それは大久保長安です。長安は甲斐の旧武田家に仕えた武士で、武田時代は主に金山の管理をしていたようです。武田滅亡後三河に行き、徳川譜代大名の大久保忠隣の家臣となります。旧武田領甲斐の再興で頭角を現し、金山の管理ができる点を忠隣から家康に紹介したようです。その後家康は長安を佐渡や伊豆、生野など殆どの金山・銀山の奉行に任命します。長安が奉行に就任後金山・銀山の採掘量は右肩上がりに増加し、幕府の財政に貢献します。そのため長安は所務奉行(後の勘定奉行)および年寄(後の老中)にまで出世します。更に長安は家康6男松平忠輝の付け家老に任命され、伊達政宗の娘を忠輝の正室とすることに成功します。これは徳川家と伊達の関係を強めることとなり、家康の評価を更に高めたと思われます。また長安は街道整備を任されて、一里塚の制度も考案しています。このように長安は稀に見るテクノクラートであり、高虎と似ているところがあります。長安が付け家老を務めた忠輝は越後高田75万石の領主となりますが、悪い素行が目立ち始めます。それが大坂の役の際に露見します。忠輝軍が大坂に向かう途中の近江で秀忠家臣が追い抜いたことに腹を立てその家臣を切り殺した、大坂城攻めの際に遅参した、家康と朝廷に戦勝報告に行く予定をすっぽかしたなどが重なり、家康から勘当処分を受けます。これ以外に伊達政宗が忠輝を担ぎ将軍交代を狙っているとの噂もあったようです。この時期金山・銀山の産出量も減ってきていました。この頃家康9男尾張藩主徳川義直の居城として名古屋城が築城されていましたが、長安も作事奉行として参加しています。名古屋城では天守閣の金の鯱が有名ですが、あれに使われた金は長安が個人的に蓄えていたものを献上したと考えられます。長安は殆どの金山・銀山の管理を任されていましたが、幕府と長安の取り分は産出量の割合で決めていたようです(例えば幕府6:長安4。長安は4で採掘にかかる全経費を賄う)。そのため産出量が右肩上がりの時代には長安個人の取り分は膨大な金額となり、長安はこれの一部を金で蓄えていたと思われます。そのため名古屋城天守閣の鯱に使う金を献上することができました(1612年)。これにより家康を喜ばせ、危機を脱したと思われます。長安死後長安の不正蓄財が暴かれ、長安の子息らが処刑(1613年)されますが、自分と並ぶ外様で大出世を遂げた長安の末路を見て、高虎は更に気を引き締めたと思われます。

(7)二条城会見と禁中並公家諸法度

こんな中家康も70歳に近づき寿命も長くないと意識して来ており、豊臣家の臣従が最大の課題となってきます。そこで慶長14年(1609年)に家康9男頼宜と加藤清正2女八十姫の婚約を整えたことから、豊臣方の信頼もある清正の奮闘により、慶長16年(1611年)3月家康と豊臣秀頼の会見が京都二条城で実現します。この際高虎も家康に同行し、淀川を伏見に上陸した秀頼を迎えます。同年6月、二条城会見の実現に奮闘した清正が熊本に帰国する船中で発病し、死去します。これにより豊臣方に臣従を説得できる人物がいなくなり、家康は豊臣攻めに踏み出します。清正は嫡男忠広後継の承認を幕府から受けておらず、規則上は無嗣改易となります。そこで家康は肥後藩に高虎を派遣し、実情調査と体制整備を命じます。そして家老を複数置いた集団指導体制などを条件に、高虎が後見人となり忠広後継が承認されます。

その後家康は朝廷との関係を強固なものとするため、秀忠5女和子を即位予定だった政仁親王(後水尾天皇)に嫁がせることを企みます。この実現に動いたのが高虎でした。高虎の妻の親戚に近衛家があり、高虎は近衛家とも親しくしており、近衛家を通じて交渉したようです。当初後水尾天皇の父後陽成上皇が武家の娘が入内したことがない前例を盾に拒否したようですが、高虎の交渉が功を奏し、慶長19年(1614年)4月、入内の宣旨となります。その後高虎は、天海・崇殿・本多正信・板倉勝重が中心となった「禁中並公家諸法度」の制定(1615年)にも参加します。これは天皇や公家を幕府の統制下に置くものであり、制度上和子入内を補完するものでした。

(8)大坂の役

この直後秀頼が再建していた方広寺の大仏が完成しますが、金地院崇殿が梵鐘に徳川家を呪う文字が刻まれていると指摘したことが切っ掛けとなって、大坂の役へと発展します。徳川方の言い分は、梵鐘に書かれた銘文「国家安康 君臣豊楽」は、家康の名前を分断し、豊臣家の繁栄を願うものでけしからんというものです。豊臣方はそのような意図はないと弁明しますが、徳川方は豊臣攻めの名分を探していただけであり、弁明が通るわけがありませんでした。家康が出した和睦の条件は「淀殿が人質として江戸に来る、秀頼が大坂城と出て他国に移る、秀頼が江戸に来て弁明する」のいずれかを行うことでしたが、これは豊臣家が徳川幕府に臣従することを意味します。徳川幕府と豊臣家の力の差を知る豊臣家の老臣たち(片桐且元、織田有楽斎など)は臣従已む無しの立場でしたが、秀頼に近侍する大野治房、木村重成、渡辺内蔵助などの若手家臣団が徹底抗戦を主張します。これで大阪の役が始まります。

