空海ってどんな人?-9・空海と最澄

(1)最澄が日本の密教の第一人者に

最澄は、805年6月唐から帰国して朝廷に帰国報告をしますが、入唐の主目的だった天台宗についての成果よりも、帰国船を待つ間に偶然学んだ密教の方に興味を持たれます。それは最澄が入唐中に唐から当時唐の玄宗皇帝が取り入れていた密教の評判が日本の朝廷に聞こえていたからです。密教は、鎮護国家や禍除去の験力を持つと評判でした。当時弟の早良親王やその母を自害に追い込んだ桓武天皇は、早良親王らの怨霊の祟りを恐れていました。桓武天皇は、最澄がもたらした密教に怨霊祓いを期待したのです。そこで桓武天皇は、最澄に高尾山寺で灌頂を行うよう勅命を出します。そしてその灌頂には、南都六宗の長老も出席するよう命じます。即ち、天皇、皇族、貴族、高位の官吏ばかりでなく南都六宗の高僧まで密教の信者にしようとしたのです。これは最澄帰国後3カ月も経たない時期(805年9月)に行われます。その後最澄は、宮中で桓武天皇の病気治癒や禍除去のため密教の修法を行い、桓武天皇の信頼を深めます。

翌年の806年1月最澄は、桓武天皇に天台宗に南都六宗のように毎年2名の官僧を出す資格(年度分者)を与えて欲しいと上表します。これは天台宗を南都六宗と並ぶ国家仏教とすることを意味していました。この上表はあっさりと承認されます。そこで天台宗は毎年2名の官僧を出すことが出来るようになりましたが、1名は法華経を学ぶ天台コース(止観業)から、もう1名は大日経を学ぶ密教コース(遮那業)から出すとされました。これにより密教は天台宗の1部門とされ(台密)、最澄は桓武天皇から「密教を伝えた第一人者である」と認定されます。こうして最澄は仏教界の頂点に立ちます。しかし、その1カ月半後の806年3月、最澄の修法の効果もなく桓武天皇は病死します。この頃空海は帰国のために長安を発った頃で、このような事実は全く知りません。桓武天皇の死後即位した平城天皇も南都六宗には批判的であり最澄に好意的でしたが、最澄に批判されていた南都六宗は最澄追い落としの機会を狙っていました。

そんな中空海が帰国し提出した請来目録を見た南都六宗の高僧たちから、空海が持ち帰ったのが正統の密教で、最澄が持ち帰ったのは傍流の密教であり、それも一部に過ぎないという評価が広がります。それは否定しようがなく最澄自身も感じていました。しかし国家の公式の立場としては、桓武天皇が最澄を密教の第一人者と認定していました。そこで最澄は、空海が持ち帰った密教の経典を学び、空海から伝法灌頂を受ければ密教の第一人者としての地位を護れると考えたと思われます。

(2)密教経典の貸し借りが始まる

そのため最澄は、空海が高尾山寺に移って1カ月も経たない809年8月24日、最澄からの手紙を持たせた弟子経珍を空海の元に派遣します。その手紙は、借りたい経典として密教経典12部53巻を書き連ねただけの極めて事務的な内容となっていましたが、文末に下僧最澄と書かれ、一応空海への敬意が示されていました。そこで空海は依頼された経典を最澄に貸し出すことにします。最澄の2回目の手紙に「今やりかけていることを成し遂げていないので、お目にかかるわけにはまいりません。いずれきっと教えを授けて頂きましょう。」と書いてあることから、空海は最澄からの1回目の手紙の返書に、密教は面授(師伝)を基本とするから最澄自ら高尾山寺に来て教えを受けるよう説いたようです。最澄から空海への手紙は23通残っているようですが、16回目までは借用依頼の手紙であり、最澄が空海の元を訪れることはなかったようです。しかし、文末には下僧最澄から弟子最澄と書かれるようになっていました。

