名古屋城の金の鯱、発案者は大久保長安!?
9月18日のブログで山岡荘八の「徳川家康」22巻で加藤清正(以下清正)が登場し、家康に対し、名古屋城の天守に金の鯱を上げるよう提案する場面がある、と紹介しました。清正は天守台の普請が担当であり、金の鯱は作事(建築)方の領域であることから、この話は怪しいながら、清正は尾張(名古屋)出身であり、同郷の織田信長や豊臣秀吉の豪壮な安土城や伏見城、大阪城などを見てきていることから、あり得ないことではない、と述べました。
その後、名古屋城について調べていて、「名古屋城の金の鯱を提案した人は、この人で間違いない!」と言う人を見つけました。それは、大久保長安です。
名古屋城公式ウェブサイトの「名古屋城の歴史」「名古屋城築城とその時代」の「天守造営」の記述の中に「作事奉行に小堀政一(遠州)や大久保長安を始め9名を任命し、現場の指揮は、大工棟梁の中井正清が執りました。」とあります。大久保長安と言えば、山岡荘八「徳川家康」の中で、第19巻から第22巻までにわたり登場させている人物です。「天下の御意見番」として時代劇によく登場する大久保彦左衛門なら知っていましたが、大久保長安の名は殆ど聞いたことがなく、山岡荘八がなんでこんなに紙数を割いて取り上げるのか不思議でした。
この「徳川家康」の中で描かれている大久保長安(以下長安)は、なかなかの傑物です。もともと長安は、猿楽師の家系で、父は武田信玄お抱えの猿楽師でしたが、長安は猿楽師としてではなく家臣として信玄に取り立てられ、姓は直接仕えた家老の姓から土屋と名乗り、武田領国における金山開発や経理を担当していたようです。その後武田が家康に滅ぼされると三河に移り住み、家康譜代の有力武将大久保忠隣(ただちか)に仕え、甲斐の再建で頭角を現し、大久保姓を与えられます。その後長安は、忠隣に伴われ家康と面会します。長安は、家康に対して金山開発の経験と才能を売り込み、目に留まるところとなります。ここから先長安は、家康の評価を勝ち取り、異例の出世を遂げます。1590年、家康が関東に移ると、長安は家康から3人の奉行の1人に任命され、家臣団に分配する元となる土地の台帳を作ります。そして、家康の直轄領100万石を管理する3人の関東代官頭の1人に任命されます。翌1591年には武蔵国八王子に8,000石の所領を与えられ、ここに陣屋を置き本拠とします。ここでは、武蔵の治安維持と国境警備のため、家康に八王子五百人同心という部隊の創設を提案し、認められます。1600年の関ヶ原の戦いに際しては、輜重役(しちょうやく。軍事物資の輸送・補給)を担います。関ヶ原の戦い後は、9月に大和代官、10月石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役、1601年春には甲斐奉行、8月に石見奉行、9月には美濃代官に、兼任の形で任命されます。当時鉱山開発のことが分かる人財が長安くらいしかいなかったのでしょうが、長安に対する家康の評価が非常に高かったことが分かります。
その後1603年2月に家康が征夷大将軍に任命されると、長安は、従五位下石見守に叙任され、家康六男松平忠輝の付家老にも就任します。同年7月には佐渡奉行、12月には所務奉行(のちの勘定奉行)、同時に年寄(のちの老中)に列せられ、1606年には伊豆奉行も兼ねます。このように長安は、全国の金銀山の経営を一手に任され、同時に関東における交通網の整備も担当していました。現在も残る一里塚の制度などは長安が作ったと言います。
この結果、長安の権勢は強力だったようです。経済面では、金山・銀山などの鉱山からの収入は採掘高に応じて幕府と長安の取り分が決まるため(例えば幕府6:長安4。長安は4の取り分で人夫その他鉱山の経費一切を賄う。)、採掘高が幕府との取決高を上回れば長安の収入は大きくなります。長安が鉱山の責任者に就任後、採掘高は何倍にも増加したため、長安の収入(取り分)は膨大な額(量)になっていたと思われます。また政治面では、付家老をしていた忠輝が長安の斡旋で伊達政宗の娘五郎八(いろは)姫を娶ったため、正宗との結び付きが強いものとなります。政宗は、当時虎視眈々と天下取りを狙っていたと言われており、長安は政宗と協力して忠輝を将軍にする野望を持っていたとも言われています。そのため長安は、これを支援することを約した大名などが署名した連判状を作成していたと言われています(ただし、これは海外雄飛を志す長安の構想に賛同する者が単に署名したものという説もあります)。
私生活面では、各地で代官・奉行をしていたため、その地毎に多くの側女を抱えるなど無類の遊び好きだったと言います。また鉱山巡視の際には、女70~80人を含め総勢250名程を同行するなど、行動が派手だったと言います。
しかし、名古屋城築城の頃には、この長安の権勢に陰りが見え始めていました。先ず鉱山の採掘高が落ちてきていました。また、前述の連判状の噂や岡本大八事件への関与の疑い、主家筋である小田原藩主大久保忠隣と家康側近本多正信・正純親子との対立など難しい問題に直面し、一歩間違えれば失脚もあり得る状況でした。
こういう中で長安は、名古屋城築城の作事奉行を務めていたのです。9名の作事奉行の中で実務面の筆頭は、駿府城修築や宮中造営などを担い、禅宗庭園などの作庭や茶の湯、書道などでも実績があった小堀政一(遠州)だったと思われます。遠州は、わび・さびを好む落ち着いた作風であり、金の鯱を発案するとは考えられません。一方、大工頭は、二条城など家康の命で多くの建築を手がけた中井正清が勤めていますが、正清は奈良在住で、長安が大和代官でもあったことから、長安と関係が深かったと思われます。正清も荘重な建築が得意であり、奇をてらう金の鯱の発案は出てきそうにありません。作事奉行の中で長安は、全体の統括的な役割であったと思われます。幕府の金山を統括してきた長安なら、金の鯱の発案が出てきても不思議ではありません。名古屋城の金の鯱には約270kg(現在の時価で約13億円)の金が使われたと言いますが、これは当時の佐渡金山の1年間の採掘高に近かったと思われます。佐渡金山は長安が責任者となってから採掘高を大きく伸ばし、最大採掘高は年間400kgに達したと言います。当時の鉱山責任者の収入は、採掘高に応じて取り分が決またため、約10年間に渡り長安が自分の取り分の金を貯えていたとすれば、270kg以上私的に持っていてもおかしくありません(長安は死んだら金の棺に入れるよう遺言していたと言います)。長安は、名古屋城の鯱用に自分が私的に貯えていた金を献上したと考えられます。家康が1人の息子の城のために、自らこれほどの出費をするとは考えられません。
この名古屋城の金の鯱は、苦境にあった長安が家康の心を繋ぎ留めるために考えた乾坤一擲の発案だったように思われます。
長安は1613年に中風で亡くなりますが、その後金銀の秘匿など巨額の不正蓄財が明らかになり、家康は長安の息子7名に切腹を申し付けるなど一族関係者を厳しく処分しています。
「徳川家康」の中で多くの紙数を割いて長安を取り上げた山岡荘八が、名古屋城の金の鯱は長安の発案であることに想いが至らなかったとすれば、「弘法も筆の誤り」のように見受けられます。
(家康については「明智光秀・徳川家康・春日局を繋ぐ点と線」も面白いです。http://yata-calas.sakura.ne.jp/kasuga/
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