加藤清正が生きていたらその後の歴史はどう変わったか?

山岡荘八「徳川家康」26巻を読み進む中で、私の目的の1つは、加藤清正(以下清正)が生きていたら歴史はどう変わったかを考証することでした。というのは、前年1年間清正について調べましたが、清正は慶長16年(1611年)6月24日に49歳で死去しており、その後の歴史に影響を与えなくなっています。しかし、この年3月に行われた家康と豊臣秀頼の二条城会見は、清正が幕府と豊臣家の間に立って奔走したことにより実現したものであり、この頃から清正は幕府および豊臣家双方にとり重要な人物になってきていました。それは、慶長14年(1609年)9月に家康十男頼宜と清正次女八十姫の婚約が決まり、清正が徳川の親戚になったからです。1603年、家康が江戸に幕府を開いてから、西国の旧豊臣恩顧の大名が大坂城伺候を避けるようになった中で、清正は、江戸に向かう行き帰りに大坂城の秀頼や淀殿を伺候しており、その姿勢は豊臣方にも高く評価されていました。頼宜と八十姫の婚約をもって、清正は徳川幕府に取り込まれたと考える豊臣方もいたようですが、日々強まる徳川幕府の圧力の中で、豊臣方が頼れるのは清正しかありませんでした。1611年春の家康上洛に際し、秀頼も上洛し家康と面会するようにとの徳川幕府の要求は、前回(1605年)のように拒否すれば、豊臣討伐になり得る重大局面でした。当然秀頼に近侍する若手の側近たち(大野治房、木村重成、渡辺内蔵助など)は前回同様拒否するよう主張しますし、幕府と戦っても勝ち目がないことが分かっている片桐且元や織田有楽斎などの老臣は受諾するよう主張します。その当時、旧豊臣恩顧の大名の中で豊臣家と交流を続けていたのは、清正、浅野幸長、福島正則ぐらいでした。いずれも豊臣家とは血縁などで近い関係にある大名です。このうち、浅野幸長は、娘が家康九男尾張藩主徳川義直に嫁ぐことが決まっており、清正と同じ立場にありました。また、福島正則は、息子が家康の養女を正室としていましたが、清正・幸長と比べると徳川家との関係はやや薄いものでした。結局当時の大坂城では、秀頼の側近たちがまだ若かったことから、年配である片桐且元、織田有楽斎らと清正、幸長、正則らの意見が通り、二条城会見が実現したと思われます。

二条城会見の際には、清正は複雑な役割を果たしています。秀頼一行が大坂城を出て淀川を船で伏見に向かう際には、清正は川の片岸の警護を担当したと言います。一方、伏見(東寺という資料もある)で家康の九男義直と十男頼宜が秀頼を出迎えた際には、浅野幸長と共に舅として2人の側に付き添ったとされています。その後秀頼が駕籠で二条城に向かう際には、駕籠の警備を担当しています。八面六臂の活躍です。二条城会見では、ドラマなどでは秀頼が家康と食事を共にしながら懇談する間、清正は、秀頼の側を片時も離れず、万一の場合に備えて胸に短刀を忍ばせていたと描かれていますが、そんな非常識はありえません。懇談の場に出席したのは、家康、秀頼および高台院(秀吉正室、秀頼祖母)の3人であり、清正は、別室で義直・頼宜と共に秀頼に同行した豊臣方家臣団を饗応していました。義直・頼宜は、秀頼に万一のことがあった場合の人質でもあったのです。

二条城会見終了後、清正は、秀頼の豊国神社参拝、および再建中の方広寺視察に同行し、その後伏見の清正屋敷で休憩、饗応し、秀頼を伏見港から大坂城へ送り出しています。これらの一連の行動を見ると、清正は、徳川方と豊臣方を懸命に取り持とうとしていることが分かります。

その後清正は伏見または大坂に留まり、6月、熊本に帰る船中で発病し、慶長16年6月24日に熊本城で死去します。発病してすぐ口がきけなくなったと言いますから、脳卒中ではないでしょうか。

清正の死は、藩主を失くした肥後藩の他、主に3人の人物に大きな影響を及ぼします。

1人は家康です。家康は清正に豊臣家が幕府の統制下に入るよう説得する役割を期待していました。十男頼宜と清正次女八十姫の婚約を決めたのもそのためです。当時豊臣家を説得できる人物としては、清正しかいなかったのです。清正もこの意味をよく理解し、二条城会見では家康が狙った通りの結果を出しました。家康が次に清正に期待することは、豊臣家が移封に同意するよう説得することでしたが、清正の突然の死によりこれが不可能となりました。家康としては目の前が真っ暗になった気分だったと思われます。徳川実記などには、名のある大名が死去した場合、家康のコメントが載ることが多いのですが、清正の死に触れられた記述は見られません。家康は、清正の死によって豊臣家移封の説得を諦め、討伐の方向に舵を切ったと思われます。以後大坂の役への道が始まります。

2人目は秀頼です。秀頼にとって、家康との間を取り持てるのは清正しかいなかったと思われます。二条城会見の際には最初から最後まで秀頼を守る姿勢を見せてくれました。これから本格的に移封などの交渉が予想される中で、秀頼にとって清正を失うことは、暗闇に灯台の灯を失うようなものだったと思われます。清正が倒れた報に接して、秀頼は、醍醐寺の僧に清正快癒の祈祷をさせるなど清正の復活を待ち望んだようです。

3人目は、紀州藩主浅野幸長です。幸長は高台院(秀吉正室北政所)の養家の弟浅野長政の息子で、幸長が慶長の役で朝鮮に出兵する際、清正は長政から「息子を頼む」と託されて以来の関係です。幸長にとって清正は、慶長の役の蔚山城籠城戦を共に戦った戦友であり、命の恩人でした。清正の次女と家康十男頼宜が婚約した前年、家康は、幸長の娘春姫を家康九男義直と婚約させています。高台院、清正、幸長を三位一体で取り込む作戦だったと思われます。

清正生存中は、幸長は清正の陰に隠れていればよく、二条城会見の設定でも交渉の矢面に立つことはなかったと思われます。しかし、清正が死去すると、豊臣家説得の役割が幸長の肩に重くのしかかってきました。幸長は清正死後の2年後38歳の若さで死去しますが、この重圧が関係したと思われます。

このように清正の死により、豊臣家移封を説得できる者がいなくなり、大坂の役への歩みが始まりました。そしてついに慶長19年(1614年)11月19日、木津川口で戦いの火ぶたが切られるのですが、清正が慶長16年に死去していなければ、歴史はどう変わったか考えてみたいと思います。

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