最澄はこの間天台宗の教義のことは置き去りにし、空海から借りた密教経典の書写と研究に励んだようです。そのため810年1月には天台宗の座主を愛弟子の泰範に譲り、自分は引退すると宣言します。最澄は天台宗の寺務を離れ、密教経典の書写や研究に専念しようとしたようです。しかし座主を譲ると言われた泰範はなぜか喜ばず、その年のある時期に比叡山を下り、近江国高島郡の自房に退去します。それまでも最澄は密経経典の書写と研究に没頭し、天台宗の寺務は泰範に任せていたようで、泰範がいなくなった最澄は狼狽します。そして何度も泰範に考え直して比叡山寺に戻るよう懇願する手紙を書いています。そして最澄は遺言を発表し、その中で泰範を総別当にするとも書いています。しかし泰範は戻りませんでした。その理由については他の僧と折り合いが悪かったからという説もありますが、私は、天台宗(法華経)を信じて比叡山寺に来た泰範は、天台宗を忘れ密教経典の書写と研究に励む最澄に失望したのではないかと思います。

(3)最澄、空海の元を訪れる

そんな中、乙訓寺の別当の任期が切れる2日前の812年10月27日、最澄が突然乙訓寺に空海を訪ねて来ます。その前には空海が最澄から天台宗の重要な教本である「魔訶止観」を借用し、お礼の手紙の中で自分が比叡山寺に出向きたいところだが多忙で行けない、どうかあなたが高尾山寺に来て欲しいと書いています。空海としては密教の師は自分であり、最澄は師に教えを請いに来るべきとの思いが強かったようです。そんな中での最澄の突然の訪問でした。最澄としては、空海から借用し書写した密経経典が相当数に達し、理解も進んだことから、そろそろ空海から密教の伝法灌頂を受けたいと考えてのことだったようです。空海に会った最澄は灌頂を受けさせて欲しいと頼みます。空海はこれまで筆授に拘り、面授を頑なに拒否してきた最澄が、面授が必要な灌頂を受けたいと申し出たことを自分の勝利のように喜びます。そして年内に灌頂を行おうと提案します。最澄は空海のこの提案を年内に伝法灌頂(師となる資格を与える儀式)まで終えると採ったようです。空海は、最澄は11月早々には高尾山寺に来ると思っていたようですが、最澄が来たのは11月14日でした。その為空海は、翌日に金剛界灌頂を行うと言います。それは灌頂の後約1カ月かけて金剛頂経の印の結び方や真言の文句などを伝授することから、次の胎蔵界のことまで考えると時間がなかったからです。翌月の12月14日には胎蔵界灌頂を行っています。そしてそれから面授により大日経の秘法の伝授に入ろうとしたとき、空海からこちらは金剛頂経の秘法の面授より遥かに時間がかかると言われます。最澄は空海が恵果から伝法灌頂のための面授を受けた期間が2カ月であることを知っていましたから、密教を十分に勉強している自分もそれくらいで伝法灌頂を受けられると考えていたようです。そこで最澄が空海に伝法灌頂を受けられるまでどれくらいの期間が必要かと尋ねると、空海は「サンスクリットの真言の深奥を理解するには3年の期間が必要」と答えます。これを聞いて最澄は愕然とします。愛弟子泰範が去った比叡山寺は最澄がいないと維持できません。そこで最澄は出直したいと申し出て、大日経に関する面授は受けずに比叡山に帰ってしまいます。前年の10月に乙訓寺で空海は最澄に年内に灌頂を終えようと言っていますから、11月、12月の2カ月で伝法灌頂まで終えようと考えていたように思われます。ところが最澄が高尾山寺に来るのが遅かったことに加え、面授において最澄がサンスクリットを理解できていないことおよび教えた印契などを速やかに再現できないことから、2カ月では無理で、もう少し時間が必要と考えたように思われます。それは3年間という意味ではなく、もう少し時間が必要と言う意味であり、最澄の本気度を見ようとしたものと思われます。

