豊臣秀頼の本当の父親は豊臣秀勝!?
この表題を読んで「何言ってるの?」と思われた方も多いと思います。学校で豊臣秀頼は豊臣秀吉の子と習ってきていますから。しかし、秀吉の子ではないのではないかという説も根強くあります。なぜなら、秀頼が生まれたのは秀吉56歳のときであり、それまで秀吉には子がなく、子種がないと思われてきたからです。秀吉は無類の女好きで、側室は13人とも16人とも言われます。しかし、淀殿以外の側室の間では、子は一人も産まれていません。子、とりわけ男の子がいなければ、お家の一大事ですから、秀吉は子を生んだことがある女性を選んで側室にしていた時期もあるそうです。また、秀吉の基では子を産まなかった側室を他の大名に嫁がせたところ子を産んだという例もあります。こういうことから、秀吉には子種がないと思われていました。なのに淀殿との間には2人の子が生まれました。淀殿は信長の妹お市の方と北近江の大名浅井長政の長女で、1588年22歳のときに秀吉の側室になっています。そして23歳のときに長男鶴松を生みますが、鶴松は2年後早世します。その2年後の1593年、淀殿27歳のときに、次男秀頼を生みます。それまで何人もの側室との間には子が生まれなかったのに、淀殿との間には何故こんなに順調に生まれるのか、誰だって疑問を持ちます。秀頼が生まれた当時大阪城内でも話題にするものがあり、怒った秀吉は話題にした女中などを手打ちにしたと言われています。
秀頼の実父は秀吉ではないと考える人たちの中では、秀頼の実父は、淀殿の乳母大野卿局の長子大野治長ではないかという説が多いようです。それは、大野卿局は淀殿が近江に居たときから淀殿に仕え、淀殿と治長は乳兄妹のように育ったからというのが理由のようです。また、石田三成という説もあります。石田三成は近江出身であり、淀殿と三成で豊臣政権の実権を握り、浅井家再興を図ろうとしたという説です。私は、この2人は違うと考えます。理由は、この2人は秀吉の怖さを知り尽くしており、ばれたら打ち首間違いない子作りに関与するはずがないと考えるからです。そして秀頼の実父なら、その後殺されている可能性が高いと考えるからです。
私の考えでは、秀吉が自分は子種がないと認識し、そんな中で自分より30歳くらい若い愛する淀殿が子供を欲しがったため、誰かに自分の代わりに子種を提供させるとしたら、先ずは豊臣の遺伝子を持つ者です。そうなると、秀吉の姉智の子、秀次、秀勝、秀保が候補に挙がります。秀頼が生まれた当時秀保は14歳と幼かったことから除外され、秀次(25歳)、秀勝(24歳)が候補となります。
先ず、秀次は1568年生まれで、秀吉が1591年頃関白職を譲っており、1588年に生まれた鶴松および秀頼の子種を提供したことは十分考えられます。秀次は、秀吉に負けず劣らず女好きで、多くの側室を持ち、子供もたくさんいましたから、子作りは得意でした。秀吉と秀次の仲は、秀頼が生まれてから急速に悪化し、その2年後の1595年には、秀次は謀反を企んでいたとされ、切腹させられます。この真の原因は、秀頼の本当の父親は秀次であり、このことが秀次により明るみに出ることを恐れた秀吉が、秀次殺害を決めたとも考えられます。しかし、秀頼誕生後秀吉は、秀次の娘を秀頼の妻にし、秀頼を秀次の後の関白にする道を敷こうとしていたと言いますから、いくら秀吉でも父が同じ男女を結婚させるとは考えられません。従って、秀次は秀頼の本当の父親ではないと思います。
それでは秀勝はどうでしょうか?秀勝は秀次より1歳下で、秀次と同じく秀吉の養子になっています。そして丹波亀山や甲斐・信濃、岐阜などの領主となりました。秀吉は、明・朝鮮を征服したら、明を秀次、朝鮮を秀勝、日本を秀頼に統治させようと考えていたと言います。そして、秀勝で最も注目すべきは秀頼が生まれる前の1591年頃、淀殿の妹お江(のちに徳川幕府第三代将軍徳川秀忠の正室)を正室としていることです。ここから、秀勝はお江を通じ淀殿とも交流があったと考えられ、秀頼の有力な父親候補となります。