空海ってどんな人?-2.当時の仏教

(1)山岳信仰と古密教の時代

日本には元々山には神がいるとされ、山は信仰の対象でした。そこで山中で修行する者が存在しました。仏教が入ってきた後も官僧の中には山林修行を行う者がいました。奈良時代に権力を握った道鏡は、孝謙上皇が淳仁天皇を廃し自ら称徳天皇となった際、反乱を起こした藤原仲麻呂を鎮圧しますが、仲麻呂の仲間が山林に隠れ勢力を持つことを恐れ、官僧の山林修行を禁止しました。しかし、官僧の中には官寺を抜け出し、山林で修行するものが後を絶たなかったようです。こんな中、道鏡が失脚した後就任した光仁天皇は、僧の堕落を食い止めるには厳しい山林修行は有効であり、そこから新しい仏教や僧が生まれることを期待して山林修行を解禁しました。

山林修行では、山林は神が宿る清浄な一帯(神域)と見なされていました。一方修行者は自分の中には清浄と不浄が同居しており、不浄なものを追い出せば神に近づけ、神の霊験が得られると考え、山林修行に励みました(修験者)。修験者は、入ってきた仏教の考え方も受け入れます。仏教では罪の原因となる行為を悪、悟りを善とします。山林信仰の考え方と仏教の考え方を習合させ、清浄は善、不浄(穢れ)は悪と考えました。そこで修験者は、穢れを払い落し清浄になるために、山林で厳しい修行を行いました。その代表的人物が7、8世紀頃大和国の葛城山で修行したとされる役小角(えんのおずの)です。こういう中、奈良時代に古密教(雑密)と言われる呪術性の強い密教が入ってくると先ず修験者が受け入れました(*呪術・・超自然的な存在に働きかけて、種々の現象を起こそうとする行為)。修験者は、この古密教の教えに従い、山に籠って呪法を実践します。呪法とは、身体を使った授受の修法(行為儀式)のことで、本尊(大日如来などの仏身)を安置し、護摩を焚き、口に呪文(真言陀羅尼)を唱え、手で印を結び、心に本尊を念じて行う密教の加持祈祷のことです。目的により息災法、増益法、祈雨法などがあるようです。この修行を積めば目的を達成する験力が得られると考えられていました。その後この方法は、官僧や密教系の僧、遊行僧、私度僧にも広がりました。こうした修行を重ねて山から下りてくれば、神(仏ではない)への信仰が厚い村人から超自然的な力を身に付けた人として大切に扱われました。

国家から生活が保障されていた官僧まで山林修行に入ったのには他の理由もありました。奈良時代の718年に大安寺の僧道慈が唐から密教の虚空蔵求聞持法という呪法が書かれた経典を持ち帰ります。この呪法は虚空蔵菩薩を本尊として行う修法で、目的は、知恵と慈悲を虚空(大空)のように無限に持つ虚空蔵菩薩の智慧を獲得することでした。これを獲得すればあらゆる経典を暗記し、たちどころにその内容を理解できるとされていました。即ち、毎日経典の暗記と内容の理解に明け暮れる官僧たちは、この行為を楽にする方法を習得しようとしたのです。確かにこれは、僧だけでなく今のビジネスマンにとっても魅力的なものです。

密教の正式な経典は大日経と金剛頂経ですが、先ず大日経が730年頃入ってきたと言われています。これはサンスクリット(梵字)を漢訳したもので、サンスクリットも残っていたことから解読できる者がおらず、また官僧の試験科目でもなかったことから、どこかの寺の経蔵に仕舞われてしまったようです。従って、当時の密教は正規の密教ではなく、呪術性だけが強調された古密教(雑密)でした。そのような中で大日経を探し出し解読し、唐から新たに金剛頂経の経典を持ち帰ったばかりか、密教の第8代師位となって帰国したのが空海でした。

(2)神仏習合へ

仏教は奈良時代に入る頃から地方にも広がり始めます。この頃地方では、毎年のように起こる疫病や災禍は神の加護が衰えた結果と考えられ、有力な豪族の中にはこれを補うために氏寺を建て、仏像を安置する者が現れました。これが神宮寺の始まりであり、神仏習合の始まりです。

奈良時代の半ばになると、中央の貴族や寺院は荘園を持ち始めます。それに倣い地方の豪族も土地の私有を進め農民を支配下に置くようになります。しかし時代は公地公民制であり、これらの行為は律令違反でした。豪族たちは広がり始めた仏教の教えの下で、罪を意識するようになり、神の怒りや祟りを招くのではないかと心配し始めます。こういう中で現れたのが山林修行を終えた密教系の僧や遊行僧でした。これらの僧は、「滅罪生善」を説き、「心から懺悔して三法に帰依し、喜捨や供養に励めば救われる」「神は仏の教えを守護し助けるもの。神も衆生と同じように仏の教えによって悟りを得る」と説いたのです。これを受け地方の豪族の中には、神より仏に帰依した方がよいのでは、と考える者が現れます。

こういう中で地方の有力豪族が祀っていた氏神が、神託と言う形でその胸の内を山から下りてきた密教系の僧や私度僧、あるいは豪族自身に告知したという話が広がり始めます。神託は、「我々は古来神としてあったが、重い罪業を行ったため、今や災禍や疫病に苦しむ人々を救えない。今請い願わくば永く神の身を離れんが為に仏法に帰依せんと欲す」という内容でした。これは豪族の罪の意識を煽るために密教系の僧が作り上げた話だと思われますが、当時の豪族の心理状態に見事に嵌ったようです。この結果、地方の豪族の中には、氏神を祀る神社の敷地内に仏像の神像を安置するための寺を建てる者が現れます。この寺は、神社の祀る神を仏の教えによって救うもので神宮寺(別当寺、神護寺とも)と呼ばれました。ここには社僧がおり、神社の祭祀を仏式で行っていたようです。こういう中で781年には朝廷が、宇佐八幡宮が祀る宇佐八幡神(応神天皇)に八幡大菩薩という仏教の称号を贈り、鎮護国家・仏教守護の神としました。これにより、神仏習合の考え方は国家公認となりました。この結果仏(仏教)は神の上位の立場へと昇華しました。

更に平安時代に入ると神は仏が衆生を救うために仮の姿で出現したものであるという本地垂迹説が受け入れられるようになります。その結果寺院においても仏の仮の姿である神を祀る神社を敷地内に建てるようになります。この結果、神社には神宮寺が、寺院には神社があるのが当たり前の風景となって行きます。これは明治初期の神仏分離令まで続きます。