明智光秀・徳川家康・春日局を繋ぐ点と線(3)
3.秀吉の備中高松城攻め
天正3年(1575年)頃、信長は摂津を支配地とし、丹波・丹後への侵攻を始めていました。一方毛利は、備中・美作・石見・出雲を固めていました。その間の播磨・備前・但馬・因幡・伯耆には、まだ独立色の強い国人が盤踞していました。こんな中、信長と毛利には直接的な争いはなく、友好関係を維持していました。これが崩れ出したのは、天正3年(1575年)8月に信長が自ら出陣して越前を平定してからです。この頃、信長方だった摂津有岡城の荒木村重が支援していた備前の国人浦上宗影が家老の宇喜多直家に謀叛を起こされ、敗れます。宇喜多直家は毛利派だったため、備前が毛利東進の前線となりました。その結果、毛利の侵攻に怯えた播磨の御着城(姫路市)の小寺政職(まさもと)、三木城の別所長治、龍野城の赤松広英らが信長方に着くこととなりました。山陰でも因幡で信長の支援を受けた尼子勝久らが挙兵し、東伯耆の鳥取城に迫ります。丹波には光秀が侵攻し、黒井城を残し平定しました。こうして信長と毛利の対立が決定的となった中、信長により京から追放され、紀伊興国寺にいた足利義昭が毛利領備後鞆に移り、室町幕府征夷大将軍として各地の大名に信長を撃つよう号令を発します。その結果、武田勝頼、上杉謙信、北条氏政や本願寺らが呼応し、信長包囲網が形成されます。
天正4年(1576年)4月、信長は石山本願寺攻めを再開します(第3次)。これを見た毛利は、本願寺勢を支援すべく、淡路島北端の岩屋城を占拠し、ここを経由して海上から本願寺に兵糧や弾薬を運び入れることを計画します。そのため、天正4年(1576年)7月、村上水軍などの強力な水軍を動員し、紀伊の雑賀衆の協力も得て、木津川河口で織田水軍を撃破し、本願寺に兵糧、弾薬を運び入れます。これと並行して、毛利勢は陸路・海路で東進し、姫路まで進出します。ここでは信長方に着いていた御着城(姫路)の家老小寺(黒田)官兵衛の活躍により撃退され、一旦退却します。その後天正5年(1577年)7月、毛利勢は、讃岐・阿波に侵攻し、瀬戸内海の東の制海権を確保します。
これに対して信長は、天正5年(1577年)10月、豊臣秀吉を大将に指名し、本格的な毛利攻めの体制を整えます。秀吉は、小寺官兵衛から居所の姫路城を提供され、ここを本拠とします。これが姫路城発展の始まりです。ここから秀吉の怒涛の播磨平定が始まり、僅か2か月で播磨1国を平定します。しかし、毛利方も黙っておらず、一旦秀吉に奪われた備前・美作・播磨国境近くの要所上月城の奪取に狙いを定め、6万人の兵で攻め立てます。秀吉の兵は1万人程度であったため、歯が立たず、上月城を失うこととなりました。(この際信長が秀吉の支援要請を受け上月城支援に自ら行こうとしたところ、本願寺攻めの大将だった佐久間信盛が止めます。これが後の佐久間信盛追放の原因の1つになったと思われます。)翌天正6年(1578年)2月には、播磨の三木城主別所長治が毛利方に寝返ります。これにより別所長治に与する周辺国人の寝返りが続出し、秀吉は毛利方国人に包囲される状況となります。こうしておよそ2年間に及ぶ三木城合戦が始まります。ここで秀吉は「三木の干(ひ)殺し」と言われる兵糧攻めを敢行します。この最中の天正6年(1578年)10月、信長に臣従していた摂津有岡城主荒木村重が本願寺および毛利と結んで謀叛を起こします。これは1年後の天正7年(1579年)10月有岡城が陥落し終了しますが、秀吉はこちらの戦いにも部隊を割かれることとなりました。この一環で同年6月には、光秀が平定できずにいた丹波に豊臣秀長軍が援軍に入り、6月に矢上城を、8月に黒井城を陥落させ、これで丹波が完全に平定されます(黒井城には光秀家老の斎藤利三が入り、福はここで生まれたと言われています)。
三木城は、戦いの開始から約2年後の天正8年(1580年)1月に、兵糧が尽き陥落します。これと前後し、三木城主別所長治に与していた御着城などの諸城も陥落します。
またこの年天正8年(1580年)3月には、正親町天皇の勅命により信長と顕如が和睦し、本願寺との戦いが終了します。これにより東方が安全になった秀吉は、毛利攻めを本格化します。
山陰方面では、豊臣秀長軍により先ず但馬が平定されます。そして天正9年(1581年)6月、因幡(鳥取東部)の鳥取城攻めに入るのですが、ここで秀吉は又兵糧攻めを用います。この兵糧攻めでは、因幡の米を高値で買い占め、鳥取城内からも売る者があったと言います。また、城下の住人を城内に追い込み、兵糧が尽きるのを速めたと言います。そして丹後細川藩家老松井康之が率いる丹後水軍が毛利水軍を破って、毛利軍の海からの兵糧運び込みを阻止します(この際の松井康之と秀吉との関係が本能寺の変後、細川藩が光秀に与しない原因の1つになったと考えられます。)。これにより兵糧が尽きた鳥取城では、天正9年(1581年)10月、城主吉川経家(毛利で山陰側を指揮する吉川元春一族)と重臣が切腹し、開城しました。