秀勝は、1592年4月に文禄の役のため朝鮮の巨済島に渡り、そこで同年10月に病気で死去したとされています。秀頼は1593年8月に生まれとされていますから、淀殿は1592年10月頃身ごもったことになります。この頃秀吉は名護屋城に滞在していますから、淀殿も名護屋城に居たとすれば、秀吉(或いは淀殿)の要請により秀勝が巨済島から一時的に帰国し、子種を提供することは可能です。淀殿が名護屋城に居たかどうかについては、明確な資料がなく、説が分かれています。もし、居たとすれば、秀勝父親説は現実性を持ってきます。秀勝が1592年10月に出征先の朝鮮巨済島で病死したとされているのは、後に秀勝が子種を提供したことが秀勝の口から洩れることを恐れた秀吉により、殺されたのかも知れません。あるいは、秀吉の要請ではなく、淀殿から妹のお江を通じ秀勝に子種を提供してくれるよう密かに要請したとも考えられます。その場合は、そのことが秀吉にばれて殺害されたとも考えられます。
秀頼の実父は秀吉ではないという説でも、秀勝実父説は見受けられません。大野治長や石田三成説よりも遥に有力な仮説だと思うのですが。
2018年9月16日;追補)
その後山岡荘八の「徳川家康」26巻を読んだところ、この問題が第14巻に書かれています。秀吉は、母の大政所病気見舞いのため、文禄元年(1592年)7月29日に朝鮮出兵の指揮のため滞在していた肥前名護屋城から大阪城に戻っています(大政所は秀吉が名護屋を発った7月22日に死去していた)。この際淀殿も一緒に帰り、淀殿は直ぐに大阪城から淀殿の屋敷である伏見の淀城に移ったとあります。秀吉は文禄元年10月1日に再び名護屋に向け大阪を発っていますので、秀吉が大阪にいたのは8月、9月の2か月間となります。その後淀殿は名護屋には行っていません。その2か月間に秀吉が淀殿がいる淀城に行った日はそうないと考えられ、淀殿が秀吉の子を宿す機会は限られていたことになります。淀殿懐妊を知った秀吉の手紙には「淀殿がまた孕んだと聞かされたが、それは秀吉の子ではない。秀吉には子はいない。どこまでも茶茶一人の子ゆえ、そう考えて処理せよ」また「その子の名はひろいとし、決しておは付けず、ひろいひろいと呼び捨てにせよ」と書かれていました。同時に大阪城内でも、淀殿が懐妊したのは秀吉の子ではないのでは、という噂が広がっていたようです。淀殿は、秀吉の手紙とこの噂を気にし、子が懐妊期間とされる10月(つき)10日(か)に相当する8月10日以降に生まれたら、噂が真になると出産日に気を揉んだようです。
そういう中で秀頼は文禄2年8月3日(1593年8月29日)に生まれて、この疑義は何とか免れました。
私が秀頼の実父ではないかと考える豊臣秀勝ですが、文禄元年の4月に朝鮮の巨済島に行き、同年9月9日に病死したことになっています。しかし、秀勝は秀吉の姉智の子であり、大政所は祖母に当たるため、秀吉は秀勝を巨済島から呼び戻し、大阪に同行したのではないかとも考えらえます。そうだとすればその間淀殿と秀勝は伏見と大坂にいたことになります。淀殿が大坂城にいれば秀吉に知られず秀勝が淀殿に子種を提供することは難しいと思われますが、伏見の淀城に居たのなら、これは可能です。淀殿が秀勝の妻である妹のお江を通じて、秀勝に子種を提供してくれるよう依頼し、秀勝がお江とともに伏見の淀殿を訪問すれば怪しまれません。その場合、秀勝が9月9日に巨済島で死去したことになっているのが難点ですが、これは本当は、淀殿懐妊後、秀勝が子種を提供したことを秀吉が知り、将来に禍根を残さないため秀勝は秀吉の命により殺害され、淀殿が妊娠した時期の前に病死したことにされたとも考えられます。秀勝の死亡時期には何か作為が感じられます。
秀勝とお江には、文禄元年または文禄2年、娘(完子/さだこ)が生まれており、1595年お江が徳川秀忠に再嫁した後は、淀殿が引き取り養育しています。これは子種繋がりの処置とも考えれます。
だからやっぱり秀頼の実父は豊臣秀勝では、という仮説は捨てきれません。
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