明智光秀・徳川家康・春日局を繋ぐ点と線(4)
4.荒木村重の謀叛
荒木村重は、摂津37万石の大名でした。中京から信長、東海から家康、関東から北条が出ているのだから、近畿から大物武将が出ていてもおかしくなく、この候補が村重でした。
村重は、1535年、摂津池田城主池田長正の家臣荒木義村の嫡男として生まれます。池田家に仕え、長正の娘を娶り、池田家の有力家臣となります。1563年長正が亡くなり、実子でないながら優秀だった池田勝正が家督を継ぎ、嫡男の池田知正と対立しますが、村重は勝正を支えます。当時京は、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友道)が支配し、池田家も三好三人衆に従っていました。しかし、1568年信長が足利義昭を擁して上洛し、三好三人衆を追放すると、足利義昭・信長に臣従します。ここで勝正は、足利義昭から和田惟正(芥川山城=高槻)、伊丹親興(伊丹城)と共に摂津三守護に任命されます。しかし、1570年、村重は再度三好三人衆の1人三好長逸と通じ、足利義昭派の主君勝正を追放し、三好三人衆派の知正を擁立します。そして池田家重臣の中川清秀らと協力して、足利義昭派の伊丹親興、茨木重朝(茨木城主)や和田惟正を攻め破ります(清秀が茨木城主となる)。1573年、高槻城主であった和田惟正の息子惟長が家臣の高山友照・右近親子に殺害され、高槻城は高山親子が支配することとなります。この直後村重は、三好三人衆派の主君知正を追放して池田家の実権を掌握し、信長に臣従します。この際、中川清秀と高山親子も村重と行動を共にします。1574年、村重らは伊丹城の伊丹親興を攻め、自害に追い込みます。ここで伊丹城を有岡城と改名し、村重の本拠地とします。このように当時の摂津には、阿波・讃岐を本拠とする三好一族が攻め込んでいました。これを知った信長は、当初阿波・讃岐の領有も認めていた長宗我部元親との約束を反故にし、阿波・讃岐の領有は認めないと言い出します。
ここまでで分かるように村重は、主君を追放してでも自分の思いを遂げる性向があったようです。また、2人の主君を殺さず追放しているように、むやみに人を殺さないところがありました。村重は、和歌や茶道にも造詣が深く、茶道では利休十哲の1人に入っています。
信長に臣従した村重は、1576年の第3次本願寺攻めにも参加します。準備万端の本願寺勢に織田軍は、天王寺砦付近まで攻め込まれ、大将の塙直政が戦死し、砦には明智光秀が立て籠ります。これを知った信長は、手勢3,000人ほどで約15,000人の本願寺勢の包囲を破り砦に入り、すぐさま籠城兵と合流して反撃に打って出ます。勢いに押された本願寺勢は、本願寺内に撤収しました。この後、本願寺からの支援要請を受けた毛利水軍が多数の船で木津川口に押しかけ、守る織田水軍を撃破し、本願寺に兵糧・弾薬を運び込みます。これにより、本願寺との戦いは持久戦となります。尚、信長は、戦死した本願寺攻めの大将塙直政の後任に、古参の重臣佐久間信盛を任命します。これには、本願寺がある摂津の国守である村重には不満が残ったと言われています。こんな中、天正6年(1578年)2月、村重は、信長の許しを受け、本願寺の顕如と和睦交渉を行っています。これは失敗に終わりますが、この最中に、村重組下の茨木城主中川清秀の家中の者が本願寺側に兵糧(米100石)を渡していたところを信盛配下の軍目付に見つかります。これにより村重は、本願寺との密通を疑われることとなります。
この後村重は、播磨の秀吉支援を命じられますが、村重にとっては、本願寺との密通を疑われてのペナルティのように映ったようです。また、秀吉の指揮下に置かれたことも不満であったと思われます。村重は、着陣した上月城の戦いでは戦意を見せず、天正6年(1578年)10月、突然秀吉軍を離脱して有岡城に帰ってしまいます。これは、信長方からは謀叛と見なされました。
驚いた信長は、光秀・松井友閑・万見重元を派遣して事情聴取と説得を行います。光秀は、村重の嫡男村次に長女倫を嫁がせていました。村重は説得に応じ、母を人質に出すことに決め、信長に釈明するため村次を伴い安土城に向かいます。ところが、途中立ち寄った茨木城で、組下の中川清秀が「安土からの情報によると信長は到着次第村重を処刑する手はずだ」と告げ、行かないよう説得します。村重は、清秀の説得に応じ、謀叛を決行する意思を固め、有岡城に引き返します。そして、本願寺顕如・毛利輝元・足利義昭に同盟を求めます。村重は、村次に嫁いでいた光秀の娘倫は離縁し、光秀の元に返しています。この後も信長は、佐久間信盛、秀吉らを派遣し、思い留まるよう説得しましたが、村重は「野心はない」と言いながら母を人質に出すことには応じず、謀叛を続けました。
