明智光秀・徳川家康・春日局を繋ぐ点と線(2)
2.家康領訪問
信濃・甲斐の仕置きを終えた信長は、駿府・遠江・三河の家康領を通って帰路に就きます。信長が3月初旬に北陸の柴田勝家に出した書状に「関東見物」という表現があるようなので、最初から予定していた行動のようです。信長は天正12年(1582年)4月10日に甲府を出発し、12日に駿府の大宮城(現富士宮市)、13日江尻城(現静岡市)、14日田中城(現藤枝市)、15日遠江の掛川城、16日浜松城、17日三河の吉田城(現豊橋市)、18日池鯉鮒(現知立市)、19日尾張の清州城、20日美濃の岐阜城などを経由し、4月21日安土城に到着しています。
信長一行を迎えた家康は、道中の道路を整備し、辻々に茶屋や厩、用便所などを建て、川には新しく橋を架けたり、舟橋や御座船を用意し、宿泊所では豪華な食事を提供して持て成します。これには信長もひどく感激し、この後家康を安土に招待することとなります。
ここで注目すべきは、家康が光秀をとても丁重に扱っていることです。当代記に「光秀は老人なので信長の宿舎の近くに宿を仰せ付けられた」という記述が残されています。信長が言い付けたとも取れますが、家康が光秀に敬意を表して信長の近くに宿を用意したものと思われます。実質No.2扱いなので、光秀にとって嬉しい家康の配慮であったと思われます。
これを見抜いていた信長は、光秀に家康招待の接待役を命じます。光秀がかって足利幕府に仕え、朝廷や公家との取次役をしていたことから、京や公家の文化に詳しく、家康を驚かす接待を準備できるのは光秀しかいなかったのも事実です。光秀は接待役を名誉に思い、精力的に準備を進めたようです。そして家康一行は天正12年(1582年)5月14日安土に近い番場宿に到着します。ここでは光秀が仮宿所を建て、出迎えます。そして、家康一行が安土に入った翌15日から3日間、家康一行に対する歓待の宴が催されます。場所は大宝院、総見寺、安土城などとの記述が見られます。15日、16日は接待役として当然光秀も出席していたようです。しかし、どうも16日の宴の終了後、信長と光秀の間に信長が激怒するような出来事があったようです。その日の夜光秀は、接待役を免ぜられ、坂本城に帰っています。この日の出来事について、ポルトガル人宣教師フロイスは著書「日本史」で「信長と光秀の間に口論があり、1度か2度信長が光秀を足蹴にした」と書いていますが、口論の内容については触れていません。この部分については、本能寺の変の原因になったと思われるため、その後の軍記物などでもいろいろ書かれ、諸説入り乱れるところとなっており、信長と光秀を取り巻く当時の状況から推論するしかないと思われます。光秀がここで足蹴にされ恥をかかされたため、本能寺の変を起こしたという説もありますが、問題は何が原因でそのように信長を激怒させる事態になったのかということです。
この時点の状況から考えられることは、信長が光秀に至急秀吉支援に向かうよう指示したところ、これに光秀が異論を述べたことです。この頃備中高松城攻めを行っていた秀吉軍は、西から毛利軍5万人に対峙され、不利な状況に陥り、信長に支援要請を行っていました。それも何回か状況を知らせる書状が届いていたと思われます。そこで信長は、光秀の接待役を免じ至急秀吉支援に向かう準備をするよう命じたことが考えられます。これそのものは、極めて妥当な命令なので、最終的には光秀も問題なく従う気だったと思われます。ところがここで光秀は、「承知しました」と言いながら、お願いとして、長宗我部討伐を中止して欲しい(或いは自分に行かせて欲しい)と言ったことが考えられます。というのは、後で述べるように長宗我部元親は、3月に武田が信長勢に滅ぼされたことを知り、信長の指示(長宗我部の領土は土佐と伊予の2カ国だけとする)に従うことを決めていました。これは長宗我部との取次役である光秀にも伝えられていたはずで、光秀は信長に長宗我部討伐中止を進言したと考えれます。または、長宗我部の取次役として自分に行かせて欲しいと言ったとも考えられます。しかし、長宗我部討伐は5月に朱印状(命令)が発行され、織田信孝、丹羽長秀らで6月3日渡海の手筈が整えられていました。これは光秀も重々承知していたはずで、今更言ってもどうにもならないことでした。これを聞いて信長が激怒したことが考えられます。これに加えて、家康一行の接待を最後まで務めさせて欲しいと言った可能性があります。光秀は、信長一行が家康の領地の駿河・遠江・三河を訪問した際、家康に厚遇され、家康に感謝していました。そのため、安土での接待役を精力的に勤めていましたから、何とか最後までやり遂げたいという気持ちが強かったと思われます。しかし、秀吉の窮状を知る信長にとっては、「どっちが重要か分かっているのか」と激怒したくなる話だったと思われます。この問題は、2人の立場と情報格差がもたらしたものです。
このような推論の根拠は、次の秀吉の備中高松城攻めや長宗我部元親の項目を読んで頂ければ分かります。
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