明智光秀・徳川家康・春日局を繋ぐ点と線(7)

7.長宗我部元親

長宗我部元親は、1539年、土佐の国人長宗我部国親の嫡男として生まれます。1560年、国親の急死により家督を相続し、普段は農業をしながらも鎧と鑓を具備し、戦いがあれば直ぐに駆けつける農兵制度(一領具足)を敷き、領土を拡大していきます。そして1574年には土佐をほぼ制圧したと言われています。この間、1563年には、光秀と同じ美濃の土岐一族である石谷光政の娘を正室に迎えます。光政は当時、室町幕府13代将軍足利義輝に仕えていました。光政には男子がなく、同じく義輝に仕えていた斎藤頼辰(よりとき)を養子とします。頼辰は、同じく土岐一族の斎藤利賢の長男でした。次男が光秀に仕える斎藤利三(福の父)だったのです。その後頼辰も信長による第15代将軍足利義昭の京都追放後、光秀に仕えることとなり、元親が頼辰、利三兄弟を通じて光秀と繋がることとなります。その後頼辰は、元親に嫁いだ光政の娘との間に生まれた長宗我部信親に自分の娘を嫁がせ、関係を深めます。また、養父の石谷光政は、土佐に行き元親を補佐しています。

このような背景の中で元親は、光秀を取次として信長と同盟を結びます。同盟の中では、四国は元親の切り取り次第となっており、元親は四国統一を目指し、伊予・阿波・讃岐へと侵攻して行きます。そして、天正8年(1580年)までに伊予・阿波・讃岐を不完全ながら勢力下におき、四国統一もう一歩のところまで来ます。この頃信長は、摂津の荒木村重の謀叛を鎮圧し、本願寺との戦いを終結させ、播磨も平定していました。その結果、和泉・摂津・播磨の対岸の阿波や讃岐は、信長にとっても重要な地域となっていました。そこで信長は、取次の光秀を通じ、元親の領土は土佐と阿波南部限りとするよう迫ります。このとき実際に元親の説得に当たったのは、石谷頼辰であったと思われます。しかし、既に四国をほぼ支配下に納めていた元親は拒否します。信長側としては、阿波は瀬戸内海の東の入り口で、古くから三好一族が支配し、対岸の和泉、河内や摂津に進出し、京を脅かした危険な地域です。また讃岐も三好一族の勢力下にあり、淡路島を挟んで播磨は目と鼻の先であり、瀬戸内海の制海権を握る上においても重要な地域です。伊予も今後の対毛利との戦いにおいて重要な地域でした。従って、信長に臣従する光秀、その光秀に仕える斎藤利三、石谷頼辰にとっても、信長の考えは十分理解できたはずです。当時信長は、播磨まで支配下に置いており、元親との取次に当たる光秀らは、元親に敵う相手ではないと分かっていたと思います。

ここで信長の指示を受けた秀吉は、仙谷秀久を淡路島に派遣し、支配下に置きます。そして、阿波を支配していた三好一族との取次を秀吉が務めていた関係から、黒田官兵衛(1579年、有岡城から助け出された後、小寺姓から黒田姓に戻した模様)を派遣し、讃岐と阿波の勢力を糾合し、元親と戦う体制を構築します。その結果、阿波や讃岐で元親勢力を後退させることに成功します。

こういう中で、天正10年(1582年)3月、甲斐の武田勝頼が信長勢に攻められて自害し、武田が滅亡します。この知らせを聞いた元親は、信長と戦っても勝ち目はないと悟り、信長の命令に従うことを決心します。しかし、信長は同年5月、3男の神戸信孝を総大将とする元親討伐軍の編成を命じます。

元親討伐軍の総大将には、本来なら取次である光秀が就任するものです。毛利の取次であった秀吉は、毛利攻めの総大将に就任しています。その方が話合いのルートが通っていることから、早く和睦に達することができるのです。光秀も信長に元親討伐に行かせて欲しいと申し出たと思われます。しかし、聞き入れられることはありませんでした。理由としては、秀吉が毛利攻めに出ており、丹波を支配する光秀は、秀吉の後詰めの役割が期待されていたからだと思われます。光秀は、それまでも1年のうちで丹波、本願寺、播磨と転戦していました。従って、信長が光秀を元親討伐に派遣しないことは、光秀にも理解できていたと思われます。

光秀が本能寺の変を起こした原因として、信長の元親討伐への反発があったとの説がありますが、それはないと思います。むしろ光秀は、信長との実力の差が分からず、自分の説得に応じない元親に怒っていたと思われます。そのため、自分が元親討伐に出かけ、早く和睦に持ち込もうと考えていたと思われます。信長は、元親討伐の大将信孝には讃岐を与え、阿波は信長家臣となっていた三好一族の三好康長に与えると約束し、土佐や伊予には言及していないので、早期に元親と和睦する考えだったと思われます。

2014年、林原美術館所蔵の古文書(石谷家文書)の中から、元親が斎藤頼辰に宛てて書いた天正10年(1582年)5月21日付けの書状が発見され、その中で元親は、信長の命令に従うと書いています。元親討伐軍は6月3日渡海で準備が進められており、時すでに遅しの状態だったと思われます。しかし、元親のこの意向は、正式な書面ではなくとも光秀には伝わっていたはずで、5月16日夜信長と光秀が会った際に、光秀から信長に元親討伐軍の渡海を中止して欲しい(或いは自分を派遣して欲しい)と要請した可能性があります。その結果信長が激怒するのですが、これが光秀に本能寺の変を決意させたとは思えません。何故なら、当然断られる、或いは怒られると予期できるからです。本能寺の変を決意させた原因は、これ以外の理性的には解決できないことにあったと思われます。尚、本能寺の変後、石谷頼辰は京を逃れ土佐に来て、元親の家臣になっています。

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