ノーベル賞受賞者が国立大学に多い訳

日本人のノーベル賞受賞者は27名です。日本人と言っても、日本国籍が24人で外国国籍が3名です。外国国籍の3人は、物理学賞の南部陽一郎氏(米国)、同中村修二氏(米国)、文学賞のカズオ・イシグロ氏(英国)です。日本国籍24人のうち、22人が自然科学分野(物理学、化学、生理学・医学)です。残りの2人は文学賞の川端康成氏と平和賞の佐藤栄作氏です。経済学賞の受賞者はありません。

受賞者は全員国立大学出身者で、私立大学出身者は1人もいません。学力で言えば、慶応や早稲田は東大のすべり止め的になっており、入試の3科目だけなら東大合格者を上回る水準にある学生が多数入学していると思われます。京大には合格しても慶応や早稲田に不合格という受験生が半分くらいいるのではないでしょうか。即ち、大学での専攻に必要とされる学力(3科目とすると)においては、慶応や早稲田の学生やそのOBである研究者は、東大や京大に劣らないレベルにあると考えらえます。しかし、ノーベル賞においては東大(11人)や京大(7人)からはほぼ学力に応じた受賞者が出ているのに、慶応および早稲田からは受賞者が出ていないのです。これはどういう訳でしょうか?

1つは国立大学の理系は昔から基礎研究に力を入れ、私立の理系は就職のための実学に偏っていることはあると思います。私立は就職実績を上げないと良い学生が集まらないことから、就職に役立つ研究に力を入れているように思われます。

それ以外にも、大学の受験科目にあるのではとも考えられます。国立は5教科7科目であり、私立は3教科3科目です。社会人になって思うと、職場では1つの業務をこなすことから、少ない科目を深堀できる3教科型学習が有益なように思えます。その他の科目を勉強する代わりに社会経験や交友関係を広げる活動をした方が社会人となってから有益です。そういうことがあって、会社では国立出身者より私立出身者の活躍が目立ちます。

しかし、研究ではどうも5教科7科目の専攻以外の知識が役になっているように感じます。

確かに大学に入ると理系の場合専門分野の勉強となり、3教科に通じていれば十分です。そして専攻が固まるとさらに狭い分野の深堀となります。ならば入試も3教科で十分ではないかという気がしてきます。しかし、研究者となり専攻分野を深堀して行くと、先が見えない日々を過ごすこととなると思われます。そんな中でふと役に立っているのが入試のために詰め込んだ今は使うことのない5教科7科目の知識のような気がします。例えば、5教科7科目で勉強してきた人の頭には7本の回路が出来ており、縦に専攻に関する太い回路が3本(例えば生物、国語、英語)、横に昔受験のために使った回路が4本(例えば数学、化学、日本史、世界史など)走っています。研究の日常においては縦の3本の回路を働かせていますが、あるときふと横の4本の回路から専攻と関係のない情報が入り込んできて新しいアイデアを提供することがあるのではないでしょうか。例えば、高速道路を走っていて、車窓にふと面白そうな風景を見かけて、次のインターチェンジで降りて一般道を走って行ったら思いもかけない風景や出来事に出会い、これが新たな発想を生むとか、凝り固まっていた発想を柔軟にしてくれるなどの効果が考えられます。この横道にそれるときに働いているのが横の4本の回路ではないかと思います。このように一見無駄だと思える知識が専門分を深堀すればするほど新しい発想が生まれる手助けをしているように思います。ノーベル賞を受賞するような新しい発見や発明は、一本の回路を真っすぐ掘り進んでも出会えず、何気なく横道にそれたときに出会えるような気がします。横道にそれるには、何らかの関心を与えてくれる雑学が必要で、5教科7科目の専攻以外の知識がその雑学の役割を果たしているのではないでしょうか。研究者になるのなら5教科7科目も悪くないのかも知れません。