明智光秀・徳川家康・春日局を繋ぐ点と線(6)

6.佐久間信盛の追放

佐久間信盛は、信長の父織田信秀に仕え、信秀の命令で幼少の時代から信長に仕えていました。信秀死後の家督争いでも一貫して信長を支え、信長の弟の信行が謀叛を起こしたときも先頭に立って戦いました。その功により信長家臣団の筆頭に位置付けられました。その後も桶狭間の高い、長島一向一揆、越前一向一揆、姉川の戦い、比叡山焼き討ち、長篠の戦いなど信長の主だった戦いに参戦し、武功を上げています。

そこで天正4年(1576年)、信長は、本願寺との石山合戦の際、激戦となった天王寺の戦いで、本願寺攻めの総大将だった塙直政が戦死した後の総大将に、佐久間信盛を任命します。信盛には、三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊・摂津という7カ国の大名を与力に付けられ、織田家中で最大の兵力が与えられました。しかし、その間の本願寺との戦いは、硬直し、傍目には、ただ包囲しているだけとも見えました。そんな中で天正6年(1578年)12月には、組下の荒木村重が本願寺の顕如と和睦交渉と行います。しかしこれは失敗し、村重与力の茨木城主中川清秀の家臣の者が本願寺側に兵糧を提供してところを信盛配下の軍目付に見つかり、村重は本願寺との密通を疑われ、謀叛の原因となります。信長家中のその他の軍団に目を移すと、秀吉は播磨・但馬・因幡平定を平定していましたし、光秀は丹波を平定しています。柴田勝家は、北陸で加賀を平定し、能登・越中も平定する勢いでした。このような中で、信盛の本願寺攻めの無策が目立ちました。特に村重が謀叛を起こしたときには、村重・本願寺・毛利勢の連携が機能すれば、信長側は一挙に不利な状況に追い込まれる可能性がありました。それを救ったのは、信長が九鬼嘉隆に建造を命じていた大砲を搭載した大型の鉄甲船でした。そして、本願寺との戦いを最終的に終結させたのは、光秀が朝廷を動かして実現した本願寺との和睦でした。

これらの経緯から、信長は、天正6年(1580年)8月、信盛に19ヵ条からなる折檻状を突き付け、嫡男信栄(のぶひで)共々高野山追放処分を言い渡します。

この19カ条の折檻状の要旨は、以下の通りです。

・信盛・信栄の親子は、5年間天王寺城に在城しながら、積極的に戦わず、調略もせず、ひたすら守るだけだった。

・一方、秀吉、光秀、柴田勝家は、見事な戦果を挙げている。

・信盛は、これまで新たな領地を与えても、家臣に知行を増やしてやることもせず、新たな家臣を雇うこともせず、自分がため込むばかりであった。

・信長が生涯唯一勝利できなかった三方ヶ原の戦いの際には、援軍として駆け付けながら、戦うこともせず、1人の犠牲者も出さなかった。その結果、もう1人の援軍の将平手汎秀(ひろひで)を見殺しにした。

・朝倉勢を打ち破った刀根坂の戦いで、追撃しなかったことを叱ったところ、「そうはおっしゃられても我々以上の部下はお持ちになれますまい。」と言い、信長の面目を潰した。

秀吉、光秀、勝家らに比較すると、信盛が5年間戦果を上げなかったのは事実であり、信盛が格下げになるのは仕方ないと思われますが、その理由として過去の出来事まで持ち出したことから、信長の重臣の多くが「明日は我が身か」と感じたようです。特に、秀吉、光秀、勝家の中では、光秀が信盛の性格に一番近いことから、この思いは光秀が一番強かったと思われます。本能寺の変の直前、光秀は信長の激怒を買い、これが本能寺の原因になったと言われていますが、信盛追放の思い出が光秀の恐怖を増幅させた可能性があります。

また、信盛追放の結果、光秀が信盛に代わり近畿地区の総大将の地位に付いたことから、佐久間家臣団の中では、信盛追放は光秀の讒言によるものという認識があったようです(寛政重修諸家譜)。

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