加藤清正が将軍就任を夢見た娘婿徳川頼宜

(1)「昭君之間」の将軍とは徳川頼宜のこと

熊本城本丸御殿にある「昭君之間」は、1610年頃加藤清正が完成させた格式の高い謁見の間です。通常清正は、その前室に当たる若松の間で謁見していたと言われており、「昭君之間」は何のために造られたか謎となっています。清正は翌年(1611年)の6月24日に亡くなっていますから、この部屋の本来の使い方をできずに亡くなったと思われます。

清正がこの部屋を作った意図について、その後の伝承では「豊臣秀頼が徳川幕府により大坂城を追われたとき、ここに匿い、西日本の豊臣恩顧の大名を糾合して戦うため」であったと言われています。しかし、これは、加藤清正=豊臣恩顧の大名という固定観念から導き出された伝承であり、事実と違うと思われます。

清正は、秀吉に育てられ、若くして(26歳)肥後半国の大名に抜擢されたことから、秀吉に恩義を感じていたのは間違いありません。しかし、秀吉の死後は、次の天下人は徳川家康と見定め、家康との関係を強めています。先ず秀吉の死により朝鮮から引き揚げてきた翌年の1600年には、家康の養女かな姫(生母於大の弟の娘)を継室としています。その後1606年には、長女あま姫を徳川四天王の1人舘林藩主榊原康政の嫡男康勝に嫁がせています。そして、1609年9月には、家康十男徳川頼宜と清正次女八十姫の婚約が決まっています。その結納使が熊本城を訪れた翌年の1610年に「昭君之間」は完成しているのです。これらの事実を見ると、秀吉死後、清正は徳川家の有力な姻戚大名となっていることが分かりますし、「昭君之間」は、八十姫と頼宜の婚約の儀式に間に合わせて造ったと考えられます。

秀頼を匿うために造られたという伝承説では、「昭君」とは将軍のことであり、秀頼のことであると説明されています。しかし、豊臣家は関白家であり、秀頼が将来就任するのは関白であり、将軍ではありません。将軍は源氏出身者でなければ就任できなかったため、秀吉は豊臣家を創設し関白家に加えてもらい、関白として執政する道を選びました。また、当時西日本の大名で大坂城に伺候する者は清正以外になく、もう豊臣恩顧の大名は存在しませんでした。従って、この説は無理があります。

「昭君之間」の「昭君」が将軍を意味するのは間違いないのですが、清正が将軍に擬したのは、秀頼ではなく、娘婿徳川頼宜であったと思われます。

(2)頼宜―家康の秘蔵っ子

頼宜は、1602年生まれで、婚約当時7歳(八十姫8歳)で、水戸藩主でした。頼宜は、生まれてから家康が死ぬまで駿府の家康の元で育てられています。家康の子供の中で最も家康が手塩にかけて育てた子供です。徳川実記などには、家康は頼宜を可愛がり、厳しく育てたことが書かれています。頼宜がまだ小さい頃、家康と共に馬で川を渡っている際、頼宜が落水しても家康は助けなかったと言います。また、頼宜が1614年の大坂冬の陣で初めて出陣した際には、家康自ら武具を着せています。翌年の夏の陣では、頼宜は先攻を務めたいと申し出ますが、家康に却下され、悔しさのあまり泣き出します。世話役の家臣が「殿はまだお若いから機会は何度でもありましょう」と慰めたところ、「14のこの時が二度とあるか」と答え、これを聞いた家康は「今の言葉こそ鑓ぞ」と褒めたと言います。

このように家康から見て、頼宜は見所がある息子だったようです。

(3)頼宜と八十姫の婚約の意図

家康がこの頼宜の嫁に清正の次女八十姫を所望したのは、2つの理由があると思われます。1つは、八十姫が清正と家康の養女で清正継室となったかな姫の間に生まれた娘であったことです。かな姫は家康の生母於大の弟の娘ですから、八十姫も家康の血縁者となります。2つ目は、家康も高齢(68歳)となり、豊臣家の問題を片づけておきたかったからです。家康としては、時間をかければ豊臣家も徳川幕府に臣従するものと考えて来ましたが、未だ成就していませんでした。徳川幕府成立後、殆どの旧豊臣恩顧の大名が大坂城に伺候しなくなった中で、清正だけは、江戸への行き帰りに伺候し続けていため、豊臣方にも信頼されていました。そこで家康は、清正に豊臣方説得を期待したものと思われます。この家康の期待に応え清正は、1611年3月の二条城会見を実現させます。そして次はいよいよ・・と家康の期待が膨らんだ同年6月、あろうことか清正は突然死去します。

こうなると、豊臣方を説得できる人物は見当たらず、家康は豊臣討伐へと舵を切ります。

清正次女八十姫と頼宜との婚約が清正による豊臣説得が目的であった以上、清正が死去したら、その意味がなくなります。その結果、八十姫と頼宜の婚約は、解消が検討されたと思われます。1608年に家康九男義直との婚約が決まっていた浅野幸長の娘(春姫)は、1614年に嫁ぎますが、八十姫が嫁いだのは家康死去後の1617年でした。

(4)将軍就任の可能性があった頼宜

八十姫が婚約した頼宜は、第2代将軍秀忠の次の将軍になってもおかしくない状況にありました。当時秀忠の長子家光は頼宜より2歳下(1604年生)でしたが、秀忠と正室お江は家光を嫌い、次男忠長(1606年生)を溺愛していました。これを見た江戸城内の家臣は、次の将軍は忠長と見なしていたと言います。当時の徳川幕府では、将軍の就任について長子相続の決まりはなく、家康の指名で決まりました。将軍候補としては、秀忠の嫡男家光、忠長、家康の九男尾張藩主義直(1601年生)、十男駿府藩主頼宜(1602年生。八十姫と婚約した年の12月、家康は駿府藩50万石を立藩し、頼宜を藩主とした。)、十一男水戸藩主頼房(1603年生)が考えられました。この中で、家康の評価は十男頼宜が最も高かったと考えられます。清正もそれを感じ取り、頼宜は次の将軍になる男と考えたようです。

(5)松平忠輝事件から始まった頼宜外し

このような状況が変わったのは、大坂の役後の1615年です。家康六男で越後高田藩主松平忠輝が正室に仙台藩主伊達政宗の娘五郎八(いろは)姫を迎えていたことから、忠輝は天下取りの野望を失っていない伊達政宗の影響を受け、幕府にとって将来危険な存在になる可能性が生まれていました。そこで家康は、この危険を除くため、忠輝を勘当(実質改易)します。そして、江戸城内で話題になっていた家光と忠長の将軍承継問題については、長子相続をもって徳川幕府の方針と決めます。これで頼宜の次の将軍就任の可能性は潰えました。・・・続きは次のURLの9.kiyomasa9.pdfでお読み下さい。http://www.yata-calas.sakura.ne.jp/