大坂夏の陣で藤堂隊は先陣を命じられ摂津住吉に着陣します。霧が深いある朝、藤堂隊の近くを正体不明の小部隊(約300人)が通り過ぎます。これに気付いた藤堂軍の兵士が攻撃しようとしたところ、先鋒を言い渡されていた家老の渡辺勘兵衛が止めます。敵か味方か分からない中での攻撃は軽挙妄動だと言うわけです。後になってこのときの部隊は豊臣方に加勢する土豪勢だったことが分かりました。これを知った高虎は、勘兵衛の緊張感不足によるミスと判断し、勘兵衛を先鋒から外します。ここを見ても関ヶ原の戦い以降戦場に出てない藤堂軍は戦いの感が鈍っていることが分かります。その後木村重成・長宗我部盛親軍と激戦を繰り広げますが、勘兵衛に代わって先鋒を務めた藤堂良勝、藤堂良重、藤堂仁右衛門、藤堂氏勝などの重臣が死亡し、藤堂隊の戦死者は300人以上に達しました。この戦いの中で先鋒を外された渡辺勘兵衛隊は、崩れた長宗我部隊を追撃し300人以上を殺害しますが、撤収の指示に反して追撃したものでした。高虎としては、追撃による手柄は一緒にいた徳川譜代隊にあげようと考えていたようです。この勘兵衛の行動に対して300人以上の戦死者が出たこともあって、藤堂隊の中では勘兵衛を非難する声が高まります。その結果高虎は、勘兵衛を奉公構(他藩に雇わないよう要請する)付きの追放処分とします。その後勘兵衛の実力を評価する者が間に入り奉公構の解除の話合がなされたようですが、高虎(その後継高次も)は同意せず、結局勘兵衛はどこにも仕官できませんでした。高虎は家臣の出戻りを歓迎しており、勘兵衛への処置は異例の厳しさです。大坂夏の陣での多数の家臣の戦死は、高虎にとって生涯唯一の敗北と言ってよいものであり、優秀ではあっても藤堂家の軍法を身に着けていない勘兵衛を藤堂家の要職に就けた後悔が大きかったものと思われます。寛永5年(1628年)、高虎は大坂の役で戦死した人たちを弔うため、京都南禅寺に山門を寄進しています。大坂の役後高虎には5万石が加増され、都合27万石となります。

(9)家康臨終と和子入内

元和2年(1616年)4月家康臨終に際して高虎は、駿府城に詰め最後を看取ったと言われています。病床で家康が「高虎とは宗派が違う(家康は天台宗、高虎は日蓮宗)からあの世では会えないな」というと高虎は隣室に控えていた天海に頼み、天台宗に改宗したと言われています。高虎は家康が命じていた日光山の堂宇の縄張りも行っています。翌元和3年(1617年)、秀忠は高虎の長年の忠誠に対する礼として5万石を加増します。これで32万石となり、藤堂家はこのまま江戸時代中続くこととなりました。

家康死後徳川幕府の一元的支配者となった将軍秀忠の最初の大仕事は、慶長19年(1614年)4月に入内の宣旨が下りていた和子の正式な入内でした。後陽成上皇の崩御もあり延び延びになっていましたが、元和4年(1618年)には女御御殿の造営が開始されました。こんな中、後水尾天皇が寵愛する女官(四辻与津子)に皇子を生ませていたことが分かります。これを聞いた秀忠(と言うより正室江)が激怒し、元和5年(1619年)、上洛の上、元和元年(1615年)に制定した禁中並公家諸法度に基づき4人の天皇側近と与津子の兄2人を配流や出仕停止の処分とし、和子の入内を取り消すと言い出します。これに驚いた後水尾天皇の側近は高虎を通じてとりなしを依頼しますが、後水尾天皇自身はこの処分に立腹し、退位を口にして抵抗します。これに対して高虎は、親戚筋である近衛家などを通じて天皇の懐柔を図ると共に「この調停が上手く行かなければ腹を切る」と脅し、硬軟織り交ぜて交渉します。この結果交渉がまとまり、元和6年(1620年)6月、和子の入内が実現します。このあと後水尾天皇は大赦で6人の処分を取り消していますので、高虎がまとめた交渉で合意されていたと思われます。禁中並公家諸法度と和子入内により、天皇と公家は完全に将軍監督下に置かれることとなりましたので、この両方ともに貢献した高虎がその後秀忠や家光に信頼されたのは当然のことでした。

(10)高虎臨終

高虎は寛永7年(1630年)に家康と同じ75歳の人生を閉じます。晩年高虎の体を見た家臣は、体中に無数にある傷(槍傷、鉄砲傷、刀傷)を見て涙が止まらなかったと言います。それ以上に驚いたのは、右の薬指と小指は途中で切れており、どの指にも爪がなく、左手の中指は一寸ほど短くなり、左足の指の爪はすべて無かったことでした。高虎は足軽から始めて戦場働きで大名まで上り詰めており、その苦闘の歴史が体に刻まれていました。これを知ると後世(明治以降)の評論家が高虎を7人も主を変えた変節の人とか、ゴマすり名人、日和見主義者などと揶揄することは間違っていると思われます。むしろ足軽から始めて一代で大身大名となり、江戸時代には外様大名ながら譜代と同格まで上り詰めた人生は、現代のサラリーマンにとって織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の人生より参考になると思われます。