サラリーマンが学ぶべき戦国武将は藤堂高虎
サラリーマンが人生の参考にする戦国武将の3傑は、豊臣秀吉・織田信長・徳川家康だと思われます。いずれも天下人ですし、この3人を主人公とする歴史物語が多数書かれ、テレビや映画でもよく取り上げられていますから、そうなるのも当然です。
しかしよく考えると、この3人を参考にしてよいサラリーマンは極めて限られることが分かります。先ず徳川家康は三河の古くからの大名の息子でした。会社で言えばオーナー企業の息子みたいなものです。従って徳川家康の物語はオーナー企業の息子には参考になっても、一般入社のサラリーマンには参考になりません。織田信長は尾張の中小大名の息子であり、徳川家康と似たような境遇です。従って織田信長の物語も参考になるのは中小企業の息子のみです。豊臣秀吉は農民の倅から足軽として織田信長に仕えて実績を上げ天下人にまでなっていますので、一般サラリーマンの参考になります。それでも秀吉のように一挙に天下人に駆け上がった日本人は他におらず、一般サラリーマンで参考になるのはごく少数です。
私が多くのサラリーマンが参考にすべきと考える戦国武将は藤堂高虎です。高虎の人生は足軽から始まっており、一般サラリーマンと同じです。高虎は浅井長政から始まり阿閉貞征(あつじさだゆき)、磯野員昌、織田信澄と主君を変え、21歳のとき長浜城主となった羽柴秀吉の弟羽柴小一郎(以下豊臣秀長)の家臣(足軽)となります。秀長は、性格は温厚で部下思いの主君だったようです。この頃秀長の兄秀吉は織田家において成長株であり、信長から命じられる仕事も多く、秀吉はその多くを秀長に振っていたと思われます。秀長は自前の家臣を雇い始めたばかりで、体が大きく頭もよい高虎は有望株だったようです。そこで秀長は秀吉から命じられた仕事の現場監督を高虎に命じます。当時最大の仕事は安土城築城の分担だったようです。ここで高虎は石垣積み職人集団である穴太衆や宮大工集団である甲良衆とつながりができ、後に城作りの名人と言われる人的ネットワークを作ったようです。その後秀長は秀吉の中国攻めの中核を担ったことから高虎はその最前線で活躍することになります。体が大きく、槍や鉄砲も得意としていましたから、目立った活躍をしたようです。そこで次々と加増され足軽から侍大将という戦闘集団のトップを務めるほどになります。高虎の活躍もあり上司の秀長は但馬12万石の国持大名となりました。その後中国を西に攻め進み、備中高松城攻めの最中に本能寺の変が起こり、秀吉軍は中国大返しを敢行し、明智光秀との天王山決戦に勝利します。この後秀吉は天下統一のため、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、紀州攻め、四国攻め、九州攻め、小田原攻めと休む間もない戦いを続けますが、高虎は秀長軍の主力して活躍します。そして小田原攻めに勝利し、秀吉の天下統一がなって間もない1590年秀長が病死します。ここで高虎は後継者の秀長甥(養子)の秀保を支え、秀長家を切り盛りします。この頃秀吉は朝鮮出兵を命じており、秀保に代わり高虎は水軍を率いて朝鮮で活躍します。陸での戦闘も強いですが、海での戦闘も強いです。
朝鮮の役が続く中1595年秀保が病死します。高虎は元秀長養子の仙丸(丹羽長秀三男)を後継者にするよう秀吉に献策しましたが認められませんでした。これに失望した高虎は出家して高野山に上ります。これを知って熱心に招聘したのが徳川家康です。家康は秀長との付き合いが深く、高虎の実力を良く知っていました。これに対して高虎を家康に取られては一大事とばかり秀吉が動きます。高虎と親交が深い讃岐高松藩主生駒親正を派遣し、口説き落とします。結局高虎は宇和島7万石を与えることで秀吉の直臣となります。秀吉に仕えていた時代の高虎は朝鮮の役一色です。1598年秀吉が死去すると大老家康が朝鮮から撤兵を命じ、高虎は帰還兵の輸送を担います。
帰国後は大老として支配力を強める家康と豊臣家支配を維持しようとする石田三成らの暗闘が始まります。三成派は何度か家康暗殺を狙ったようですが、高虎がこの情報をいち早く探知しこれを防ぎます。これらにより家康は高虎への信頼を深めて行ったようです。その後1601年の関ヶ原の戦いでも高虎は一貫して家康に味方します。その結果関ヶ原の戦い後高虎は宇和島8万石から伊予半国20万国に加増され、西日本の豊臣恩顧の大名の監視を担います。
慶長11年(1606年)に江戸城修築を命じられてから江戸にいることが多くなり、家康との親交を深めたようです。高虎は江戸城修築への貢献で2万石加増され、都合22万石となりますが、この前年には伊予にいた実子大介(5歳)とその生母(側室)を人質として江戸屋敷に住まわせています。これはその後制度化されますが高虎がやりだしたことであり、後世「ゴマすり」「あざとい」と言う評価に繋がっているようです。その後高虎はいち早く江戸と駿府に屋敷を構えています。それも城の大手門に近い特等地です。また京や伏見・大阪にも屋敷を持ち、なるべく長く家康や秀忠の近くに居るように努めています。これにより家康や秀忠と直接接し、譜代大名から高虎のあらぬ話が家康や秀忠の耳に入らないようにしていたと思われます。このように第三者からはあざといと思われても主君からは喜ばれることを先んじてやっています。
これらの行為をもって後世の歴史家が高虎を「主君を7人も変えた変節の人」「風見鶏」「世渡り上手」「ゴマすり」などと揶揄したため、高虎は戦国武将の中で不当に低い評価となっています。しかしこれらの行為は、徳川譜代大名支配の中で家康や秀忠、家光から信頼を勝ち取り、譜代筆頭の井伊家と同格にまでなった高虎のリスクマネジメントだったと考えられます。
もちろん高虎がここまで出世したのは、ゴマすりなどのせいではなく家康が欲しがる技術を持っていたからです。高虎は槍や鉄砲・合戦という典型的な戦国武将としての実績ばかりでなく、水軍指揮、築城の実績でも抜きんでており、検地や山奉行の経験ありましたし、茶の湯や和歌などの文化面の嗜みもありました。ある意味スパーテクノクラート戦国武将とも言える存在でした。家康は外様であっても徳川譜代にない技術を持つ人材は登用しています。高虎と同時代に旧武田の家臣ながら金山管理の技術を持っていた大久保長安には佐渡金山など幕府の殆どの金山・銀山の管理を任せ、奉行にまで登用しています。長安は死後不正蓄財が暴かれ、一族は処刑されましたので、高虎は更に身を律することとなったと思われます。
このように藤堂高虎が徳川家康に重用されたのは優れた技術を持っていたからですが、主君の痒いところにも手が届くあざとい程の心配りがあったことも重要な要素だったことは間違いありません。これは現代のサラリーマン社会でも重要な要素を占めていると思われますので、多くのサラリーマン諸氏にとって高虎の生き方は参考になると思います。
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