(4)最澄、天台宗の優位性を主張する

その後空海は最澄に残りの面授を受けるよう促す手紙を書きますが、最澄は密教経典を書写し終えてから教えを請いたいと言い、応じません。その代わり弟子を送るので、弟子に伝授して欲しいと要請します。空海はこの要請を弟子に学ばせ自分は面授を受けない意志と採りますが、最澄の弟子3人を受入れます。3人の中には最澄が灌頂を受ける際に誘って連れてきた泰範も含まれていました。泰範は最澄が比叡山に帰った際にも一緒に帰らず空海の元に留まっていました。他の2名は最澄が新たに送り込んだ円澄と光定でした。空海はこの3人に面授で大日経の秘法を伝授します。空海には最澄の意図は分かっていましたが、伝授を受けた3人は空海の密教に帰依し、最澄の元には帰らないという自信があったようです。結局1カ月間面授を受けた円澄と光定は最澄の元に帰りましたが、泰範は戻らず空海の元に留まります。この泰範に対し最澄は何度も比叡山寺に戻るよう手紙を書きますが、泰範は応じませんでした。そんなこともあって最澄は泰範に当時泰範が持っていた「止観弘決」という天台宗の重要な教本を返還するよう求めます。ついに最澄は泰範と決別する覚悟を固めたようでした。その後最澄は「依憑(えひょう)天台宗」という本を書き、密教の大日経の根本には天台宗の教えが見られると指摘し、密教と天台宗の教義は一致すると主張します。また空海が学んだ恵果の師匠である不空を天台宗の弟子としました。これには空海が気分を害しないはずがありません。

(5)空海、「理趣釈経」の借用を断る

そして最澄が「理趣釈経」という理趣経の解釈書の借用を頼んで来たとき、空海は初めて最澄の要請を断ります。その断りの手紙の中で空海は、最澄を「汝」(なんじ=おまえ)と表現し、面授を嫌い筆授を貫こうとする最澄を痛罵します。面授でなければ実効性のある修法は伝えられないと言います。これは空海が最澄にこれまで何度も説いてきたことです。ここで痛罵にまで至ったのは、理趣経が「十七清浄句」という十七の愛欲行為を肯定する教えを説いていることから、本を貸したら誤った解釈をされ、何を書かれるか分からないという心配があったものと思われます。この手紙の後最澄は泰範宛に手紙を送り、空海が送ってくれた漢詩に返礼の漢詩を送りたいのだが詩の中に知らない本の名前があるのでその内容を空海に聞いて教えて欲しいと依頼します。最澄は、借用依頼を断る空海からの手紙に空海の怒りを感じて、直接聞けなかったようです。その後最澄は、空海に返礼の漢詩を送っています。これに対して空海は、礼状を送っていますから断絶には至っていないようです。

(6)空海は神宮寺の密教化を狙う

その後空海と最澄の書状の交渉は殆どなくなったようです。そして空海と最澄は、己の信念を実現すべく行動します。空海は嵯峨天皇との関係の強化を図ります。2人の間には漢詩や書のやり取りが頻繁にあったようです。空海はそれ以外の多くの時間を高尾山寺で唐から持ち帰った密教経典類の整理に費やしたようです。自分も書写することもあったようですが、多くは知り合いに頼んだり若い僧に書写させたようです。そのため書写に必要な紙や筆、墨などが不足し、大宰府などの知人に協力を求める手紙を書いています。中には米や油の提供を求めるものもあります。空海は窮すると巧みに知人などの協力を引き出します。空海が帰国(806年)してから8年が経った814年当時でも書写が終わっていなかったようですから、如何に膨大な資料を持ち帰ったかが分かります。原本があれば書写は必要ないように思いますが、密教を普及させるためには有力な寺の僧や国司、地方豪族などに書写本を贈り、彼らから更に書写して知人に贈って貰うことが必要だったのです。こうして信者を増やさないと真言宗は成立しないし、南都六宗や天台宗のような国家公認の仏教になることも不可能でした。出来上がった書写本は山林修行で鍛えた弟子たちが全国に運んだようです。書写本には空海の勧請文が添えられていました。その中で空海は既存の仏教と密教の違いを説明しています。空海は既存の仏教を顕教(けんぎょう)と表現し、密教と区別しています。顕教は、永劫の修行により悟りを得た者(輪廻転生の中で悟りを得た者=報人)や釈迦のように現世で悟りを得た者(人の目に見える=応身)の教義であり、衆生を救済する様々な方法を説く。それに対して密教は、大日如来という永遠の真理を仏としたもの(理念としての仏=法身)であり、人の力を借りず自分の心の内で悟りを得る方法を説く、顕教で悟りを得られるのは来世かも知らないし、結局悟りを得られないかも知れないが、密教ではこの世において自分の身で悟りを得る(即身成仏)ことが出来る、だから顕教より密教が優れており、密教に帰依しなさい、と説きます。密教は、現世利益を強調するものであり、地方豪族などにおいては魅力的な教えと言えます。空海の狙いは地方豪族が氏神を祀った神社に建てられ始めていた神宮寺を密教化することだったようです。

