明智光秀・徳川家康・春日局を繋ぐ点と線(1)

1.信長、信濃・甲斐討伐

天正10年(1582年)2月、信長は武田勝頼の信濃・甲斐討伐を決定し、長男信忠を大将とする信忠軍団を派遣します。信忠軍団は、先鋒森長可(ながよし。森蘭丸の父)、本隊河尻秀隆ら約3万人でした。その頃の武田では、信玄の急死(1573年)後庶子ながら武田勝頼が後継となりましたが、長篠の戦いでの敗北(1575年)、美濃岩村城落城(1575年)、高天神城落城(1581年)など敗北が続き、また出兵が続いていたことから、人心が徐々に勝頼から離れていました。そこで信忠軍の信濃侵攻では、武田軍の寝返りが相次ぎました。戦いらしい戦いは、3月初めの武田家親族の仁科盛信が守る高遠城の戦いくらいでした。この後勝頼は、諏訪を放棄し、天目山(山梨県甲州市)方面に逃走します。その後に信忠が入り、諏訪に織田軍の本陣を置きます。

この頃、周囲の同盟関係でも大きな変化が生じていました。武田は、1553年駿府の今川、相模の北条と三国同盟を結んでいました。相模の北条とは、越後の上杉謙信に対抗するためであり、駿河の今川とは、上杉との戦いに専念するうえにおいて南からの危険をなくすためです。これは機能していたのですが、1560年の桶狭間の戦いで今川義元が信長に敗れて、今川が弱体化したことから、武田は徳川と談合し、1568年今川領駿府に侵攻します。武田は、北条に駿府割譲を持ちかけますが、長い間の駿府との友好関係を重視する北条は拒否します。ここで、三国同盟は瓦解しました。そして翌年武田は、北条領内に侵攻します。一方北条は、武田に対抗するため上杉と同盟を締結します。また天正7年(1579年)には家康と、天正8年(1580年)には信長と同盟を結びます。このように武田は、周囲をぐるりと敵に回していたのです。

そのような状況で家康は、岡崎城から掛川城を経由し、武田領である駿府に侵攻します。駿府は、武田一族の穴山梅雪が支配していましたが、勝頼に愛想を尽かしていた梅雪は、家康に寝返ります。このとき梅雪の説得に当たったのが、家康家臣の長坂血鑓九郎長信宅(のぶいえ)です(大坂の役の際、家康6男忠輝が自分を追い越したとしてその子孫に当たる長坂血鑓九郎信時を斬殺し、家康が忠輝を勘当する原因の1つとなる)。梅雪は、本能寺の変の際、家康と共に堺におり、家康一行の伊賀越えの際、別行動を取り殺害された人物です。家康は、梅雪の導きにより駿府方面から甲斐に侵攻します。

相模の北条氏政は、2月末頃から伊豆から駿河東部の沼津方面に侵攻し、更には上野(こうずけ)方面に侵攻します。

こういう中で、3月7日には信忠が甲府に入り、天目山方面に逃走した勝頼を追撃します。追い詰められた勝頼は、3月11日天目山で自害します。これで清和源氏の名門甲斐武田は滅亡しました。この武田滅亡が、信長と対立する四国の長宗我部元親や秀吉が対峙する中国の毛利勢の姿勢に影響を与えます。

このとき信長は、まだ美濃領内でした。信長軍団に属したのは、明智光秀、細川忠興、筒井順慶、丹羽長秀、堀秀政、長谷川秀一、蒲生氏郷、高山右近、中川清秀などで、当初6万人の動員を計画していたと言います。このメンバーを見ると、ほぼ全員近畿地区の大名であり、天正8年(1580年)8月高野山に追放された佐久間信盛に代わって、明智光秀が近畿地区の総大将に就任していることが伺われます。信長は3月21日に諏訪の本陣に到着し、論功行賞を行いました。その結果、甲斐は大部分を河尻秀隆に(一部は梅雪の所領として安堵)、北信濃は森長可に、上野は滝川一益に、駿府は徳川家康に、木曽谷は武田氏外戚で信長側に寝返った木曽義昌の所領として安堵などと決定しました。

ここで注意すべきは、梅雪の所領です。甲斐国南部の一部を占め、甲斐国の大部分を支配する信長勢(河尻秀隆)にとっては目障りなのです。信忠は武田一族および武田家重臣は見つけ出して殺害する方針でした。梅雪は、武田一族(母が信玄の姉。正室が信玄の娘)ながら、家康の説得に応じて寝返ったため、家康との関係で許されたものでした。そのため、信長家臣(甲斐に領土があるため)ながら家康与力となっています。梅雪は、家康に伴われ諏訪の本陣で信長に面会した際、信長から冷たい扱いをされたと言われています。従って、信長の招待により安土城を訪れた家康一行に梅雪が入っていたのは、信長の指名ではなく、家康が信長の梅雪に対する覚えを良くしようと同行したものと思われます。本能寺の変を知った後、梅雪が別行動を取ったのは、こんな信長への反発があり、早く甲斐に帰って蜂起しようと考えたからのように思われます。

これにより、旧武田領の織田支配が始まるのですが、ここで1つ注目しておきたい出来事があります。それは、天正10年(1582年)4月5日に起きた出来事です(本能寺の変の約2か月前)。北信濃の飯山は、越後の国境に近い北信濃の要所に当たりますが、ここにある飯山城は、森長可与力として美濃の稲葉貞通が守っていました。4月5日、ここが上杉景勝と結んだ旧武田家臣芋川親正に率いられた地侍など約8,000人に包囲され、陥落の危機に陥ったのです。長可が駆けつけてこれらを打ち払い、不測の事態は避けられます。しかし、これを受け、稲葉貞通は、飯山城守備の任を解かれ、諏訪の本陣に召還されます。稲葉貞通および稲葉家にとっては屈辱的な出来事であったと思われます。この稲葉家と言うのが、福(春日局)の母の実家(祖父の家)なのです。そして、福の父斎藤利三(としみつ)は、かって稲葉家に仕えており、その縁で当時の当主稲葉良通(一鉄。以下一鉄)の娘(福の母)を継室にしていたのです。一鉄は、西美濃の古くからの国人で、信長が斎藤道三亡き後美濃に侵攻した際、信長に内応し、道三後継の斎藤義龍を破るのに貢献、信長に臣従しました。一鉄は、その後も朝倉勢との姉川の戦いで活躍するなど武術に優れ、茶道や能に造詣があり、医道にも関心が高いなど多才であり、信長お気に入りの武将でした。ただし、頑固者で「頑固一徹」の言葉の語源となったと言われています。利三は、こんな一鉄に不満を持ち、親戚の光秀の元に行ったようですが、2度連れ戻されたようですから、決して喧嘩別れではなかったと思われます。一鉄は、天正7年(1579年)、長男重通(美濃清水を領有)が庶子だったことから、次男ながら嫡子である貞通に家督(美濃曽根)を譲っていました。(福は、父利三が本能寺の変で斬首された後、長男重通の養女となったことから、長男が庶子で次男が嫡子であれば、嫡子の次男が家督を相続するという慣習は分かっていたと思われます。)。信長は、稲葉家のこれまでの貢献に報いるため、北信濃の要所飯山を稲葉家に与えようと考えていたと思われますが、貞通の家臣団の人材不足から、その任に堪えられないと判断したようです。そこで一鉄は、貞通を支える有能な人材を確保する必要性に迫られました。そのとき頭に浮かんだのが娘婿であり、かって自分に仕えていたあの男だったのです。実は、これが本能寺の変の遠因(主因?)になって行くのです。

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