この後秀吉は、伯耆(鳥取西部)に侵攻しますが、毛利の山陰軍の大将吉川元春に反撃され、備前・備中方面に転じます。これは、毛利方から信長方に転じ、備前で毛利の小早川軍と交戦していた宇喜多勢が劣勢になっていたためと考えられます。宇喜多勢では、宇喜多家当主直家が天正9年(1581年)2月に病死していましたが、跡継ぎの嫡男はまだ12才であり、これを隠して戦っていました。そして天正9年(1581年)8月、備前児島の戦いで毛利一族の小早川軍に惨敗を喫していました。秀吉は、この報に触れて備前へ転じたと思われます。
そして、秀吉は天正10年(1582年)3月に備中に入り、備中の毛利方の諸城を次々と陥落させて行きます。秀吉から秀の1字を与えられ宇喜多秀家となった直家の嫡男率いる宇喜多軍も秀吉軍に合流し、備中高松城を攻めることとなります。高松城は三方が沼、一方が広い池に囲まれた要害にあり、秀吉軍は攻めあぐみました。そこで秀吉が採ったのが、水攻めでした。高松城は古代海の湾だった場所にあり、二等辺三角形の底辺を南西方向にした中にありました。2本の等辺部分は山で、底辺部分が湾口部です。底辺部分に沿って近くを足守川が流れ、これまで何度も氾濫を繰り返したため、底辺部分に沿って土砂が堆積し自然堤防が出来ていました。底辺部分の長さ約3kmのうち、2.7kmくらいが自然堤防だったようです。従って、底辺部分の右側の約300mに新たに堤防を築けば、長さ約3kmの完全堤防となりました。秀吉は、お金で雇った農民らを多数動員し、5月8日に工事を開始し、5月19日には堤防を完成させたと言います。その間、堤防の高松城側には板戸を並べ立て、高松城からは何をしているのか見えないようにしていたようです。そのため、5月19日に板戸が外されたときには、約3kmの堤防が突然現れ、高松城に籠る兵は大変驚いたようです。秀吉が小田原城攻めの際、石垣山に築いた一夜城と同じやり方です。
一方、秀吉の水攻めを知った毛利勢も続々と押し寄せて来ます。毛利輝元は高松城から約20km離れた猿掛城(倉敷市)に、小早川隆景は約5km離れた日差山に、吉川元春は約1.5km離れた庚申山に着陣します。この兵約5万人と言われ、秀吉軍の約3万人を遥かに上回っていました。毛利軍が高松城を囲む山の西側から攻めたら、包囲を突き崩すことができたと思われます。そのため、秀吉軍は堤防をもっと高くする時間がなかったと考えれます。何故ならば、高松城は1階部分が床上浸水するくらいに留まっており、約5千人と言われる籠城兵も曲輪の高い部分などに居て無事だったと思われるからです。これでは高松城が更に難攻不落化しただけでした(尚、以後濠に囲まれた城が増えていきますが、このときの高松城を参考にしたものと思われます)。もう少し時間があれば堤防をあと4~5m高く築き、城を水没させることができたと思われます。このように秀吉軍は、相当追い込まれていたと考えられます。従って、秀吉が信長に宛てた支援要請は相当急かす内容であったと思われます。この支援を求める書状が安土城の信長の元に届いたのが、安土で家康を接待していた5月16日頃だと思われます。これを見て信長は、光秀に接待役を切り上げて至急秀吉支援に向かうよう命じたのです。ただ、状況を細かく把握していた信長と当日聞かされた光秀とでは、状況の理解に差があったと思われます。信長の命令を聞いた光秀の反応がどこか緊迫感に欠けたものとなったため、信長激怒に繋がった可能性があります。
尚、本能寺の変後、光秀の敗北を決定付けたのは、知らせを受けた秀吉の果敢な帰還行動でした。いわゆる中国大返しと言われるものです。秀吉は6月3日夜に本能寺の変の一報を受けたと言われています。そしてそれを隠して毛利方との和睦交渉に入り、翌6月4日中に和睦を成立させます。秀吉は、6月6日、和睦条件である高松城主清水宗治の切腹を見届けて、その日の午後2時頃高松城を発ったと言われています。そして7日には姫路城に入り、13日に山崎に布陣していますが、この間約180kmを6日間(移動日)で移動しています。1日約30km移動したことになり、これは武具を付けての移動としては驚異的なことです。特に、高松城と姫路城の距離は約80kmあり、これを約1日半で移動しています。1日約50m移動したことになり、もっと早く出発していたのではとの説もありますが、その後秀吉は天正11年(1583年)4月20日に、美濃の大垣から近江の木之元までの13里(約52km)を約10時間で移動するという美濃大返しを行っていますので、事実であってもおかしくありません。ともかく、秀吉の帰還が余りにも早かったため、摂津の有岡城主池田恒興、茨木城主中川清秀、高槻城主高山右近などが秀吉に付くこととなりましたし、光秀が味方してくれると期待した与力の大和郡山城主筒井順慶まで離反させました。また織田信孝、丹羽長秀など信長側近の武将も秀吉に付きました。これは、日々戦いの最前線で臨機応変な判断と果敢な行動が必要とされた秀吉と平和な安土で家康の接待準備に明け暮れていた光秀の置かれた状況の差が現れたものと思われます。
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