(7)最澄は大乗戒壇の設置を狙う

一方最澄は、天台宗と南都六宗の違いを出すため、比叡山寺に大乗戒壇を設けたいと考え、支持を求めて地方の有力な寺を行脚します。当時戒壇(僧になるための授戒の儀式をおこなう壇)が設けられていたのは、奈良の東大寺、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺という大官寺のみでした。しかも小乗戒(具足戒)という戒律の数が250(尼僧は348)という大変厳しいものでした。最澄はこの戒律の数を減らし(58)内容を緩和した大乗戒を授ける戒壇を比叡山寺に設けることを国家に認めさせるべく、地方の寺の支持を求めて歩いていました。これは小乗戒を前提とする南都六宗と真っ向から対立するものでした。これは最澄存命中は認められませんでしたが、822年最澄入滅7日後に嵯峨天皇により認められます。この効果は、比叡山寺が持つ年分度者2名の授戒を東大寺ではなく比叡山寺で行うことができるだけでなく、これまで東大寺に授戒を受けに行った僧が南都六宗に移り、比叡山寺に戻らないというケースが続発していたのを防止できる効果がありました。また他宗も独自の戒壇の設置を目指すことになり、国家管理の戒壇から宗派管理の戒壇への流れ、戒律の緩和・有名無実化が進んで行きます。一方、大乗戒壇が認められた比叡山寺には、多彩な人物が集まることとなり、鎌倉時代になると比叡山寺(後の延暦寺)に学んだ僧の中から庶民に受け入れやすい新しい宗派(浄土宗、浄土真宗、日蓮宗など)が誕生することになります。

大乗戒壇を認めさせるため多忙を極めた最澄は、どうしても空海の元にいた弟子の泰範を呼び戻すべく、再度泰範に手紙を書きます。その中で最澄は、密教に惹かれている泰範を天台宗に引き戻すために、天台宗も真言宗も同じ一乗(悟りに導く教えは唯一つという考え方)の立場を採っているのだから優劣はない、共に天台宗を学び仏教を広めるために全国を行脚しよう、と呼びかけ戻るように懇願します。ここで泰範は返事の手紙に困ります。

空海の密教は、現世利益を強調するものであり、本来多くの人に受け入れられやすいものでしたが、具足戒に加え三昧耶戒という密教独自の戒律もあるという厳しい戒律となっていましたから、最澄の大乗戒の考え方とは相容れませんでした。

(8)空海、泰範の手紙を代筆する

そんな中空海は、最澄が泰範に書いた手紙を知ることになります。空海は、この手紙で最澄が天台宗と真言宗には優劣はないとい言っている点に激怒したようです。空海は、全国に向けた勧請文の中で真言宗こそ最高の教えと説いていましたから、最澄のこの考えに同意する訳には行かなったものと思われます。