こんな中、村重の説得に来たのが播磨の御着城家老で村重と親交があった小寺(黒田)官兵衛でした。村重は、同盟関係にあった官兵衛の主君小寺政職(まさもと)から、「官兵衛は裏切者だから殺害してほしい」という依頼を受けていたようですが、殺害せずに土牢に閉じ込めました。その結果官兵衛は、有岡城が落城するまでの約1年間、土牢に閉じ込められることとなりました。助け出されたとき官兵衛は、やせ細り、足が不自由となっていましたが、村重は、最後まで官兵衛を殺害するつもりはなかったようです。
村重の謀叛の決意を知った信長は、村重に連動すると思われる本願寺勢の様子を見ながら、鎮圧の機会を探ります。村重鎮圧を優先したい信長は、本願寺に和睦の使者を送りますが、本願寺側は「毛利と相談する必要がある」と言い応じませんでした。そんな中、天正6年(1578年)11月6日、毛利水軍が多数の船で木津川口に来襲し、本願寺に兵糧・弾薬の運び込みを図ります。前回敗北していた信長は、織田水軍の九鬼嘉隆に命じ、大砲を積んだ大型の鉄甲船を作らせており、これを用いて毛利水軍を撃退します。これで本願寺は動けないと見た信長は、11月10日、滝川一益、光秀らの兵を動員し、村重組下の中川清秀の茨木城を包囲します。村重組下のキリシタン大名の高山右近には、「村重に従えば、宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を破壊する」と脅し、宣教師のオルガンチーノを派遣し、説得に当たらせます。それに対して、右近の父の高山友照は、村重に従うよう主張しますが、右近は藩主を辞して1キリシタンになる決心をして、信長の元へ向かいます。右近に会った信長は、これを喜び加増(2万石から4万石)の上高槻城主としての地位を安堵します。一方村重に従うことを主張した友照は、村重の元に行き経緯を話し、自身が身代わりになるので人質に入れている娘と右近の子2名の助命を懇願します。村重はこれを聞き入れ、誰も殺害することはありませんでした。
右近が降伏したことを知った中川清秀も降伏し、逆に村重を攻撃する信長軍に加わります。村重謀叛の原因は、清秀家臣の者が本願寺に兵糧を渡したことで本願寺との密通を疑われたことであり、村重に謀叛決行をけしかけた清秀が信長方に寝返ったのは、村重にとって大きな誤算でした。12月8日から有岡城での戦いが始まりますが、有岡城は、東西400m、南北600mに渡る総構えの城で、城内には多数の砦が築かれており、難攻を誇りました。攻める信長方に多数の犠牲者が出たため、信長は、兵糧攻めに切り替え、自身は安土に帰ります。村重は、毛利の救援に期待していましたが、木津川口の戦いで敗れた毛利軍が救援に現れることはありませんでした。そして籠城から約1年経った天正7年(1579年)9月2日の夜、村重は側近5~6名と共に有岡城を抜け出して、猪野川を下り、息子の村次が守る尼崎城に移ります。自身の妻や家族、そして多くの家臣やその家族を城内に残したままの逃亡でした。城主が去った有岡城では、城を守る荒木久左衛門らが頑強な抵抗を続け、陥落しません。そこで信長方は、「村重が尼崎城と花隈城を明け渡せば、本丸に籠る家臣とその家族の命は助ける」という和平案を出し、荒木久左衛門がこれを受け入れ開城します。荒木久左衛門は、村重説得のために尼崎城に向かいましたが、村重は説得に応じませんでした。そこで怒った信長は、城内にいた村重や重臣の家族ばかりでなく、家臣やその家族など600人以上を処刑しました。歴史上信長の残虐性を示す出来事の1つとされています。
ここで、村重の謀叛を考えてみると、何か中途半端です。村重が支配する摂津は、淀川西側から神戸までですから、本気で蜂起すれば信長軍を混乱に陥れることが出来ました。先ず、本願寺を包囲する信長軍を攻撃すれば、本願寺勢と信長軍を挟撃することが出来ました。また、播磨では、備前国境近くにある上月城を毛利軍が攻め、播磨国内では毛利に味方する多数の国人が秀吉に抵抗していましたから、村重が摂津から攻め込めば、秀吉軍を滅ぼすことも可能だったと思われます。なのに村重は、攻撃に出ることがありませんでした。そもそも村重に本気で謀反を起こす気があったのか疑問が残ります。本願寺との密通を疑われ、やる気がなくなったという感じです。村重は若いときから、自分の思う通りにならないと、上司を替え、自分の思う通りにしてきました。今回も自分の思う通りにならず、上司を替えようとしたように思えます。しかし、今回は大義がなく、爆発的な行動にならなかったと思われます。
この村重の謀叛は、本願寺との戦いを終結させ、佐久間信盛追放、光秀の昇進に繋がり、本能寺の変の決行方法にも影響を与えたと思われます。即ち、籠城戦となったら勝ち目がなく、負けたら一族皆殺しになることから、確実に信長を殺害できる方法として本能寺襲撃が考えられたと思われます。
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