明智光秀・徳川家康・春日局を繋ぐ点と線(5)

5.本願寺との和睦

荒木村重の謀叛の項目で見たように、村重の謀叛は、本願寺および毛利との連携を前提にしていました。本願寺および毛利にとっても異存なかったはずで、これが機能したら、信長は窮地に陥ったものと思われます。村重が本願寺を包囲する信長軍を攻撃し、本願寺勢が寺の中から打って出れば、包囲軍を挟撃することが出来ました。また、村重軍が播磨に攻め込めば、秀吉軍を毛利と播磨の反乱軍で挟撃し、壊滅させることも可能だったと思われます。信長は、これを心配し、本願寺との和睦を探ったようです。そこで信長がとったのが、朝廷を動かして本願寺に和睦を働きかけることでした。本願寺側は村重および毛利と連携していますから、応じるはずがありません。案の定本願寺側は「毛利と話し合う必要がる」と回答し、事実上拒否します。その後天正7年(1578年)11月6日、毛利水軍の多数の船が木津川口に来襲し、本願寺に兵糧・弾薬を運び込もうとしますから、村重・本願寺・毛利の連携は取れていたようです。しかし、信長は、1576年の木津川口の戦いでの敗北を教訓に、織田水軍の九鬼嘉隆に命じ、大砲を搭載した大型の鉄甲船を建造させ、木津川口に配備していました。これが功を奏して、今回は織田水軍が毛利水軍を撃退することとなりました。これにより、当面毛利の救援が望めなくなった本願寺では、兵糧・武器の欠乏が心配される状況となりました。これで本願寺は打って出れないと見た信長は、村重の鎮圧に乗り出します。そして天正7年(1579年)10月、村重の本拠である有岡城が陥落すると、本願寺内でも和睦を探る動きが本格化します。そして今度は、本願寺側から朝廷に信長との和睦の斡旋を依頼します。朝廷は、本願寺に勧修寺晴豊らを勅使として派遣します。一方信長も公家の近衛前久を本願寺に派遣して、妥協点を探ります。これにより天正8年(1580年)閏3月、信長と本願寺の和睦が成立します。そして同年4月、顕如は石山本願寺を退去し、紀伊鷺森御坊に移り、本願寺と信長との戦いは終結します。

この和睦は、信長の命で行われたとなっていますが、信長は、朝廷には敬して近づかずの態度であり、これまで天皇には殆ど会わず、官位さえ受けようとしませんでした。従って、信長は、天下布武の戦いに朝廷を利用する気はなかったし、利用価値があるとも思っていなかったと思います。そのため、信長の側に本願寺との和睦に朝廷を利用するよう進言した者がいると思われます。信長側の朝廷との窓口(取次)は光秀であり、進言した者は光秀しか考えられません。光秀は、勧修寺晴豊らの公家と古くから親しく、信長も朝廷との窓口として光秀を側に置いていたと思われます。本願寺との和睦の件は、本願寺・勧修寺晴豊・光秀の間で根回しが行われ上で、信長に進言されたと思われます。この和睦交渉を光秀が信長に進言したのは、1578年に村重が本願寺との和睦交渉を行ったことに触発されてのことと思われます。本願寺との和睦の中心が光秀であったことは、次に起こる佐久間盛信の追放とその後信長が光秀を重用したことから伺えます。また、光秀は、今回の和睦の実現により、朝廷を動かせることが自分の強みであると認識したと思われます。光秀は、本能寺の変後、朝廷を利用して政治体制の安定を図ろうと考えていたと思われます。

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