秀吉の後悔の声が聞こえそうな名護屋城跡

秀吉が1592年4月の朝鮮出兵の、と言うより明征服の本部として築城した名護屋城は、佐賀県唐津市の西部の玄界灘に突き出た波戸岬の丘陵(標高約90m)にあります。両側がフィヨルド風の入り江になっていて、多くの船を係留でき、朝鮮半島に近かったこと、また、名護屋という名前が秀吉の出身地名古屋と同じ発音だったことから選ばれたと言われています。

私は、高校の歴史の教科書に出ていたので、名護屋城という名前は知っていましたが、邪馬台国のように今では跡形もない所とばかり思っていました。しかし、城跡などが残っていると聞いて2年程前に見に行ってきました。

福岡からだとJR筑肥線で西唐津まで行き、駅前で路線バスに乗り換えて2時間くらいかかります。イカで有名な呼子の少し西です。名護屋浜というバス停で降りて、入江にかかる大橋を渡ると、徳川家康など多くの大名の陣屋跡が名護屋城を取り囲むように続きます。周囲約3kmに約120の陣屋があったそうです。城の敷地は約17万㎡と言いますから、広くありません(熊本城は約90万㎡)。しかし、周囲に築かれた城下町は、最盛期には人口10万人を超えていたと言いますから、狭い場所にとんでもない町ができていたことになります。「あらゆる人手を欠いた荒れ地」(ルイス・フロイス)に「野も山も空いたところがない」(平塚滝俊)くらいの町が突然現れて10年程度で消えて行ったことになります。まるで西部劇のゴールドラッシュの町のようです。

城は黒田官兵衛が縄張りし、黒田長政、加藤清正、小西行長、寺沢広高らが普請奉行となり、九州の諸大名を中心に動員し、わずか8か月で完成したと言います。城郭は、本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪などからなり、本丸北西隅に5重7階の天守があったと言います。城の敷地に近づいていくと残っている石垣から大きな城だったことが分かります。熊本城より大きかったのでは、という印象さえ持ちました。今は、建築物は何もなく、破却されたことが分かる石垣から当時が偲ばれるだけです。今でも更地となった本丸敷地からは玄界灘が見渡せます。秀吉はここから毎日海の彼方を見て朝鮮での戦勝を思い描いていたと思われます。

名護屋城は、1598年8月の秀吉死去により朝鮮から撤収した後、家主不在の状況になったようです。そして関ヶ原の戦いのあと、ここを支配する唐津藩主寺沢広高は唐津に城を築くにあたり名護屋城を解体し、その遺材を唐津城に利用したと言います。また大手門は仙台城に移築されたと言われています。これ以降、名護屋城は二度と利用できないよう石垣の四隅を切り崩す破却の処置がとられたようです。

江戸幕府にとっては、名護屋城は秀吉失政の象徴であり、今後朝鮮との関係を改善する上でも残しておけない存在だったようです。また、島原の乱においてキリスト教徒が原城に籠城したため、その後更に破却されたとも言われています。

名護屋城の敷地に接し、名護屋城博物館があります。ここは名護屋城跡地の保存整備事業を行うとともに、朝鮮の役や朝鮮と日本の交流の歴史を調査・研究・展示しています。朝鮮の役に関する資料もたくさん展示されているわけですが、各展示物コーナーでは、名護屋城が朝鮮の人々を苦しめることとなった日本の朝鮮侵略の歴史の始まりとなったことを謝罪するテープが繰り返し流されており、改めて日本は朝鮮侵略の加害者であることを思い知らされます。

朝鮮出兵は、秀吉にとっても、人生最大の後悔だったと思われます。名護屋の地は、今では後悔と反省の地になっています。

 

(朝鮮出兵についてはこちらも参考にhttp://www.yata-calas.sakura.ne.jp/