新聞に必要なのは「ファクトチェック」ではなく「エビデンス」

最近ファクトチェックという言葉をよく聞く(見る)ようになりました。マスコミによく登場するようになったのは、昨年の兵庫知事選挙で落選確実だった斎藤知事がSNSで支持が広がり選挙終盤に形成を逆転し始めた頃からです。その際のファクトチェックという言葉は、SNSの間違った情報を排除するという意味で新聞、テレビなどのマスコミが使っていたように思われます。しかしSNSでこれらのマスコミは権威とグルになったオールドメディアと蔑まれ、ファクトチェックはオールドメディアの報道を正当化する手段と考えられました。従って言葉の本来の意味とはかけ離れた存在になってしまっています。

たぶんファクトチェックの必要性を感じているのはマスコミ自身ではないでしょうか。兵庫知事選挙やその原因となった公益通報事件での新聞、テレビの報道が本当にファクトベースだったのかどうか新聞社やテレビ局でも自信が持てなくなっているように思われます。それは長い間に出来上がったテンプレート記事に慣れ切って、ファクトベースで記事を書くことを忘れていたと反省する社員が多く存在することを意味します。その結果最近の新聞、テレビの報道は少し慎重になったように思われますが、何かが徹底的に欠けています。それは何かというとエビデンスではないでしょうか。エビデンスと言えば理系の専売特許のように思われますが、社会科学である新聞やテレビの報道でも不可欠なように思われます。新聞やテレビの報道ではファクト=エビデンスと理解されているように思われますが、これは明らかに異なります。新聞やテレビの中で使われるファクトにはエビデンスのないものが多数含まれています。新聞やテレビの報道では取材源でファクトを判断していることが多数見られます。例えば検察官が述べたこと(リークしたこと)はファクトとして裏取りせずに記事にしています。しかしこの結果冤罪に手を貸したことになっているケースが多数出ています。その他だれだれ首相が述べた、だれだれ大臣が話したことはファクトとして中身の真偽性や妥当性は検証せずに報道されます。その結果発言内容がファクトになってしまっています。エビデンスの有無にはファクトチェックとは別次元の技能と能力が必要になり、文系出身の記者にとっては難題となります。世の中に溢れる商品は、元はと言えばわずかな科学上の公式・知見を用いて開発製造されたものであり、その公式・知見は文系出身者でも理解取得可能です。新聞やテレビの記者は、エビデンスベースの記事を書くにあたり理系的素養が不可欠になっています。