懲戒処分の効力を否定する「人事権は俺にある」
7月27日、麻生財務大臣は財務省人事を発表しました。その中には、6月に理財局の文書改ざん事件で当時の文書管理責任者として厳重注意の懲戒処分を受けた岡本主計局長の財務次官への昇格が含まれていました。この人事に対して記者から懲戒処分との関係で疑問が呈されると麻生大臣は「人事権は俺にある。」と言い、一蹴したとあります。
これは人事権者が誰かの問題ではありません。懲戒処分の効力の問題です。これまでも公務員の懲戒処分の効力、とりわけその後の処遇に及ぼす効果が個人ごとに大きく異なることに疑問がありました。例えば、東京都の築地市場移転問題で、豊洲新市場の建物の地下部分が当初の計画と異なっていたことに対する関係者の処分では、OBについては都の斡旋により就いていた企業および団体の役職を辞任させましたが、現職の局長などは数か月の減給処分ののち昇格した人もいました。これは不公平であり、大きな不利益処分をされた人は浮かばれません。これは、賞罰による公平な人事が必要な公務員の人事では許されないと思われます。
私も国や県の審査会や検討会の委員をしたことがありますが、公務員の人事権者に対する対応は異常なものがあります。民間企業のように仕事の業績が数値で測れないものが多いため、人事権者の覚えの良しあしで処遇が決まるところが大きいため、如何に人事権者の目に留まり、良い覚えを得るかに汲々としている感があります。そして、要領よく人事権者に取り入った者が出世する仕組みが出来上がっているように思います。
ここで公務員は国民や住民の奉仕者であり、人事権者に奉仕するのではなく、国民や住民に奉仕すべきであると言うような原理原則論を言うつもりはありませんが、人事には守らなければならない規範があると思います。それは、賞罰は尊重しなければならないということです。とくに懲戒処分は人事権を制約するという原則です。やはり懲戒処分を受けたら、ある期間昇格はありえません。懲戒処分を受けて間もなく昇格させることは、人事権者の恣意にほかならず、職員の士気にかかわります。
戦国時代においては各大名や武士が命を懸けて戦功を競っていたわけですが、それを束ねる大将は、その評価については目付をつけて確認させ、更に衆議の上厳格に行っています。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康しかりです。「人事権は俺にある」と専横的に行った人はいません。そんなことをすれば一緒に戦う多くの大名や武士の心が離反すること必然でした。
安倍内閣では幹部官僚の不祥事が多発していますが、この原因は麻生大臣が発言した「人事権は俺にある」という意識にあります。この言葉は、官僚に「おれに忠誠を尽くせば出世させてやる」というメッセージとなっており、何をおいても首相を守ろう、大臣を守ろう、という意識を醸成しています。その結果、文書改ざんにまで手を染めた佐川元理財局長の辞任や国会で良心に反する答弁を行ったと思われる柳瀬元首相秘書官の退任へとつながっています。また、政府幹部に覚え良く出世していく少数の幹部以外の官僚にとってこの状況は腹立たしい限りであり、ならば自分たちは業務上の権限を利用して少しでも良い思いをしよう、と考えるようになります。その結果が現在の官僚不祥事を引き起こしているのです。
やはり公務員に対する懲戒処分は、人事権者も制約することを明文化すべきです。そして、有権者は、人事権を乱用する国会議員は選挙で落とすべきです。有権者は国会議員の子分ではありません。