八王子発展の祖は大久保長安なのに歴史から消された

東京都八王子市は人口約58万人を誇る多摩地域最大の都市です。東京都でも23区を除くと人口最大の自治体となります。もともと多摩地区の行政と商業の中心都市であったところに、東京都心から約40kmで通勤範囲内であるため、高度成長期にニュータウンが開発され人口が急増したようです。また1960年以降23の大学・短大・高専が広いキャンパスを求め移転してきたため、学生数約11万人という日本有数の大学都市となりました。

そもそも八王子は、関東を東西に横切る甲州街道と川越・前橋・日光など関東北西部を結ぶ日光脇街道、小田原・鎌倉・横浜など関東南東部および南西部を結ぶ浜街道が交わる交通の要所にあり、初めは宿場町として発展し、その後戦国時代に北条氏が軍事拠点を置いたことから軍事都市としての機能も持っていきます。そして八王子が関東の交通・商業・軍事拠点の地位を不動のものとしたのは、1591年に徳川藩の代官頭長谷川長安(ながやす。以下長安)が徳川家康から徳川直轄領武蔵国八王子に所領8,000石(一説には旧北条氏の所領9万石)を与えられてからとなります。長安は八王子に陣屋を置き、宿場を整備し、頻繁に氾濫していた浅川に土手を築くなどの氾濫対策を実施します。そして家康に対して武蔵国の治安維持と国境警備のため八王子に八王子五百人同心と言う常設の軍事部隊の設置を提案し認められます。これは譜代旗本およびその配下の譜代武士からなる徳川直轄の軍隊で、長安が司令官と言うことになります。

このように長安は八王子発展の基礎を作った所謂八王子発展の祖とも言える人物ですが、八王子でこの名前が語られることは殆どないようです。広島県福山市で徳川譜代大名水野勝成が福山開祖として銅像まで建てられているのと対照的です。これは長安死(1613年)後長安の不正蓄財が暴かれ、一族男子が処刑されたことが原因です。これ以降長安の名前は歴史から抹殺されてしまったのです。

長安は、猿楽師の家系で、父は武田信玄お抱えの猿楽師でしたが、長安は猿楽師としてではなく家臣として信玄に取り立てられ、姓は直接仕えた家老の姓から土屋と名乗り、武田領国における金山開発や経理を担当していたようです。その後武田が家康に滅ぼされると三河に移り住み、家康譜代の有力武将大久保忠隣(ただちか)に仕え、甲斐の再建で頭角を現し、大久保姓を与えられます。その後長安は、家康に対して金山開発の経験と才能を売り込み、目に留まるところとなります。ここから先長安は、家康の評価を勝ち取り、異例の出世を遂げます。1590年、家康が関東に移ると、長安は家康から3人の奉行の1人に任命され、家臣団に分配する元となる土地の台帳を作ります。そして、家康の直轄領100万石を管理する3人の関東代官頭の1人に任命されます。翌1591年には武蔵国八王子に8,000石の所領を与えられたのは前述の通りです。1600年の関ヶ原の戦いに際しては、輜重役(しちょうやく。軍事物資の輸送・補給)を担います。関ヶ原の戦い後は、9月に大和代官、10月石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役、1601年春には甲斐奉行、8月に石見奉行、9月には美濃代官に、兼任の形で任命されます。当時鉱山開発のことが分かる人材が長安くらいしかいなかったのでしょうが、長安に対する家康の評価が非常に高かったことが分かります。

その後1603年2月に家康が征夷大将軍に任命されると、長安は、従五位下石見守に叙任され、家康六男松平忠輝の付家老にも就任します。同年7月には佐渡奉行、12月には所務奉行(のちの勘定奉行)、同時に年寄(のちの老中)に列せられ、1606年には伊豆奉行も兼ねます。このように長安は、全国の金山銀山の経営を一手に任され、同時に関東における交通網の整備も担当していました。現在も残る一里塚の制度は長安が作ったと言います。

この結果、長安の権勢は強力だったようです。経済面では、金山・銀山などの鉱山からの収入は採掘高に応じて幕府と長安の取り分が決まるため(例えば幕府6:長安4。長安は4の取り分で人夫その他鉱山の経費一切を賄う。)、採掘高が幕府との取決高を上回れば長安の収入は大きくなります。長安が鉱山の責任者に就任後、採掘高は何倍にも増加したため、長安の収入(取り分)は膨大な額(量)になっていたと思われます。また政治面では、付家老をしていた忠輝が長安の斡旋で伊達政宗の娘五郎八(いろは)姫を娶ったため、正宗との結び付きが強いものとなります。政宗は、当時虎視眈々と天下取りを狙っていたと言われており、長安は政宗と協力して忠輝を将軍にする野望を持っていたとも言われています。そのため長安は、これを支援することを約した大名などが署名した連判状を作成していたと言われています(ただし、これは海外雄飛を志す長安の構想に賛同する者が単に署名したものという説もあります)。

私生活面では、各地で代官・奉行をしていたため、その地毎に多くの側女を抱えるなど無類の遊び好きだったと言います。また鉱山巡視の際には、女70~80人を含め総勢250名程を同行するなど、行動が派手だったと言います。

しかし、長安が作事奉行として参加した名古屋城築城の頃には、この長安の権勢に陰りが見え始めていました。先ず鉱山の採掘高が落ちてきていました。また、前述の連判状の噂や岡本大八事件への関与の疑い、主家筋である小田原藩主大久保忠隣と家康側近本多正信・正純親子との対立など難しい問題に直面し、一歩間違えれば失脚もあり得る状況でした。こんな中名古屋城築城の作事奉行となった長安は、家康の覚えを良くするため名古屋城天守閣の屋根に金のしゃちほこを飾ることを提案し、その金として自分が金山奉行の取り分として蓄財していた金(約270kg)を献上したものと思われます(歴史的には未検証。長安は自分が死んだら金の棺に入れるよう遺言していたと言われている)。これで長安は家康の覚えがよくなり一息ついたと思われますが、長安死後不正蓄財が暴かれ、一族の男子は全員処刑され大久保長安家は断絶となります。江戸時代改易となった大名家は例外なくその後歴史から存在を消し去られています。八王子発展の祖である大久保長安もこうして八王子市民にその名前を知られることがなくなってしましました。(NHKブラタモリの八王子の回のとき、陣屋や軍事拠点だった紹介のなかで長安の名前が出てきましたが、小さな扱いでした)。