加藤清正は「暴れん坊将軍」の曽祖父

戦国武将加藤清正(以下清正)は歴史上豊臣恩顧の大名の代表的存在になっていますが、実はそうではありません。清正は秀吉死後(慶長3年(1598年)8月)徳川家康に接近し、徳川恩顧の大名に変身しています。

清正は、秀吉に育てられ、若くして(26歳)肥後半国の大名に抜擢されたことから、秀吉に恩義を感じていたのは間違いありません。しかし、秀吉の死後は、次の天下人は徳川家康と見定め、家康との関係を強めています。先ず秀吉の死により朝鮮から引き揚げてきた翌年の1599年には、家康の養女かな姫(家康の生母於大の弟刈谷城主水野重忠の娘)を継室としています。その後1606年には、清正の長女あま姫を徳川四天王の1人舘林藩主榊原康政の嫡男康勝に嫁がせています。そして、慶長14年(1609年)9月には、家康十男徳川頼宜と清正次女八十姫の婚約が決まっています。その結納使が熊本城を訪れた翌年の1610年に熊本城本丸御殿「昭君之間」が完成しています。これらの事実を見ると、秀吉死後、清正は徳川家の有力な姻戚大名となっていることが分かりますし、「昭君之間」は、八十姫と頼宜の婚約の儀式に間に合わせて造られたと考えられます。

八十姫と頼宜の婚約後清正は一層家康のために働くようになります。名古屋城築城において名古屋城天守台の石垣造りを担いましたし、慶長16年(2011年)3月28日の豊臣秀頼と家康の二条城会見は清正の尽力により実現しています。この後清正は同年6月熊本に帰る船中で発病(脳卒中?)し熊本城で死去しますが、徳川家では約束通り八十姫と頼宜の結婚を実現しました。また舘林藩主榊原康政の嫡男康勝に嫁いだ清正長女あま姫は、康勝が大坂の役での負傷により死去した後将軍秀忠側近の大坂城代阿部正次の嫡男正澄に再嫁していることから、徳川家が加藤家を大切にしていたことが分かります。また将軍秀忠は清正死去後肥後藩主となった清正息子加藤忠広を可愛がり、妹で会津藩主に嫁いでいた督姫の娘を忠広正室にします。そしてその間に生まれた光正には松平姓を許しています。こんな中寛永9年(1632年)5月秀忠死去により家光が名実ともに将軍になったことから、秀忠に可愛がられていた忠広は家光将軍の威光を示すための生贄として改易に処せられます。理由は「諸事不作法」とされており、決定的な悪事があったわけではありません。

通常改易になった藩主の一族は歴史から消されてしまい、その後復活することはありません。清正の名前も加藤家改易により人々の口に上ることはなくなり、肥後の住民からも忘れられていったと思われます。忠広後肥後藩主となった小倉藩主細川忠利は清正の位牌を持って熊本城に入城し、清正への敬意を示しましたが、その後は清正菩提寺の本妙寺への保護を減らすなど清正の影響力を消しにかかています。そのため清正死後100年経った1710年頃には肥後でも清正の名前はすっかり忘れ去られていたと思われます。

これが1716年に第5代紀州藩主徳川吉宗が第8代徳川幕府将軍(松平健さん演じるテレビ時代劇「暴れん坊将軍」として有名)に就任したことから、清正の名前が表舞台で復活することになります。それは吉宗の祖父初代紀州藩主徳川頼宜の正室が清正次女八十姫であったからです。ただし吉宗の父は頼宜の側室の子であったことから、八十姫と吉宗の間には血のつながりはなく、加藤家改易により紀州徳川家では加藤家の存在は消し去られていたと思われます。従って吉宗も八十姫の存在は知っていたとしても清正の娘であることは知らなかったと思われます(八十姫は清正の死後、母の実家水野家の養女として嫁入りしている)。

しかし吉宗は将軍就任後肥後細川藩に清正の資料や遺品の捜索を要請します。これで吉宗の祖母が清正次女八十姫であることが公となり、この後清正は将軍(外)曽祖父(祖母の父)として復活することとなりました。ではなぜ清正を全く知らなかったと思われる吉宗が清正に関心を持ったかと言うと、当時の幕府老中に阿部正喬(まさたか)がいたからだと思われます。正喬は大坂城代阿部家に嫁いだ清正長女あま姫の末裔だったのです。吉宗が正喬と話した際に正喬から吉宗祖母八十姫と自分の血筋であるあま姫が姉妹であること、そしてその父は清正であることが語られたと思われます。この後幕府では吉宗血筋が第16代まで将軍を続けましたので、この間清正は将軍家曽祖父として幕府内で崇められました。ただし世の中では豊臣恩顧の大名として終生豊臣家に忠義を尽くした武士の鑑として奉られ、将軍家曽祖父ということは知られていなかったようです。

その後清正は国民に天皇への忠義を求める明治政府にも利用され、教科書にも載ったようです。歴史は為政者の都合の良いように書き換えられる典型例でもありますが、歴史学者が誰も訂正しないのも不思議です