新聞は社会の木鐸からネットの餌へ
最近新聞の存在感がめっきり薄くなりました。私が東京で会社員だった頃は、朝の電車の中は新聞を2つ折りにして読む人がたくさんいました。これも最近は殆ど見かけず、多くがスマホを見ているそうです。スマホで新聞の電子版を見ていれば新聞紙がネットに替わっただけですが、そうではなく新聞そのものが見られなくなっています。それが新聞の購読部数に表れています。日本新聞協会の資料によると2021年10月末時点での一般紙の発行部数(購読部数)は30,657千部となり、前年同期より1,794千部、5.5%減少したようです。この結果一世帯当たりの一般紙購読割合は0.53となっています。2000年には1を超えていましたから、20年で世帯の半分しか購読しなくなったことになります。これは事業として見ても余り例を見ない減り方です。理由としては、即時性のあるインターネット情報に負けている点が一番大きいでしょうが、家計の所得が増えない中で4,000円を超える購読料と新聞の価値が見合わなくなっていることもあります。
インターネットが即時性という点ばかりでなく、内容も新聞の価値を引き下げています。例えばインターネットには新聞の公開記事も掲載されますが、それには多くのコメント(書き込み)が寄せられています。これを読むと、新聞情報よりも遥かに詳しい内容や斬新な視点、多様な意見があり、とても面白いのです。コメントが書き込まれる対象としては、新聞記事が一番多いので、新聞はネット書き込みの対象としては価値があることになります。
かって新聞は、社会の木鐸(ぼくたく:世人に警告を発し、教え導く人)とされ、朝日新聞の天声人語は大学入試の国語の試験に良く使われるなど、高いステータスを持っていました。それが今では新聞記事がネットの書き込みの餌食になっています。新聞記事は5W1Hに拘り、正確な表現が求められますので、記者の個性が見えず、面白さはありません。その点ネットの書き込みは、記者のような制約がないため、書いた人の個性や主張が明確で、読んで共感するものが多数あります。従って新聞よりネットが面白いということになります。でもそのネットの書き込みは新聞記事に対するものが多いことから、今後新聞は社会の木鐸ではなく、ネットの餌として存在価値を保ち続けると考えられます。