国立大学は定員を半減して無償化すべき
慶応大学の伊藤塾長が中央教育審議会で国立大学の授業料を今の約3倍の150万円程度に引き上げるべきだと提言し、低所得家庭の子供の大学進学を不可能にするものという批判が上がっています。伊藤塾長の提案の意図は、「高度な大学教育を実施するには、学生1人当たり年間300万円は必要」「国立大の家計負担は(その半分にあたる)150万円程度に引き上げるべきだ」ということのようです。
高度な教育を実施するのにお金がかかるのは事実ですが、国立大学がすべて高度な教育を実施しているわけではなく、実際は学力に応じた教育になっています。国立大学で高度な教育を実施する必要があるのは、厳しく見れば東大・京大のみであり、もう少し広げれば今後卓越大学に認定される大学までとなります。これらの大学が予算不足で高度な教育や研究が出来なくなっているのは事実であり、そのために卓越大学に認定して資金を供給しようとしています。この結果卓越大学以外の大学は、高度な研究や教育機関ではないと位置付けられ、予算は今後とも減らされることになります。これらの大学は大学の運営を見なおす必要が出てきますが、そのやり方は2つあります。
1つは、授業料を引き上げることです。しかしこれらの国立大学は駅弁大学と言われ県単位またはブロック単位からの入学者が大部分を占めており、東京や大阪と比べると家計の収入がぐっと低くなります。そのため優秀な学生を確保する、または地方に優秀な人材を供給しようとすれば、授業料の引き上げは有効な政策とは言えません。
もう1つは、逆に授業料を引き下げることです。これは国の予算を増やすことを意味しますが、教育は国を豊かにするインフラであり、教育予算は防衛予算と同じく世界的基準で確保する必要があります。経済協力開発機構(OECD)が2023年に公表した国際調査では、日本は高等教育段階の私費負担の割合は64%で、OECD平均(30%)の倍以上となっており、国の支出が少ないことは明らかです。これが日本の衰退の原因になっており、国立大学授業料は引き上げではなく引き下げが必要な根拠となります。日本でも大阪公立大学や東京都立大学は授業料無償化を計画しており、この結果この2つの大学に優秀な学生が集まり、ひいては大阪府や東京都の発展をもたらすことを考えれば、国立大学授業の引き上げはあり得ないことになります。
伊藤塾長の慶大は経済的上級家庭の子弟教育機関であり、小学校から年間100万円を超える授業料(納付金)を徴収しており、その結果早くから上級国民になるための高度な教育を実施しています。これは慶大が経済的上級家庭の子弟教育機関と位置付けているから出てくる政策であり、大学の位置付けが違えば当然授業料政策も違ってきます。国立大で慶大に相当する東大や京大は、慶大と違って経済的状況に関係なく優秀な学生に高度な教育を行う大学であり、その結果国が予算措置を行い授業料を低く設定するのは当然と言えます。これを慶大並みにしろと言うのは傲慢または幼稚としか言いようがありません。それに慶大は大企業社員の養成機関であり、出来上がった企業には都合の良い人材を養成しますが、戦後勃興した起業家に慶大卒が少ないことやノーベル賞受賞者を出していないことを見れば、無から有を作り出す人材の養成はできません。
慶大とは真逆な位置付けにある国立大学の授業料は無償化すべきであり、今後授業料無償化が計画されている大阪公立大学および東京都立大学と対抗するには無償化するしかないと考えられます。その場合高校卒業者数が1965年の約236万人から2023年には約109万人に約64%も減少しているのに、国立大学の定員は約10万人と変わっておらず、国立大学入学者の学力も相当低下していることが予想されることから、定員を半減する必要があります。かつ文系を減らし理系を増やし、文系はオンライン授業や通信教育中心にするなどの改革が必要となります。国立大学文系は東大と京大に通信教育部を置き、オンラインや通信教育で学ぶことが考えられます(あるいは放送大学で学ぶ)。この方が通学より学力は上がります。文系の学生はオンラインや通信教育を受ける一方、弁護士になりたければ司法試験予備校に、公認会計士になりたければ会計士学校にいくなど大学教育を受けながら職業教育も受ける人が多くなると予想されます。また授業料無料ですから、卒業認定基準も厳しくし、現在の国立大学の入学は難しいけれど卒業は簡単という評価を一変させます。こういうことをするのが日本に必要な国立大学改革です。