空海ってどんな人?-7.都に入れず

大宰府で鴻臚館に滞在した空海は、朝廷に報告するため、唐から持ち帰った密教の経典(仏の教え)、経論(経典の解釈書)、仏画、法具などを書いた一覧表を付けた報告書(請来目録)を作成します。この目録は長さが10mにも及んだということです。空海の最大の懸念は、20年の留学期間を僅か2年余りで切り上げて帰国したことでした。これは闕期という罪に当たりました。従って空海は、この報告書の中でこの弁明に力を入れます。空海はこの中で、「闕期となったことは死して余りある罪であり心から謝罪する、しかし唐で密教の最高指導者恵果から密教の奥義を残らず伝授されたので唐で学ぶものはなくなった、恵果からも早く日本に帰り国家に密教の教えと修法を差し出し、国に広めて人々の幸福に努めよと言われたので帰国した」と弁明しています。これは10月21日の日付となっており、3週間くらいかけて作成したようです。丁度その頃朝廷から高階遠成に上京せよとの命令が下りますが、上京者の名簿には空海は含まれていませんでした(橘勢逸は含まれる)。そこで空海は請来目録と多くの経論を高階遠成に預けて朝廷に差し出して貰うことにします。高階遠成一行は12月13日には京に到着し、ほどなく高階遠成は空海から預かった請来目録などを朝廷に差し出します。年が明けても空海への上京許可は出ません。その原因の1つは、空海が遣唐使船で出発した後、朝廷では空海が国家から認められた官僧でなく私度僧だったことに気付き、問題になっていました。そんな中、遣唐大使だった藤原野葛麻呂が帰国して、空海のおかげで長安に入れたことなどを力説します。その結果朝廷は、805年9月11日付(空海は長安で伝法灌頂を終えていた時期)で太政官符を発令し、空海は804年4月に国家から認められて出家・得度した(官僧になった)ことにしました(翌月5月、遣唐使船は難波津を出発)。

このような問題があった空海が20年の留学期間を2年余りで切り上げて帰国したのですから、問題にならないはずがありません。言うなれば空海はいわくつきの僧ということになります。このとき空海の留学を許可した桓武天皇は没しており、責任者不在の状況でした。

それに加え、805年6月に帰国した最澄が密教を桓武天皇に報告し、桓武天皇の寵愛を得て、日本における密教の最高指導者の地位についていたのです。朝廷内には最澄以外の高僧も仕えていたので、空海から提出された請来目録を見れば、空海の持ち帰った密教が本物であることは直ぐ分かります。しかし、今空海が入京したら最澄の下に出来上がっていた仏教界の秩序が崩壊する恐れがありました。更に桓武天皇の後に即位した平城天皇の下、謀叛の噂や醜聞が空海の上京を阻んでいました。謀叛の噂と言うのは、桓武天皇の第三皇子伊予親王が謀叛を企んでいるという噂です。伊予親王の侍講の1人は空海の叔父の阿刀大足であり、大足も仲間と噂されていました。その結果空海も仲間ではと疑われたのです。これは当時権勢を誇っていた藤原家の内部抗争で、平城天皇擁する藤原式家の藤原仲成と妹で平城天皇の愛人である藤原薬子の兄妹が、南家に繋がる伊予親王が力を持つのを恐れて流した嘘の噂でした。その結果伊予親王は自害に追い込まれます。これが807年11月頃です。この頃空海は大宰府の鴻臚館から同じく大宰府の官寺観世音寺に移って半年経っていました。伊予親王自害後、朝廷は平城天皇・上皇を藤原仲成および薬子兄妹が操る時代が約3年続きます。この結果空海は上京できないこととなります。

 こういう中で翌年808年6月太政官符が発令され、その中に空海は官僧であるからこの夏の課役は見送るという記載と共に、空海を在唐20年間の留学義務から解くよう申し送るとの記載もありました。着々と空海上京の環境作りが行われていることが伺われます。朝廷では、空海を連れ帰った高階遠成や橘勢逸が長安での空海の評価の高さを伝えると同時に、空海が提出した請来目録を見た南都六宗の高僧たちも早く実物を見ることを望んだようです。そして最も空海の上京を望んだのは意外にも最澄だったようです。809年、空海に京ではなく和泉国の槇尾山寺に入るようにとの指示が来ます。ここは空海を評価していた大安寺の勤操が管理する寺で、槇尾山寺への移動には勤操が関わっていることが伺われました。これは、京では平城天皇下で藤原仲成と薬子兄弟が権勢を誇っており、伊予親王事件の影響が残っていることから、空海を京から遠ざけようとしたものと考えられます。

そして翌年の809年4月、平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位します。平城天皇は36歳と若かったのですが、伊予親王が自害した後体調不良となりました。平城天皇はそれを伊予親王の祟りと考え、突発的に退位宣言をしたようです。 嵯峨天皇は唐へのあこがれが強く、書や漢詩に通じ、特に書は一流でした。そこで南都六宗の高僧たちが動きます。と言うのは桓武天皇から平城天皇の時代には、天皇家に禍が降りかかり、これを払うために密教をもたらした最澄が寵愛され、今では宗教界のトップに君臨していました。南都六宗の高僧たちにとっては、この最澄の影響力を削ぐのが悲願だったのです。それには請来目録を見れば分かるように最澄のもたらした密教を上回る密教を持ち帰った空海を押し立てる必要がありました。当時の平安京は南都六宗の影響力を削ぐために遷都されたため、寺としては東寺と西寺しかありませんでした。そこで最澄が拠点を構える都の北東の比叡山寺に対し、都の北西にある高尾山寺に空海を住まわせたらどうかとなったようです。しかし、その頃高尾山寺は最澄の庇護者である和気氏(清麻呂の子広世)の私寺で最澄用の住坊も用意されていました。そこで和気氏から最澄に相談したところ、空海が持ち帰った密教経典を評価する最澄は快く承諾したようです。こうして嵯峨天皇即位3か月後の809年7月16日、槇尾山寺にいる空海に上京せよとの太政官符が発令され、空海は高尾山寺に移ります。