必要なのは取扱説明書が読める国語力
私は日本の国語教育は間違っていると思います。学校で行われた代表的な国語教育と言えば、小説や随筆の一部を読ませ、その意図を読み取らせるというものでした。そのため高校入試や大学入試で、著名な小説家や随筆家の文書から出題され、「この文書の意図を述べよ」とか「作者が言いたかったことか何か」とかいう問題が出されました。そのため国語力強化の方法はたくさん小説を読むこと(読書)とされました。確かにたくさん本を読んだ人は、漢字や難しい言葉をよく知っており、作文や論文が上手かったのは事実であり、読書は国語力強化に効果があるのは間違いありません。そして社会に出ても文書を書く機会は多いことから、この国語教育は一定の効果があると言えます。
しかし現代のようにインターネットやスマホが必須に時代になると、国語教育の在り方も変わってきているように思われます。現代において必要な国語力は、インターネットやスマホなどの取扱説明書を読み、それに基づいて設定や操作ができることになっています。インターネットの設定も最近はずいぶん簡単になりA41枚の説明書になっているものも見られます。スマホの取扱説明もずいぶん薄く簡単な記述なってきています。しかしこれが読めずパソコン業者や携帯ショップに依存している人が相当見られます。これは高齢者に多く、昔の国語教育の弊害を表しています。
私は法学部卒で、仕事でバイオテクノロジーや創薬を勉強し、退職後コンピュータプログラミングを勉強しましたが、これにより文系国語と理系国語の違いが見えてきました。文系の国語では、法学部で言えば故意や過失、責任、瑕疵、受忍限度など実体が見えない言葉を扱います。最初に概念(イメージ)を把握するまで難儀しますが、把握してしまえば言葉を聞いてイメージを繋ぎわせる作業となります。従って殆ど実体の探求作業が入ってきません。ところがバイオやプログラミングになると言葉と実体が1対1に対応しており、言葉の作業は実体を組み立てることになります。そのため先ずは実体を把握し、それを正確に表す言葉にし、言葉を組み合わせまたは組み立てていくことになります。これは部品を組み立てていくモノづくりと同じ作業です。こういう訓練をずっとしてきている理系出身者が取扱説明書に強いのは当たり前と言えます。一方実体が不明なイメージ用語を多用している文系出資者は、取扱説明書を前にすると頭が働きません。社会生活においては、実体に働きかけないとニッチもサッチも行きませんから、文系出身者も取扱説明書が読めるような国語力を身に着ける必要があり、学校ではそのような国語教育が必要となっています。