空海ってどんな人?-3.空白の12年間

空海は大学に入った年(792年)の翌年くらいから大学に行かなくなったようです。退学したのか休学だったのか分かりません。大学に入学してから遣唐使として唐に行く(804年)までの空海の行動はほぼ空白なのです。空海は18歳のとき(792年)に初稿を出し、24歳のとき(798年)に修正を加えたと言われる三教指帰(さんごうしいき)という戯曲を書いていますが、これは自伝的性格が強く、真魚が大学を辞め、仏教の道を志した背景が読み取れると言います。三教指帰には、空海自身と思われる仏教僧の仮名乞児(かめいこつじ)、伯父の阿刀大足と思われる儒教的現実主義者の亀毛先生(きもうせんせい)および道教を説く虚亡隠士(きょぶいんし)という人物が登場します。この中で仮名乞児はこれから兜率天(とそつてん。弥勒菩薩が住む所)に向かう旅の僧という設定であり、空海が仏教の道に踏み出したことが伺えます。これに対して亀毛先生は、官吏になるため大学に入ったのに、それを捨てることは国恩に背く、さらに私度僧になって社会の体制外によろめき出ることは儒教の仁義礼智信にもとることになると言っていますので、これに反対したことが伺えます。虚亡隠士は道教的視点から僧になることを諫めます。

真魚は大学に入って儒教を中心に学びますが、儒教は人が作った政治や道徳を説いたもので、俗世の取り決めを重んじ、世渡りの工夫しかしていない、儒教の勉強はこれを暗記し内容を理解することであり、この世界の真理とは程遠いと考えるようになったようです。このように考えるようになったのは、仏教の経典に触れたためと思われます。真魚は入学直後から仏経典を読み始めたと思われます。真魚が寄宿していた佐伯院の近くに当時仏教の交流拠点となっていた大安寺がありました。当時この寺に勤操(ごんぞう)という偉い僧がおり、真魚はその聡明さを勤操に認められ気に入られていたようです。そのため勤操の計らいにより、大安寺の経蔵にある経典を読むことが出来たようです。更に勤操の取り計らいにより南都六宗の他の寺の経蔵にも出入りし、経典を読み漁ったものと考えられます。南都六宗のうち三論宗・法相宗・成実宗・倶舎宗は、釈迦の説法を記録した経典よりも、釈迦の教えを解釈し体系化した論書を重視していましたし、律宗は戒律を重視していました。これらは人が解釈して書き下ろしたものであり、理解しやすいものとなっていました。一方官寺の最高位である東大寺が奉ずる華厳宗は、華厳経に基づいており釈迦の教えとは相当かけ離れてました。華厳経の教えは、この世に存在する万物は華厳経の本尊である毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の悟りの表現であり内容であると説いていました。これは解脱や悟りを追及する釈迦の教えとは根本的に違います。宇宙の構成論に近く、哲学的でもあります。実は華厳宗は後日空海が信奉することとなる密教と大変近い内容だったのです。空海が華厳宗を学んだことが密教を志す原因となり、密教を学ぶ上でとても助けになったようです。

空海が最も通ったと思われる大安寺は道滋が唐から密経典の一部を持ち帰った寺で、その経典には虚空蔵求聞持法という呪法が書かれていました。虚空蔵菩薩は無限の智慧を持っており、この呪法を修得すれば虚空蔵菩薩が持つ智慧を獲得でき、84,000と言われる経文の全てを暗記してその内容を理解できると言われていました。仏教を学ぶ僧にとっては是非とも修得したい呪法であり、官僧でも隠れて山林修行を行ったのはこれを修得するためでした。そして、空海も先ずはこの虚空蔵求聞持法の修得を目指して山林修行に入ったようです。空海の消息は、792年の大学入学後遣唐使として唐に向かう804年までの12年間殆ど分かっていません。分かっていることは792年に三教指帰の初版を書いたこと、そして798年に加筆修正を加え3巻として完成させたことだけです。先ほど書いた南都六宗の経典を読み漁っていただろうということや山林修行を行っていただろうと言うのは推定に過ぎません。推定といってもそれらのことがないと遣唐使後の空海の活躍はあり得ないからです。山林修行では大和国の葛城山や吉野山、紀伊の山中で修行した、阿波国の大瀧嶽に行った、そして土佐国の室戸崎に行ったという話が残っています。室戸岬の先端の岩礁に空と海が広がる2つの洞窟があり、真魚はここで修行を行い、ここの空と海から法名を空海としたと言われています。ここで修行していたある日の夜明け、谷で叫ぶとこだまが返ってくるように、目くるめくような音と光とともに明星が東の空に姿を現し、真魚に向かって飛んできて、真魚は明星の光に包まれる体感をしたと言います。空海はこの時の体験を「谷響きを惜しまず、明星来影する」と記すのみで、具体的に表現するのは不可能な体験だったようです。この際空海は虚空蔵求聞持法を修得した(と感じた)ようです。それまでに虚空蔵求聞持法を修得しようと血の滲むような努力を続けていながら、なお修得したという実感が得られなかったとき、それまでの鬱蒼とした山林の中という環境から空と海が広がる開放的な環境に身を置き、個別には完成していた脳の知覚神経が一挙に繋がったものと考えられます。ノーベル賞受賞者が受賞の対象となるアイデアが閃いたという瞬間に似ています。空海の成功は、この虚空蔵求聞持法なしには考えられません。虚空蔵求聞持法は、本の1ページをカメラで撮り脳に記憶する方法のように思われます。本のページを目で見た瞬間に記憶してしまうのです。従って経典なども凄い勢いで暗記できたはずです。また本に書かれた漢字の字体(書体)もそのままの形で記憶したものと思われます。そして記憶した書体をそのまま再現することができたと考えられます。そのため筆で評判をとったのです。空海の虚空蔵求聞持法の特徴は再現力です。1度目にしたものは、即座に再現できたのです。これは絶対音感がある音楽家や似顔絵師を考えれば理解できます。唐で恵果が空海に驚いたのはこの部分の能力だと思われます。空海は、恵果が話した内容を1回で理解し、やって見せた印の結び方などの動作を即座に再現したのです。これなら文句の言いようがありません。こうして恵果は僅か2ヶ月で伝法を終え、師位まで空海に譲ったものと思われます。 空海がいつから真魚ではなく空海と名乗るようになったかは不明ですが、この文では以後真魚ではなく空海と表記します。これにより虚空蔵求聞持法を修得した空海は、奈良に戻りまた経典を読み漁ったものと思われます。その中で密教の大日経というものが日本に持ち込まれていることを聞き、必死に探したようです。そして写しを見つけ解読しようとしたようです。しかし、サンスクリットが混じっていたことからさすがの空海も完全には理解できなかったようです。これに叔父阿刀大足と同じ阿刀氏の出である法相宗の僧玄昉がかって唐に留学していたこと、母方の成功者である佐伯今毛人がかって遣唐大使として唐に行く予定だったことを聞いていたこともあり、遣唐使を志したものと思われます。