「学問の自由」は人文社会系学者のギブアップ宣言
日本学術会議の委員候補6名を政府が任命しなかったことを巡って、人文社会系学者が「学問の自由」の侵害だと抗議声明を出しています。自然科学系や工学系の学者(科学者)は殆ど「学問の自由」という言葉を持ち出していないことと対照をなしています。この言葉を聞く一般の国民は「学問の自由」という言葉の一般的意味は分かりますが、何を言いたいのか分からないと思います。政府は6名の委員候補の任命を拒否しただけで、学問に制限を掛けたわけではありません。なのになぜ人文社会系の学者が学問の自由を声高に叫ぶのかよく分かりません。それは6人の委員候補が全員政府批判を繰り広げていたから任命を拒否されたと言うのなら分かります。でも6人には政府の審議会などの委員に就任したことがある学者も含まれており、反政府的学者に圧力を掛けようとしたわけでもないと思います。任命しなかったことが圧力になり、政府に都合の悪い研究や発表ができなくなるから、「学問の自由」が侵害されることになるのだという主張だと思いますが、それは荒っぽい論理です。例えば、多くの研究者が大学に採用される際には、大学の選考会議の審査を受けています。ここで研究者の学問がフィルターにかかっています。また大学で職に就いたとしても、国などから研究費を獲得するためには、研究テーマについて所管の官庁などが組織する審査会の審査を受けており、ここでもフィルターにかかっています。このように雇われて研究を続ける限り、誰の関与も受けないと言う意味での「学問の自由」はありません。
また、「学問の自由」という言葉が人文社会系の学者から発せられ、科学者から発せられていないことに注意する必要があります。科学者は分子や原子レベルでの実体の探求を使命としており、「学問の自由」というような実体のない抽象的な言葉は、そもそも取り扱わないのです。
人文社会系の学者が「学問の自由」を持ち出すことについて、ある自民党の長老議員は、「学問の自由は水戸黄門の印籠か」と皮肉を述べたということですが、実際に人文社会系学者が「学問の自由」を持ち出す場面を見ると、証明や議論に行き詰ったときであり、もうこれ以上議論しても無駄、個人のイデオロギーの問題という意味合いです。即ち、議論をジエンドにするという意思表示であり、これは人文社会系学者のギブアップ宣言と言えると思います。