ここで空海は、前代未聞のことをします。それは、泰範の最澄への返事を代筆したのです。これは、空海の最澄に対する怒りを伝えるためでした。この中で泰範に成りすました空海は、「泰範言(もう)す」と書き始め、先ずは最澄が戻るように言ってくれることに感謝します。そして自分は、豆と麦の区別もつかないほどの愚か者と言いながら、天台宗と真言宗の優劣については言わずにはおれないと言い、両者の違いを述べます。その中で、天台宗は釈迦が分かりやすい言葉(方便)で衆生に説明した教えであり、真言宗は大日如来の教え(実の教え)をそのまま伝えるものである、という違いは厳然とあると言い、私(泰範)は大日如来の実の教えの醍醐味に夢中なので、方便としての教えである天台宗を修める暇はないと言います。そして最澄には多くの支持を受ける天台宗があるのだから、それに専念し、真言宗には関わらない方が良いとと述べます。事実上の絶縁宣言です。最澄は一読してこの手紙は空海が代筆したと分かったようです。その後最澄は、泰範に手紙を書くことはありませんでした。一方で最澄は弟子が他宗派に流れることを防ぐための諸規則・諸制度作ります。これまで南都六宗は、大きく仏教一門と考え、自由に行き来し学び会っていましたが、この最澄の動きに影響を受けて、南都六宗も僧の流出を防ぐ制度を設けるようになり、後の閉鎖的な宗派制が出来る原因となったようです。しかし天台宗は、法華経に密教、戒律、禅を取り入れていた(四宗相承)ことから、割と幅広く学ぶことが出来、それが鎌倉に時代に比叡山で学んだ僧の中から新しい宗派が生まれる原因となりました。

(9)空海と最澄を比べて見れば

最澄は、6歳で出家し、14歳で得度した根っからの仏教僧であり、最初に学んだ法華経の考え方がベースにありました。そこからできるだけ多くの人々を救うための仏教のあり方を考え続けた人のように思われます。その結果、厳しい戒律は不要という大乗戒の考え方に至り、南都六宗や空海(具足戒に加え三昧耶戒もある)の反対に会いながらも、822年入滅7日後に比叡山寺に大乗戒壇の設置が認められます。これは仏教界の革命と言っても良い出来事であり、国家管理だった授戒が宗派管理に移行し、それまで皇族や貴族、豪族のものだった仏教が庶民に広がるきっかけとなります。そして鎌倉時代には、比叡山で学んだ僧の中から、天台宗の教えを庶民に受け入れられやすい内容や行法に焼き直した新宗派がいくつか誕生します。法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗などです。更に宋から臨済宗をもたらした栄西(比叡山)や曹洞宗をもたらした道元(園城寺)も学んだ寺は違いますが天台宗出身です。これらの宗教が現在まで続いていることを考えると、その母胎を作った最澄は現代仏教の生みの親とも言える存在であり、日本仏教界の泰斗と言えると思います。

 一方空海は、虚空蔵求聞持法を体得した数少ない日本人と思われ、いわゆるスーパーマンです。経典など難なく暗記でき、漢詩や漢文の暗記などは訳なかったと思われます。また、それらが書かれた書体もそのまま記憶し再現できたため、能筆の評判をほしいままにしました。空海は18歳で大学に入学し、官吏に必要とされる儒学などの学問を学んでいることから、盲目的信心はなく、比較探求する姿勢が強かったように感じられます。そのため、今一つ完成度の乏しい釈迦由来の仏教に納得が行かず、更に完成度の高い仏教を追い求めたのです。その結果宇宙論に近い密教に辿り着きます。しかし、この密教が空海の可能性に蓋をしたように感じられます。密教は師伝を必須としたため、個人の解釈が入り込む余地がなく、真言宗から時代に合った新しい宗派が生まれる余地はありませんでした。そのため真言宗は庶民の間に広まらず、一部の人たちの仏教に留まりました。空海が唐で恵果から密教第8代師位を譲られ、密教を伝承する立場に立たなければ、空海は密教を基礎に新しい仏教、空海教というものを作り上げていたように思えます。空海は仏教僧としてよりも高いレベルで何でもできたスーパーマンとして歴史に残る人物だと思います。