熊本藤崎八幡宮の秋祭りがボシタ祭りと言わなくなった訳

熊本市の藤崎八幡宮は熊本を代表する神社です。そこの秋のお祭りは、5日間に渡り行われる伝統的なお祭りで、今年は9月13~17日に行われたようです。。私が熊本に住んでいた頃にはボシタ祭りと言われていて、最近まで今でもボシタ祭りと言うものと思っていました。昨年熊本に行き友人と話して、もうボシタ祭りとは言わないことが分かりました。言わなくなった理由は、朝鮮関係者からボシタ祭りの呼称に抗議があったから、ということでした。そして驚いたことに、「ボシタ」というのは、「××した」という男女の交わりのことだ、と言うのです。朝鮮関係者から抗議があってボシタ祭りというのを止めたということと、「ボシタ」と言うのが「××した」という猥語というのがどうも結び付きません。

そこでネットなどで調べてみました。

藤崎八幡宮は、935年朱雀天皇が九州鎮護のために創建するよう命じて造られた勅願神社で、石清水八幡宮を分霊したと言われています。藤崎八幡宮の秋祭りは、その頃から始まっていて、1000年以上続いていることになります。当初は魚や鳥などを放生することにより、自分や家族が病を免れ長生きすることを祈る放生会として行われていました。しかし、1868年の神仏分離令で神道と仏教を分かつ政策がとられたため、藤崎八幡宮も仏教行事を捨て、神道行事に専念することとなりました。その結果、藤崎八幡宮の秋祭りは、御神幸が中心となったようです。こういう流れの中で、1592年当時肥後半国の領主であった加藤清正は、朝鮮に出兵するにあたり藤崎八幡宮で戦勝祈願を行います。そこから藤崎八幡宮の秋祭りは、清正の朝鮮での戦勝を祈願する祭りの要素を加えていったようです。ボシタ祭りと言われだしたのは、豊臣秀吉の死去により清正が朝鮮から帰国し、藤崎八幡宮に感謝の報告した年の秋祭りで、自らが先頭に立ち100人の兵を従え、御神幸に供奉(ぐぶ)したことから始まります(随兵)。その際、音頭を採る者が「朝鮮、(滅」ぼした、(滅)ぼした」と言い、供奉の兵士が「(滅)ぼした、(滅)ぼした」と唱和したことから、ボシタ祭りと言われるようになったようです(小泉八雲書簡)。これを1865年松江藩士桃節山が旅行記に「ボシタ」とは「××した」の意味らしいと書き(ただし、誤って言い伝えられたようだとも書いている)、1870年の藤崎八幡宮宮司の大祭記録にも同様のことが書かれていたことから、一時まことしやかに語られていたようです。これは、どう考えても、庶民の猥談にしか思えません。

「ボシタ」という言葉が「朝鮮、滅ぼした、滅ぼした」から来ているとすると、朝鮮関係者からの抗議も理解できます。朝鮮出兵は誰が考えても朝鮮侵略であり、朝鮮の人々に多大な苦しみを与えました。そのことを考慮し、1990年にボシタ祭りという呼称を廃止したとあります。歴史問題に配慮した賢明な判断だと思われます。今はボシタという掛け声に変えて「ドーカイ、ドーカイ」という掛け声が使われているようですが、これは、祭りに参加させた馬を自慢する「うちの馬はどうですか?いい馬でしょう?」の意味と言うことです。

このことからも、加藤清正は熊本の生活文化の形成に大きな影響を与えていることが分かります。

(加藤清正についてはこちらも参考にhttp://www.yata-calas.sakura.ne.jp/