明智光秀・徳川家康・春日局を繋ぐ点と線(10)

10.家康の伊賀越え

天正10年(1582年)6月2日の深夜から未明にかけて、光秀軍により本能寺が襲撃され、信長は自害します。その日の朝、家康一行は堺での予定を終了し、その夜信長主宰の茶会が行われる本能寺に向かおうとしていました。この時点では、本能寺の変のことは一切知りません。家康一行が本能寺の変のことを知ることとなるのは、摂津の枚方まで先行していた本多忠勝に京の茶屋四郎次郎から知らせが届けられ、2人が河内の飯盛山付近まで戻って、家康一行に報告したときでした。ここで家康は、京都知恩院に入り信長の後を追うと言いますが、同行者一同がこれを諫め、三河に帰国することとなります。京や近江は、光秀軍に占拠されていますから、それ以外のルートを取る必要があります。先ず浮かぶのは大和高田から桜井、名張を通って津に抜けるルートですが、大和は光秀与力の筒井順慶の支配地であり、取れません。また信長に多数の住民が虐殺されて(天正9年(1581年)9月、天正伊賀の乱)間もない伊賀を長く通るルートも避ける必要があります。ということで山城の宇治山田、近江の甲賀を通り、御斎峠から伊賀に入り、大和街道を通り加太峠を越えて伊勢に入るルートが選ばれたようです。家康一行には、安土から接待役の長谷川秀一が同行しており、帰国経路の決定や宇治山田での宿泊、甲賀での休憩所の手配などを行ったようです。本件は、「徳川実記」では「神君伊賀越え」と書かれ、さも危険な目に会ったような印象ですが、実際は同行者に1人の犠牲者もなかったことで分かるように、危ない場面は殆どなかったようです。家康一行が取れるルートは限定されており、もし光秀が家康一行殺害を考えていたら、容易に実現できたと思われます。家康一行34名の中には、酒井忠次、本多忠勝、井伊直政、榊原康政の徳川四天王を含め多くの家康重臣が含まれており、光秀が徳川を滅ぼそうと考えていれば絶好の機会でした。しかし、徳川実記には、光秀軍に遭遇したという記述は全くないことから、光秀は家康一行を殺害する気持ちは全くなかったと思われます。むしろ、本能寺の変後速やかに、光秀から家康に本能寺の変決行の事実と接待役として帰路の安全を保証する旨の書状が届けられたように思われます。それは、茶屋四郎次郎を通じてではないでしょうか。家康を安土で接待するとなると、家康の料理の好みや喜びそうな土産物などについて徳川家の御用商人茶屋四郎次郎に相談していたと考えられます。また、接待役として同行した長谷川秀一にも、光秀から家康の帰路の案内を頼むこと、道中の安全を保証することを内容とした書状が届けられたと考えられます。これは、家康一行が山城の宇治や近江の甲賀など光秀支配地に近い場所を通っていることからも推測されます。むしろ家康一行の帰路は、光秀軍に密かに警護されていた可能性があります。光秀は家康を、信長亡き後の政権運営の中心に考えていたように思われます。そして、その考えを本能寺の変後書面で家康に伝えていたのではないでしょうか。これを知らされた家康は、果たしてそんなにうまく行くか確信が持てなかったでしょう。6月4日に岡崎に戻った家康は、早速家康領に逃れていた旧武田家臣や甲斐・信濃にいる家康と親密な旧武田家臣を通じて、甲斐の穴山梅雪領平定やその他の甲斐・信濃の情報収集に動きます。梅雪領については、梅雪に代わり家臣の知行を安堵して平定します。梅雪は、本能寺の変を知った後家康一行を離れ別行動を取り、宇治で落ち武者狩りにあって殺されたことになっていますが、本当は、甲斐に一足先に帰国しようとしたため、旧武田家臣を集めて蜂起することを恐れた家康一行が殺害した可能性があります。甲斐の梅雪領平定とその他の甲斐や信濃の情報収集を優先したため、家康の西に向けた動きは遅れ、当初6月9日出発と発表されます。しかし、今度は西の情報を集めていたためか更に延期され、6月14日になって尾張の鳴海まで兵を進めます。この間伊勢や尾張の織田方からは同盟を確認する使者が来ています。そして15日には、伊勢の織田信雄から光秀を打ち取ったとの知らせがあります。それでも家康は16日、尾張津島まで兵を進めます。19日秀吉から、光秀のことは片付いたので帰国されよと言ってきて、撤収を開始します。

このように三河に戻った家康の最大の関心は、隣接する甲斐の梅雪領を平定することとその他の甲斐や信濃の情報を収集とあわよくば自領にすることだったようです。そして、光秀謀叛後の西の情勢については、慎重に見極めていたようです。家康は、光秀の謀叛は成功しないと踏んでいたように思われます。

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