明智光秀・徳川家康・春日局を繋ぐ点と線(11)
11.福は将軍跡継ぎを生む任務を帯びて江戸城へ
これまで見てきたことから分かるように、福の父斎藤利三と家康との関係は殆ど伺えませんでした。信長一行が駿府・遠江・三河の家康領に来た際に利三も光秀に同行して家康に面会しているかも知れないし、光秀が安土で接待役を務めた際に家康方との連絡に当たっていた可能性はあります。しかし、家康が恩を感じるような関係はなかったと思われます。従って、斎藤利三の娘だったから、家光の乳母になったということはないと思われます。
ならば、福の夫である稲葉正成との関係からとなります。稲葉正成は、元亀2年(1571年)林正秀の次男として生まれ、稲葉一鉄の長男(庶子)稲葉重通の婿養子となります。しかし、重通の娘が死去したため、重通は姪(姉の娘)で斎藤利三死後引き取って養女としていた福を正成に嫁がせます。
福は、天正7年(1579年)、明智光秀家臣斎藤利三と稲葉一鉄娘安との間に、当時利三が守っていた丹波黒井城下で生まれたとされています。利三には、男7人、女3人の子供がいたようです。男子の消息は3男利宗と5男三存(みつなが)以外はよく分かりません。利宗と三存は福の出世に伴い徳川幕府に召し抱えられています。2人の姉は柴田勝全(かつまた)という武将に前妻、後妻として嫁いでいます。福は、本能寺の変後利光が六条河原で処刑された後、美濃の祖父稲葉一鉄が引き取り、その後重通が養女として育てたと言われています。重通は秀吉に仕え伏見に移ったようなので、そこで福は、和歌などの高い教育を受けたと思われます。
一方正成は、重通と共に秀吉に仕えていましたが、秀吉養子の豊臣秀秋が毛利一族の小早川隆景の養子となり小早川家を継いだため、秀吉の命で秀秋付きの家老(5万石)となります。その後、小田原攻めで活躍し、慶長の役(朝鮮出兵)にも秀秋に従って出兵しています。そして、1600年の関ヶ原の戦いで家康に恩を売ることとなります。それは、関ヶ原の戦いの結果を左右することとなった小早川秀秋の家康方への寝返りを主導したからです。正成が家康への寝返りを主導した原因は、朝鮮で蔚山城の救援に駆け付けた際、小早川秀秋が先頭を切って敵軍に攻めかかったことを、石田三成配下の軍目付から秀吉に大将として軽はずみな行動だったと報告され、秀秋は肥前名島30万石から越前北ノ庄15万石への減封転封を言い渡されたことで、三成に恨みを持っていたこと、また家康は秀吉が下した秀秋の転封処分を取り消したことから、家康に恩義を感じていたからでした。これにより、関ヶ原の戦い後秀秋は、肥前名島から岡山55万石へ加増転封となりました。しかしこの後秀秋は、世間から裏切者と言い続けられたことから、裏切りを主導した稲葉正成と不仲となり、正成は美濃に蟄居しました。その後秀秋が死去して小早川家が断絶になると、正成は浪人の身となります。これを知った家康が正成を召し抱えるべく動いたようです。
従って、家康の狙いは福ではなく、稲葉正成だったようです。しかしここで家康は、正成の妻で当時まだ23歳(1579年生)ながら男子3人を生んでいる福に注目します。それは、慶長7年(1602年)秀忠の正室江が子供を産みますが、女子であり、江はその年29歳(1573年生)ともう今後子供を産むのは難しい年齢になっていたからです(秀忠は1579年生れで福と同じ年)。このように、この頃将軍跡継ぎの確保が幕府の重要な課題となっていたのです。家康は、家柄が高くなく、かつ子供を産んだことがある後家や人妻を離縁させて側女としていました。例えば、都摩の方(穴山梅雪の妻。振姫の生母。)、牟須の局(後家)、阿茶の局(後家)、茶阿の局(鋳物師の妻。6男忠輝生母)、西郷の局(後家。3男秀忠、4男松平忠吉の生母)、お亀の方(後家。9男義直生母)などです。それは、有力外戚の排除の意図や男の扱い方を知っており気易かったこともあるでしょうが、子供を生む可能性が高かったからと言います。このことは家康側近の本多正信が述べています。そしてこの正信は当時将軍秀忠の側近となっていました。従って、正信を中心に福に将軍跡継ぎを生ませるプロジェクトが始動したと思われます。この任務を聞いた福は、稲葉家再興のため引き受けることとし、正成と離縁して江戸城に入ります。これは家光が生まれる前の年の慶長8年(1603年)前半のことと考えられます。そして慶長9年(1604年)家光が生まれます。
家光を生んだ福は、当初側室とする計画だったと思われます。しかし、福が信長殺害に深く関わった斎藤利三の娘だったことから、生母とすることは好ましくないとされ、乳母とすることになったと思われます。従って、家光誕生後、京で乳母募集の高札が出され、それを見た福が応募し、家康が決めたというのは幕府が打った芝居だと思われます。
正室の江としては、叔父(信長)殺しの福が生んだ子を自分の子とすることには抵抗があったと思われますが、将軍跡継ぎを生んでいない手前やむをえなかったでしょう。その代わり、次に江が男子を生んだらその子を将軍跡取りとすることが秀忠と江の間で約束されたと思われます。そして江は、慶長11年(1606年)忠長を生むのです。江33歳、意地の高齢出産でした。もし家光が江の本当の嫡子であれば、危険の伴うこんな高齢での出産はしなかったのではないでしょうか。これらを考えれば、忠長誕生後秀忠と江が忠長を可愛がり、これを見た江戸城内の家臣の多くが秀忠後継は忠長と考えたことが理解できます。
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